第12話 リリムと俺と、秘密の距離
夕方、街の喧騒が少しだけ静まり始める時間帯。
ビル街の隅、人気のない路地裏で、俺は地面に腰を下ろしていた。
となりには、疲れたように息をつくリリムがいた。
「……はぁー……疲れたぁー……」
「そりゃあれだけ暴れりゃな。こっちは心臓止まるかと思ったぞ」
「私もびっくりしたよぉ……あんなに来るなんて……」
影たちとの戦いから数時間後。
天見さんが結界で封じてくれたおかげで、それ以上の被害は出なかったが――
俺たちは確実に、「ただの平和な日常」からは一歩踏み出してしまったのだと思った。
「でもさ」
リリムが空を見上げながら言った。
「悠人が助けてくれたの、うれしかったよ。あのとき、ほんとに……ちょっと、やばかったからさ」
「……ああ」
「でもね、悠人の体もなんか変だった。あのとき影に触れたとき、魔力みたいなものが……少し反応した気がするの」
俺はリリムの言葉に少しだけ眉を寄せた。
自分では何も感じなかった。ただ、あのとき確かに“何かが通った”感覚はあった。
熱くて、鋭くて、奥の方をかき回されるような……。
「……もしかしてさ」
リリムが、少しだけ真面目な声で言った。
「悠人って、“そういう人”なんじゃないかな」
「そういう人?」
「ほら、魔界とか天界とかさ、そういうのと縁がある……特別な“器”みたいな」
正直、冗談にしか聞こえなかった。
けど、もしそうだとしたら、仁科さん――隣の住人――の反応にも説明がつく。
彼は確実に、俺たちのことを“見ている”。
敵意はない。でも無関心でもない。あの目には“後悔”と“覚悟”が入り混じっている。
「でも」
リリムが立ち上がって、俺の前に向き直った。
「悠人は悠人だよ。特別でも、運命の鍵でもなんでもなくてさ。……私が知ってる悠人は、ちょっと口うるさくて、でも絶対ほっとけない、そんな人」
「……お前なぁ」
「んーふふ♪ でも、そういうとこ好きかも。ちょっとだけ、ね」
「“ちょっとだけ”を強調すんな!」
「そういうツッコミも、安心するぅ〜!」
にっこりと笑うリリムの顔を見て、
ほんの少しだけ、胸の奥が、やさしくなった気がした。
こいつの笑顔がなくなるのは、やっぱり――嫌だなって。
◆ ◆ ◆
一方その頃。
町の外れにある高架橋の上。
赤く染まり始めた夕空を背に、一人の男が静かに立っていた。
――仁科 蓮。
彼の視線の先には、夕暮れの町並みと、喧騒が遠ざかっていく商店街の灯り。
けれどその目は、現実ではなく、過去の残像を見ていた。
足元には、地面のコンクリートに広がったような、黒い“痣”のようなもの――**魔痕(まこん)**がうっすらと残っていた。
それは、誰かが“異界”から通り抜けた痕跡。完全に消し去ることはできない、魔の揺らぎ。
仁科はその痕にしゃがみ込み、人差し指で軽くなぞった。
冷たい。だが、それ以上に馴染み深い感触。
「……やっぱり、奴か」
呟いた声は、誰に向けたものでもなかった。
だがその声の奥には、確信と憤り、そしてほんの微かな哀しみが滲んでいた。
眼鏡の奥で、彼の瞳が静かに細まる。
「あいつは……まだ、生きていたんだな」
かつて――
自分が天界にいた頃、背を向けた同胞。
自らも堕ち、すべてを捨てたはずの世界に、再びあの影が忍び寄っている。
今、悠人の周囲に現れ始めた“影の者たち”――あれらは単なる魔界の漏れでも、天界の落とし子でもない。
仁科にとって、それは既視感の塊だった。
そして、彼の脳裏に浮かぶ一人の少年。
黒髪で、平凡で、ちょっと口うるさいが――妙に人を引き寄せる、中心に立つ力を持った存在。
「……悠人、お前が……」
その名前を口にした瞬間、指先に残った魔痕がじり、と微かに熱を帯びた。
反応している。彼の中にある“何か”に。
「……この先どこまで関わってくるか……。それとも、関わらされるのか」
彼の声は、苦く、静かだった。
関わりたくはない。だが、見捨てることもできない。
なぜなら、自分もかつて、同じように“関わらされた”側の人間だったから。
天界の役割。堕天の代償。
この現世でさえも、何一つ自由にはならない。
仁科は立ち上がり、ゆっくりとコートのポケットに手を差し込んだ。
その中には、古びたペンダントがひとつ。
かつての仲間から託された、今では失われた天の紋章。
「……まだ、終わってなかったってわけか」
風が吹く。
高架橋の上を通り過ぎる冷たい風のなか、彼の影はひときわ長く、そして孤独に伸びていった。
◆ ◆ ◆
その夜、悠人の部屋。
いつものようにリビングのソファに腰を下ろし、薄く開けた窓から入る夜風が、少しだけ肌寒く感じた。
昼間の騒動が夢だったかのように、部屋の中は静かだった。
テレビの音もなく、照明は抑えめで、ただ二人分の湯気が立ち上るマグカップの香りが漂っている。
「……なあ、リリム」
ぽつりと呟くように声をかけると、リリムはカップを持ったまま首を傾げた。
「なあに?」
ふわっと笑う彼女の顔は、いつものように無防備で、明るくて、でもどこか――少しだけ疲れていた。
「明日、なんも起きないといいな」
自分でも不思議だった。
あんな影の化け物に囲まれて、命のやり取りみたいなことをして、
それでも――今、隣に彼女がいることが、妙に当たり前に思えていた。
リリムは一拍おいて、ゆっくりと笑った。
「うん。でも、起きちゃっても……私が守るからね」
その言葉は、冗談でも気休めでもなかった。
あのとき戦っていた彼女の背中を思い出す。
必死で、怒って、迷いなく前に出て――誰よりも、俺を守ろうとしてくれていた。
「……お前が原因になるパターン、けっこう多いけどな」
からかうように言うと、リリムは小さく肩をすくめて、舌をぺろっと出した。
「……ごめんなさい♡」
そのしぐさが、思いのほか可愛く見えて、思わず目を逸らした。
普段なら、すぐに茶化すところだ。けど今は、なんとなく……そのまま黙っていたくなった。
窓の外の風が、少しだけ強くなって、カーテンを揺らす。
変わらないように見えるこの部屋も、少しずつ確実に、何かが変わっている。
リリムとの距離も、そうだ。
最初は、ただの“トラブルの元”だった。
だけど今は――
気づけば、“いて当たり前の存在”になっていた。
たぶん、これが消えたら……案外、寂しくなるんだろうな。
そんなことを思いながら、俺はそっとマグカップを置いた。
「……おやすみ」
「おやすみ、悠人。いい夢見てね」
リリムの声は、まるで魔法みたいに優しかった。
(つづく)
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