第9話 祖の八家



 しんと穏やかな静寂が、ゆるやかな初夏の日差しに揺れる庭先へ、唐突に戻ってきた。棄ツモノの名残りは、イツヒの雷霆が穿った庭の穴のみ。

 溜まらずこぼれた長い吐息に、緊張がほどけ、安堵が強張った身の内に染みてくるのを千依は感じた。指先が震えていたと、そこで気づく。無駄だと謗られようと、虚祝としての修練は積んでいた。だが為せると意気込む反面、胸の奥底での自信はなかったのだ。ずっと――家族以外には疎まれ続けた力に、誰よりも己が怯えていた。

(できた――……)

 繰り返し噛みしめて、手首の鈴をそっとなぜる。なぜあの少年からもらったただの鈴が、霊具として用をなしたのかは分からない。けれど、お陰で助けられた。あの日、千依の涙を止めてくれたのと同じように――。

(そういえば、どうしてイツヒは、これが霊具として使えるって分かってたのかしら?)

 と、千依の思考を断つように、軽やかな拍手が彼女の耳元で撥ねた。


「さすがはいと愛しき我が汝妹なにもの君。俺に相応しい、最高の花嫁だ」

 縁側下から腕を引かれ、よろめいた身体を抱き寄せられた。瞬間、千依の頬のすぐ横で金色の髪先が揺れ、翼の影が視界を翳らす。緋袴からのぞく足は庭につかずに浮いたまま。膝裏をすくいあげられ、一瞬で千依はイツヒの腕の内に抱きかかえられていた。

「ちょ、急に……!」

「いいから、このまま」

 なにをするのと抗おうとした力を、そっと耳元に囁きかけてきた低音に封じられる。静謐な落ち着きを纏う声音に、その露草色の視線の先をちらりと千依が追いかければ、棄ツモノが消えてなお、怯え震える使用人たちの姿があった。


『黒い翼に、雷……』『あの姿、間違いない……祖の八家はっけだ』『まさか今の世に、こちらに手を貸しに八家の者が現れるなんて』

 イツヒの姿に竦みあがり、ひれ伏す彼らのうわ言に、いまさらに気づいて千依は己を抱き上げる青年を見つめ上げた。


 『祖の八家』――。それは、忍穂を筆頭とする人間側の『祖の五家』と対を成す妖側の存在。妖の中でも、始祖となった地の神に最も近いといわれる血筋の者たちだ。膨大な妖力をいまだ受け継ぎ続けている、妖の世の最上位。

 だが、人側の霊力が衰え出して以来、その血筋がツガイとなって現れることは絶えて久しかった。ただその姿の特徴だけは、脈々と、いまを生きる虚祝の時代まで、畏怖をもって語り継がれていた。八家の者は、黒い翼を持ち、雷を操る――と。


『なんであんな子どもの姿で……騙された。だったらあんなこと口走らなかったのに……!』『誰だよ、妖力がないとか使えないとか言いやがった奴は!』『厄介者の霊力殺しが、祖の八家のツガイに選ばれるだなんて、有り得ない! 寄る辺として使い捨てられるに決まってる』『でも、いま、あいつが封印したし、あんなに仲睦まじそうに……』


 動揺も顕わにひそひそとざわめく使用人たちの声を、よくわめく害鳥だと眺めながら、イツヒは口端を引き上げた。これ見よがしに千依を抱き上げ直して引き寄せ、彼らを振り返る。

「君たちは幸いに思うといい」

 びくりと身を震わせ、一様に怖じた視線がイツヒを仰ぐ。

 柔和に象られた微笑みは、一見、先までの侮蔑の視線も言葉も素知らぬふりで済ませてくれそうであった。人間離れした麗しさもあいまって、思わず、恐れのうちに見蕩れた空気が溶け混じる。


 だが、視線に潜められた冷気が、真意はそうではないのだと、やましい心をぞくりと突き刺してきた。瞬時に畏怖に縛られた使用人たちへ、あくまで優しく、低い音色は告げる。

「祖の八家の血脈たるこの俺を、ツガイとして迎い入れられるだけの器持つ主なんて、そういないよ。その幸運を噛みしめて、君たちには誠心誠意、これからも尽くしてほしいな。俺の妻に、ね」

 怯えた顔つきたちを穏やかな冷たさで睥睨して微笑み、イツヒは千依を抱き上げたまま、悠々と踵を返した。


 千依の兄の居室があるのは、母屋向こうの離れとイツヒは知っている。千依の部屋とはちょうど母屋を挟んで真反対だ。ここはまだ別棟を抜けただけの母屋の端であるから、広大な邸を律儀に廊下を渡って離れまで行くのは面倒だ。

「千依」

 為すがままに腕におさまってくれている不本意げな困惑顔に、イツヒはにっこりと笑いかけた。

「掴まっていて」

「え?」

 広がった黒い翼が、音もなく鮮やかに羽ばたいた。






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