第9話 泉の導き
木々をすり抜ける風が、どこか懐かしい香りを運んできた。
森の奥で揺れる青い光に導かれ、アイリスはルークを背に負って歩いていた。
竜の姿のままではあるが、ルークの体は驚くほど軽かった。
その身が傷ついているからなのか、それとも――
「お願い、もう少しだけ、頑張って」
アイリスはそう呟きながら、一歩一歩、柔らかな土を踏みしめて進んでいく。
途中、何度も後ろを振り返った。追手の気配はまだ感じないが、油断はできない。
ほどなくして、森が開けた。
目の前に現れたのは、湖とも見紛うほど大きな泉。澄んだ水面には、空の青と木々の緑が映っていた。
「ここが……精霊の泉……」
湖畔には小さな石碑が立っていた。古代語で何かが刻まれている。
その文字は、転移して以来、自然と理解できるようになった言語だ。
――“願いを捧げる者よ。代償を恐れるな。
命の光は、愛により形を変える。”
「……代償、か」
アイリスは小さく呟いた。何かを得るには、何かを差し出さなければならない。
それがこの世界の掟であり、この泉が持つ力の真理なのだろう。
そっとルークの体を地面に横たえ、アイリスは膝をついた。
泉の中央へ向けて、祈るように手を伸ばす。
「お願い……」
言葉に力がこもる。喉が震え、目頭が熱くなる。
「この子を……この子を人の姿に戻して……! もう一度、あの子と話したい。手をつなぎたい。名前を呼びたい。たったそれだけでいいの。だから……!」
泉の水面が揺れた。光が彼女の手先にまとわりつく。
それはまるで、問いかけのようだった。
――あなたは、何を捧げますか?
頭の中に、誰の声ともつかない響きが広がった。
心の奥を見透かすようなその声に、アイリスは一瞬だけ迷った。
だが、すぐに答えは出た。
「……私の記憶を」
光が強くなる。泉の水が波打ち、まばゆい光が彼女を包み込んだ。
「ルークと過ごした日々の記憶を――全部、あげる。あの子が、あの子自身として生きられるなら。もう“竜”じゃなく、“弟”として、世界を歩けるのなら……!」
その瞬間、泉の中心からまっすぐな柱のように光が立ち昇った。
風が渦巻き、アイリスの体が浮かび上がる。
――優しい記憶が、ひとつずつ剥がれていく。
弟の寝顔。泣きじゃくる彼をなだめたあの日。手を繋いで歩いた、あの帰り道。
胸が締めつけられるような痛み。けれど、彼女は目を閉じたまま耐えた。
「ルーク……どうか、生きて……幸せに……」
そうして、光がすべてを包み込んだ。
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