第2話 見よう見まね
水で作られた門を潜ってから、たった一歩で視界が変わった。
鏡のような水面と、どこまでも続く作り物みたいな空。
他国になら、
まあ、『国内最大の幻夢湖にようこそ』なんて看板が立ってる時点で、ここも観光地だけど。
大地に薄く水が張られることで、上下の境界が消える。
足元に広がるのは地面ではなく、雲を映した空の続きのような世界だ。
どこまでも平らな水面が、風のない日は一枚の鏡となり、雲や太陽や星をそのまま飲み込んで映し返す。
歩く人影さえ、空と同化して浮かんでいるように見える。
そんな光景が、視界の果てまで続いている。
幻夢湖は、今までに歩いたどんな場所よりも呼吸がしやすかった。
息を吸って吐く臓器なんて、俺には存在してないのに。
水で出来た門があちこちに立っては、人影がこちらへ渡ると同時に消えていく。
それぞれの門で切り取られた内側は、違う空を映し出していた。
「えー、おもしろ、どうなってんのこれ」
門が消えるギリギリまで、ミライは門の方に顔を向けていた。
体ごと夢の中に潜るなんて、
「水辺同士で繋がっとるんよ。近くの水辺から、どこからでも来れるようになってんねん」
この空間の水、というか水に見える液体そのものが、魔力の塊だ。
夢の中なら、水の上だって歩ける。
「旅館にも温泉あるから、距離的には旅館から直接来れるよ」
補足した
魔力が満ちた空間だからか、一時的に
右腕の内側に、平行に刻まれた線状の古傷が並んでいた。
中学生くらいの時に、
ペンケースと一緒に、ノンアルコールの除菌シートを常に持ち歩いていた。
真夏のほんの一時期以外は頑なに長袖だったし、真夏はサッカーの練習で怪我をしたことにしてテーピングを巻いていた。
というか、最初にサッカー部の試合中に相手と当たって転んで、右腕を捻ってテーピングを巻いてから、その隠れる場所に傷をつけるようになった、の順だった。
前に怪我した場所が癖になってるって言い訳をすれば、疑われないから。
多分、俺の右腕が人肌の色と質感にならない理由だ。
気づいたのは
サッカー部を二年の大会後に辞めてたのに、傷痕を隠すためにテーピングをしてたから、それでバレた。
もうその頃には、古傷になり始めてたけど。
通院の時にバレると面倒だから、やらなかっただけで。
中学を卒業する時には魔術で傷を隠せるようになってたから、
俺が分離した時、
――だからか、
「足元の液体、これ全部魔力の媒体?」
「せやで。特にあの辺りだと色々濃いから、魔力適性が測れるらしいわ」
レタが指した辺りには、妙に広く空いた空間があった。
俺たち以外にも人はちらほら居るのに、レタが指した辺りだけ誰も立ってない。
「どうやって測るんだよ」
「あ、
ピンと来てなさそうなのは、俺、ミライ、
――魔術学校に行ってない面子だ。
「そんなん、表現ならなんでもええで。歌でも、踊りでも、イラストでも。まあでも歌が一番メジャーな測り方やと思うわ。その場に立って歌うだけやで」
「え、じゃあオレやってみたい」
「いいんじゃない? 今誰も使ってないし」
何の迷いもなく、湖の中心に向かって歩く姿は、俳優として舞台を歩く時と同じ。
ミライが立ち位置に着いて、ゆっくりと深呼吸する。
「あの人、かっこいいね」
「なんかドラマで見たことあるかも。似てる人かな」
「本人だったりして」
遠くの数人組、つまり測定場所に割と近い位置から、そんな声が聞こえた。
笑い声混ざり、若い女性っぽい。
一旦、熱烈なファンとは鉢合わせていないようで何より。
ミライが口を開いた瞬間、水面という鏡が揺らいだ。
水面に映っているのは、作り物みたいな青。
ミライの姿だけが、そこから消えていた。
サイダーみたいな声だった。
そういえば、ミライはアカペラになるんだ、魔術で空気を震わせられないから。
そのことに気づいた誰かが、手拍子を始めていた。
手拍子に迎え入れられて、ミライは歌を続ける。
水面から、彼の姿は消えたままだった。
彼自身を隠しつつ、演者として舞台に立つ姿そのものがミライなのかもしれない。
「ただいま!」
ミライはスキップでもしそうな勢いで戻ってきて、話を続けた。
「オレの地味だったし、他の人のバージョン見たいな」
一瞬、
「……僕、やったことあるからパスかなぁ」
「俺はやらんね」
経験者らしい
周囲を見回しても、ミライの後だからか、誰も名乗り出そうにない。
後輩のイラストらしい。
明らかに、急ぎの仕事だ。
「
ミライが、タブレットを覗き込みながら尋ねた。
たぶん、花畑で合流する前には
花畑では案件動画用に撮影してたけど、今なら裏方の仕事が出来る。
「あー、うん。後輩から、ちょっと。急ぎで修正して送ってあげたいから、俺はいいや」
「本業の方ならしゃーないわな」
観光地だからか、
後輩とはいえ、デビューは数か月しか違わないけど。
後輩のデビュー直後から、
しかも、先輩のよしみで、「今度コラボしてね」くらいの口約束で、実質タダ。
当時の
で、その後輩が、事務所を一気に有名にした。
後輩の担当絵師は、連載を抱える漫画家で、新衣装までは担当出来ても、MVまでは無理だったらしい。
だから、MVの打診は
そのMVが、後輩の動画でいま一番再生数の多いやつ。
人気ラノベの表紙でイラストレーターが跳ねる構図と、大体同じだ。
忙しくて、
まあ、実質もう就職してたようなもんだけど。
「俺はどっちでもええよ」
「俺も」
レタが俺の方を見て、俺もそれだけを返した。
別に
「ほな、いんじゃんで勝った方にしよか」
「はいよ」
レタとのじゃんけん一本勝負は、俺の勝ち。
「じゃあ、行ってくる」
水の上を歩き、より魔力が濃い方へ進む。
ミライが立っていたのは、ちょうどこの辺り。
「わ、またモデルみたいな人来た」
「撮影かな?」
「……なんか、綺麗すぎてちょっと怖くない? 人形みたい」
「やめなよ。……言い過ぎだって」
視線を感じた。
さっき、ミライについて話してた人たちが、たぶん俺の顔を凝視している。
俺、そんなに化けるの下手かな。
魔術で別人に化ける時、美形の方が情報量が少なくて簡単らしいから、その辺りが影響してるのかもしれない。
あと、日焼けしないからか、肌が若干青白い。
呼吸を整えて、湖面に映る自分の姿を一瞥した。
そして、胸に手を当て、息を吸う。
口から零れ落ちた音が、水面にボタボタと飛び込んでいく。
この空間なら、楽器も必要ない。
空気と水そのものが、歌に合わせて音を奏でている。
数拍後、足元が黒く染まった。
反射で黒く見えるようになったわけじゃない。
透明だった湖の底に、一瞬で黒い泥が溜まっていた。
泥から無数の黒い蓮が顔を出し、水面で次々と花開く。
泥が人型に持ち上がっては、自壊して水面に戻っていく。
その光景に既視感しかなかった。
三年前に俺が作られた時、何度も自壊した俺の体そのものだ。
水を注がれるまでずっと、砂みたいにぐずぐずだった。
俺は
俺の近くを飛んだ小鳥を、泥の塊が湖の奥底へと引きずり込んだ。
「うーわ。あいつ、天使だろ」
誰かの声が聞こえた。
歌声に合わせて再び不完全な人型を象った泥が、俺のことを囲んでいる。
逃げ出さないよう囲っている檻か、それとも敵意から守るための盾か。
歌い終わるまで何もしてくれるなよ、なんて、泥と観客のどっちに向かって思ったのかも分からない。
ついさっき小鳥を飲み込んだ水面から、小鳥の形をした泥が羽ばたいた。
近くの木に掴まって、ゆっくりと泥から翡翠に羽の色を変えていく。
ほら、俺も小鳥も、ただ泥がその見た目をしているだけ。
歌い終わってすぐに、歌の最中に聞こえた声の方向へ向かって歩き出した。
浮かんだ蓮が、俺の足取りに合わせて静かにほどけていく。
「天使って、何?」
俺が理解出来たのは、天使が多分蔑称だろうってところまで。
俺に話しかけられたその魔族は、突然、魔術を構えた。
喉元辺りに、魔力の気配が漂っている。
杖を使わないタイプの魔族らしい。
化け物にでも見えたか。
そんなに焦らなくても――いや、焦らなきゃいけないのか。
もしも右腕が割れたら、余計に化け物扱いされてパニックでも誘発しそうだ。
『
人前で、
喋ってるのは、足元の水面そのものだった。
「え? あー、うん」
普段、
その時とほとんど同じ、魔力に満ちた声だった。
これだけ魔力が満ちている空間なら、魔道具なんか要らないのか。
話したい内容を思い浮かべながら、ペダルを踏んでる時にだけ話し声を出力出来るやつ――あれ、正式名称なんだっけ。
加湿器みたいな魔術道具にコードがつながってて、ペダルは電子ピアノみたいな踏み込み式。
魔術回路のオンオフを足で操作してるのに、見た目は普通の機材っぽいから、スタジオに持ち込んだって誰も気にしない。
俺は口も含めてトラッキングしてるから、喋る時はちゃんと口が動く。
一方で
……口を機械制御にしてる
「あっ、連れの姉ちゃんにそっくりだ。あの子、化けてるよ」
観光客の集団のどこかから、そんな声が俺まで届いた。
肩の力が抜けたような笑い声と共に、空気がふっと柔らかくなる。
俺が
……
そこを間違われることあるんだな。
筋肉のつき方が違う。
「変身魔術が得意な子か」
「変身したまま測定したらどうなるか見たかったってこと? なかなかやんちゃだね」
「それにしても、魔力量すごくない? 絶対私よりあったよ」
「変身魔術で、湖がバグってたんじゃない?」
「あー、ありそう」
人よりもかなり耳がいい自覚はあったけど、それがこういう形で発揮されるとは思ってなかった。
俺に対するひそひそ話が、全部聞こえる。
その仕草に従って歩き出すと、水面が静かに揺れて、黒かった泥の色を洗い流した。
「
レタが、門の前で手招きをしていた。
潜った途端、視界が水に覆われる。
水底に居たかのような感覚を経て、気づけば俺たちは鍾乳洞へ戻っていた。
湿った石の匂いと、水が滴る音。
俺たち以外には、誰も居ない。
「
「『天使』っていう言葉は、
まあ、あの魔族の声色からしてそういうのだろうとは思った。
魔力量が多く、年齢が制御のレベルに見合っていない個体は、
別に本人が死にかけなければ、何も変わらないのに。
「例えば、俺が本業の話をしてる時に障がい者枠だからって言うのは別にいいけど、誰かが俺を指して、うーわ、あいつ障がい者だろ、って言ったらやばいだろ、そいつが」
そもそも他人に言うようなもんじゃなそうだ。
まさに今こうやって、
「え、じゃあ、そうやって煽った上で、本人が真顔でなんて言ったか詰めてきたからびびってたってこと? ダッサ!」
俺と同じかそれ以上に、魔族のスラングなんか知らないだろうしな。
「聞こえるように天使呼ばわりした時点で、攻撃魔術の一発か二発くらい食らわせても誰も怒らないけどねぇ。やっぱりシメてやればよかった」
「って、
「あ、だから切り上げたの? 悪いね」
俺と相手が不穏だったからもあるだろうけど、最大の理由は
意外と短気だな、こいつ。
「出産以外での
「どこで不安定って思われたんだろ」
変である自覚だけはありすぎて、逆に心当たりを絞れない。
そもそも、俺の体がどうなってるのかを認識されたら、天使とかいう次元の話じゃない。
「泥が鳥を飲み込んだでしょー。あれ、攻撃性が制御出来てないって見え方になったんだと思う」
翡翠に見えたあの鳥は果たして死んだのか、元々魔力で作られたものだったのか。
確かにかなり微妙な話だ。
「あと、見た目」
「あぁ。俺、化けてるだけだもんな」
自覚はある話だった。
不気味の谷に片足くらいは突っ込んでるんだろう。
精巧に作られた美形じゃなくて、認識が欠落した結果だ。
表情も、そんなに動いてないんだろうし。
人の顔を俺が認識出来てたら、もう少しマシだったかもしれない。
鍾乳洞を出て、駐車場まで
いつも通り、車道の位置とは関係なく
「実際のところ俺ってどうなん? 魔力的に。使ったことない魔術が多すぎるから分からんか」
「制御自体はまあ甘めかなぁ。歌ってる時に、魔力ダダ洩れな感じする。でも、魔力的な年齢を考えたら当然。……
「通報してから駅員を呼ぶ」
「じゃあ、三歳の男の子が模造刀を振り回してたら?」
「あー、そういうことね」
三歳の男の子が模造刀を振り回しているのなら、微笑ましいヒーローごっこだ。
俺の魔力核は三年目だから、魔術だけを抽出したらそうとしか見えない。
「
「……うん。でも、魔族なら、ちゃんと魔力の年輪を見れば、
そういえば、白杖の職員は、俺のことを三歳だろうと認識していた。
「せやな。歌ってた位置だと距離があったさかい、ざっくりにはなるんやけど、十二歳以上には絶対にならへん」
すぐ前を歩いていたレタが、そう言いながら振り返った。
「だから、勝手に勘違いしたのはあっち。ちょっと呪っといたから安心して」
「……
「地味なやつだよぉ。一週間限定、一日一回必ず箪笥の角に小指をぶつける、大昔の民間魔術」
「お前はまた、そうやって……」
後ろから、
「法律違反はしてないよぉ。古すぎて、法律に載ってないから」
流石二百二十六歳、でいいんだろうか。
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