第19話 名を持つ者
朝靄の中、二人は再び歩き出した。森の深奥――誰も近づかぬ神域のさらに奥へ。
「お姉ちゃん、どこへ行くの?」
ルークが手をつないだまま見上げてくる。白銀の髪に朝の光が差し、ほんのりと輝いていた。
「北の方にある、賢者の庵。昔、森の精霊と契約した者が住んでいたって聞いたの。そこなら、あなたのことを知ってる人がいるかもって思って」
「ぼくのこと……?」
「ええ。もしかしたら、記憶を取り戻す方法があるかもしれない」
ルークは黙って足を進めた。数日前よりも、彼の歩みは確かだった。転んでも泣かない。虫を怖がらない。背中はまだ小さいけれど、その背には見えない羽があるように感じる。
しばらく進むと、小川に差しかかった。足を止めたルークが、水辺をじっと見つめる。
「この場所……知ってる気がする」
「え?」
「……夢で見たの。小さいころ、弟のぼくが、姉の手を引っ張って、一緒に魚を追いかけて……」
アイリスの心臓が跳ねた。
「それって……本当に、わたしたち?」
ルークはこくんとうなずいた。
「まだ名前もないとき。小さな村の川辺。魚を捕まえられたのは、一度きりだった。お姉ちゃんが、すごく笑ってくれた」
それは、確かに――遠い昔の記憶。弟がまだ人だった頃、病の発作が出る前、ほんのひとときの安らぎの日。
「ルーク……覚えていてくれたのね」
「……ルーク?」
アイリスは口元を緩めた。
「あなたの名前よ。あなたは、私の大切な弟。ルーク。優しくて、頑張り屋で、ちょっとだけ泣き虫だったけど……でも、世界で一番の弟だった」
ルークの目が、ゆっくりと見開かれる。
「ルーク……」
「気に入らなかったら変えてもいい。でも、私は……やっぱりあなたをそう呼びたい」
ルークは数秒、考えるように沈黙したあと、微笑んだ。
「……うん。ぼく、ルークになる」
その瞬間、風が木々を揺らした。小川のせせらぎが、まるで祝福するように響く。
ルークという“名”が、今ここに生まれた。記憶の断片と、姉の想いが繋がって、ようやく少年は“自分”になったのだ。
アイリスはもう一度、ルークの手を強く握った。
「行こう、ルーク。私たちなら、きっとどこまででも行ける」
ルークもまた、力強くうなずいた。
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