第4話 名の呪縛
◇
鳥居ごと分断された空間を、藤の花が取り囲む。社と鳥居の他は藤の花が風もないのに煽られ揺れ、朱色の空が毒々しく空を染め上げていた。
空間を裂かれた瞬間の大地の揺れもおさまらぬうちに、空を滑って黒い刃が降り落ちてくる。それをすべて、イツヒの手のうちに現れた錫杖が叩き落した。黒い煙をあげて霧散する刀の残骸を尻目に、イツヒは向かいのナナシノウロへと微笑んだ。
「千依に当たったら、どうするつもりだったの?」
「多少忍穂千依に当たろうと、死ぬ傷にはいたらない」
「なるほど……。俺、いまの返答でよく分かったんだけど、君のこと大嫌いだね」
「ジャマモノがなにを吠えても、気にはしない」
微笑むイツヒへ、フジナミは色も情もなく言い捨てた。優しい青年を装うことをやめた彼の本質は、この虚無なのだ。人の姿を得、言葉を操り、策略を弄す知恵を得ようと、ナナシノウロとしての性質は変わらない。埋まらぬ虚空を抱いた災害。渇きしかない砂地に雨を乞うように、彼らは虚ろを満たそうと暗澹たる情を望み、力を求め、ふたつの世界を喰い荒らす。
フジナミの腕から渦巻いた黒い疾風が藤の花を散らして巻き上がり、空を裂いて唸りをあげた。それを千依を抱きかかえたまま羽ばたき避けるイツヒの腕の内で、足手纏いになりたくないと、千依は唇を噛んだ。その視界の下にちらりと、
はっと千依はイツヒを仰いだ。
「イツヒ、あの社のうちに勾玉があるの!」
勾玉で力を得たとフジナミは言っていた。ナナシノウロが勾玉に触れることは出来ないゆえに、巣に隠し置いて力だけ引き出しているのだろう。
イツヒの翼が風を打つと共に生まれる揺らぎから、稲光が閃いてフジナミへと轟き落ちる。それをゆらりと彼の足元の影から滑り生まれた、黒い靄纏う藤の花房が薙ぎ払った。力は拮抗。どれだけ隠れて溜め込んだのかは知れないが、抑えることをしなくなったその身からは、歪な妖気が禍々しく迸っている。簡単に倒せる相手ではないだろう。まして、千依を庇いながらとなれば。
「イツヒが相手をしてくれている隙に、私が勾玉を取り戻すわ。そうすれば、力も削げるし、下手に巣をたたんで逃げられて、勾玉ごと追いかけられなくなる心配も減る」
「正直、君をこの手から離すのは気乗りがしないんだけど」
千依を抱えた腕とは反対の手で器用に錫杖をさばきながら、イツヒは彼らを撃ち落そうとする黒い刃を叩き砕いた。が、かいくぐり抜けた刃の先が錫杖をかすり、遊環を甲高く打ち鳴らす。そのままイツヒの頬へと迫ったその切っ先を、チリンとなった鈴の音と共に、淡い光の薄布が包み込み引き離して、遠くへと放りはなった。清廉な白く透き通ったその布は、千依の手首から纏われ伸びている。そちらへとイツヒが視線を下ろせば、譲らないとばかりに真摯に己を見上げる赤い瞳とぶつかった。
「……ここで君を抱きしめたままなのも、ツガイの信に反するかもね」
イツヒはふっと口元を緩めた。瞬間、いっきに体勢を変えて急降下する。思わず首筋に縋りついた千依へ低い声が囁いた。
「君を社の入り口に降ろす。奴は必ず俺が止めるから、勾玉を頼んだよ」
「ええ、ちゃんと、ツガイらしく役に立ってみせるから」
「君がいるだけで十分、俺は力をもらえているんだけどね」
「元の姿でいられるものね」
「まあ、そういう側面も確かに大事ではあるけど、ね」
当たり前のように返す千依に、かすかな苦笑。けれど、違う側面はと尋ねる前に、千依の身体は社の入り口すれすれを掠め飛んだイツヒの腕の内から、柔らかに滑り落とされた。あっという間に見送るだけになった黒い翼の背の上で、ばちりと雷鳴が空気を打ち鳴らし、稲光がフジナミへと注ぎ落ちる。
雷に貫かれて、焼け散る藤の花の香りが甘く焦げてあたりにむせ返った。それに少し咳きこみながら、千依は社への扉を乱暴に押し開く。
そこは隔ても仕切りもなく、ただひと間、白木の質素な部屋が広がるだけの小さな空間だった。一度だけ見たことのある、伊勢の裏社と変わらない。小さいが、なにもないからこそ広々と圧倒される空気をはらんでいる。そして、奥に密やかに
だが千依が一歩足を踏み入れた途端、しんと音が途絶えた。雷鳴も、花吹き散らす風音も、一切聞こえてこない。己が息遣いまで消え果てた感覚は、まるで違う空間に迷い込んだようだ。
長くここにいてはいけない。
妙に確信めいて思って、千依は社の内を駆けた。踏み抜く足裏では確かに白木が軋んでいる感触がするのに、足音はおろかギィと床板の鳴く音すらしない。やはり、なにかが歪んでいるのだ。
忍穂の勾玉はまろく淡い黄色。揺蕩う柔らかな陽だまりの色だ。薄暗い社の中で、なおそれは安置された祭壇の上、紫の布のうちで穏やかな光を放っていた。
不穏な静寂が満たす中、そこだけ切り取られたかのような清浄に、千依は手を伸ばし、掴み取った。瞬間、リンと手首の鈴が鳴る音が響いた。
静寂が崩れる。外の音が社の壁を揺らす。なにが起きるかと身構えて勾玉を手にしていた千依はほっと息をついた。
そのとたん。千依の足元に影が渦巻いた。まずいと思った時にはもう遅く、影の内からするりと藤の花房が伸びあがり、絡みつく。
だがそこへ、真白の稲光が社の屋根を貫き轟き落ちた。眩い白色と焦げつく香り、鼓膜震わす轟音に眩暈を覚えたのも束の間、気づけば千依の身は、またもイツヒの腕の内にあった。雷鳴とともに飛び来た彼が、社の内から掻き抱き攫ってくれたのだ。
「勾玉は?」
「無事、ここに」
最後はイツヒに助けられてしまったが、しおおせたと千依はどこか興奮を帯びた声音とともに握りしめた手を掲げた。勾玉から感じる霊気も間違いなく本物だ。騙されて偽物を掴まされたわけではない。
これで力も削がれただろうと、千依はイツヒの腕の内から降りながら、フジナミの様子をうかがおうとした。が、イツヒに後頭部を柔らかに押さえて、止められる。
「ちょっと派手にぶっ放しちゃったから、あんまり千依は見ない方がいいな。形は一応、君の先輩だった奴だからさ……」
気まずげにぼやくイツヒが、睨みを利かせる先。そこは黒く湿った地面の色がふいに途切れ、赤く染まり変わっていた。焦げた花房が無残に散り、穿たれた腹の内のものと絡んでいる。手を伸ばしても届かぬ場所に割れた眼鏡が転がり、その脇に、硝子に隔てられることのなくなった虚ろな瞳を力なく彷徨わせて、綺麗な顔がぼんやりと彼らの方を見つめていた。
が、ふいに、力なく開いていた血濡れた唇が、意志をもって弧を描いた。
「忍穂千依」
呼ぶ、声が、妙に明瞭にあたりに響く。はっと身を強張らせた千依をイツヒが強く抱き寄せた。だが――
「あなにやし、えをとめを。ボクの妻。キミに刻んだ名が誰のものか、知っているでしょう?ボクらは互いに真名を知り合った。それを呼んで。忍穂千依――いますぐ、ボクを呼ばえ」
千依の手が、イツヒを力いっぱい弾き飛ばした。瞬間、白い光が弾けて、黒い翼が散る。高下駄は子どものスニーカーへ、高い背は千依の胸元までに縮んで、イツヒはバランスを崩していく。大きく瞠られた露草色の双眸には、驚愕に震えた千依の顔が映り込んでいた。けれどその桜色の唇だけが、別の生き物かのようにするりと動く。
「あ、なにやし、えをとこを。藤波、久遠」
笑み刻むフジナミを振り返り、千依の長いワンピースの裾が翻る。ふらふらと頼りなく、けれどまっすぐに進んだ彼女の足は、そのまま震えながら手を伸べ、転がるフジナミの血濡れた頭部を拾い上げた。
「ちよ、」
呼びかけようと慌て掠れた甲高い声が、イツヒの喉を突く。けれど、彼が確かに彼女の名を呼ばうより早く。藤色の花吹雪がイツヒの視界を遮って吹き荒れた。
無力に顔を覆うことしかできなかったイツヒが、ようやくおさまった花嵐にあたりを見渡せば、そこにはもう、千依の姿も、臓腑ごと穿ち抜いたはずのフジナミの身体も消え果てていた。
最後に辛うじて見えたのは、イツヒを振り向きかけた千依の横顔。悔しげに揺れる射干玉の瞳に涙を堪えて。名を紡がされてしまった唇を強く強く噛みしめて。そんなことをすれば、淡く薄い彼女の唇は、容易く傷ついてしまうだろうに、イツヒはそれを緩めるよう手も伸べられなかった。
ただ、また――いや、三度も目の前で大切な人を攫われた、己の間抜けぶりにイツヒは苛立ちとともに頭を抱えた。
と、座りこんだままの膝先に、きらりと薄明りを反射するものがあった。勾玉だ。イツヒを突き飛ばし、フジナミへと引き寄せられる直前、千依が咄嗟に手放したものだ
ナナシノウロはもちろん、妖も本来触れられないはずのそれに、イツヒはそっと手を伸ばす。指先を弾き飛ばされることもなく、千依の残した勾玉は、大人しくイツヒの手のうちの馴染んでくれた。
「忌々しいと思っていた霊力も……思わぬところで俺を助けてくれるわけだ……」
彼をいつくしむ母の在り様に反して、イツヒを悩ませていた力だが、いまばかりは素直にありがたく、イツヒは小さく微笑んだ。
妖力は使えない。本来の力も出せない。けれどきっとこの勾玉は、イツヒのうちの霊力に呼応して、本来霊力を使えないはずの彼に、千依の元に辿り着く力ぐらいは与えてくれるはずだ。
「――忍穂千依、か」
人はいつからか、
(そもそも、あいつ、千依を狙っていたわけだしね)
真名がたやすく手に入るのは、奴にとっては実に都合がよかったに違いない。聞き出す手間が省ければ、あとは己が真名を押し付けて、縁を深くすればいいだけなのだから。
「俺も、真名を告げておけば良かったのかな……」
いまさらに、彼女と強く縁を結ぶことを怖じた、己の覚悟のなさを悔いても遅いのだが。
(馬鹿だなぁ……本当に、馬鹿だ)
手放せなくなることなど、きっとどこかで分かっていただろうに。いつか終わりにしようなどと綺麗ごとで怖じ気を誤魔化して、いま目の前で失って後悔している。
この胸締め付ける惜愛を、どうして押し込めると高をくくっていたのだろう。伸べた手を振り払われ、なお縋りつくのならばそれは忌まわしい鎖を嵌めることになるが、そも指先に触れる許しを希いさえしないのは、ただの意気地なしの戯言だ。
(君がずっと欲しいほど――)
焦がれ狂っているのだと打ち明ければよかったのに。
ため息をひとつ、情けない己へ叩きつけるように吐き捨てて、イツヒは勾玉を手に立ち上がった。
千依を取り戻さねばならない。唯一で絶対である、己が
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