第30話


 病院の中は騒々しかった。慌ただしく走る医者は看護婦たち、立ち話をして煙草を吹かす巡査と火消し。病院の奥からはヒステリックな女の叫び声が聞こえてくる。それを聞いて、巡査たちは苦笑していた。


「あれが例の?」

「そう。男爵家の奥方様。金の心配しかしてないんだぜ」

「お嬢さんのことも気にかけてやればいいのに。息子の婚約者なんだろう?」


 時景は悲鳴の方にフラフラと歩いていった。今日はずっと走っていたせいで、脚はもう限界に近い。それに、現実を知るのが恐ろしかった。一歩進むたびに床からじっとりと冷たい空気が漏れ、彼にまとわりつく。歩みを進めるたびに彼は真実へと近づいていく。

廊下を曲がると、わめく中年女性とそれを宥める若い男性がいた。


「宮園家がなくなったら、ウチはどうしたらいいの!」

「母さん、落ち着いて。宮園家は無くなったわけでは……」

「滅んだも同然じゃない! 会社は? ウチに入るはずだった金は? アンタの仕事は? あんな小娘一人に何ができるっていうの!」


 不快な金切り声。若い男は母親を落ち着かせるのに必死で、時景の存在に気付いていなかった。とても琴乃のことを聞ける雰囲気ではない。時景は呆然と立ち尽くすと、ある病室から中年の女性が飛び出してきた。髪はぼさぼさで頬に煤がついている。


「お嬢様が!」


 悲痛な叫び声だった。最悪の想像が一気に頭に広がっていく。時景はいてもたってもいられなく、誰よりも早くその女性が出てきた病室に足を踏み入れる。

時景の目に飛び込んできたのは、寝台(ベッド)にはぼんやりと座る少女の姿……琴乃だ。良かった、生きていた、本当に良かったと胸を撫でおろす時景。琴乃がゆっくりと彼を見る、その瞳と彼の視線が混じりあう。彼女の目の焦点は合っていないような気がした。彼女は口を開く。次の瞬間、彼は絶望し、地の底まで叩きつけられていた。彼女の言葉は、彼が想定していない物だったからだ。


「どちら様ですか?」

「……琴乃さん……? 何を言って……?」

「お嬢様が、このマサのことも分からないとおっしゃるのです」


 時景は一歩ずつ、彼女に歩み寄る。琴乃は彼を見て怯え、身を引こうとしていた。時景は旅行鞄(トランク)と帽子を床に落とした。帽子はずっと握られていたせいで形も崩れてしまっているが、そんなことは気にならなかった。ただ目の前にいる不安そうな少女を安心させたかったのだ。時景は跪き、琴乃の手を取る。


「俺は、あなたの夫です」

 

 あの日、一瞬でも彼女は「妻になる」と言ってくれた……だからもう、琴乃は自分の妻なのだ。彼は彼女の人生を丸ごと引き取るように、力強くそう宣誓していた。


 そこから先は、琴乃の知る通り。時景は今の琴乃をぎゅっと抱きしめる、もう二度と話さない、辛い目には遭わせないと言わんばかりに。


「あの時、自分の祈りが通じて良かったと思った。あなたが生きてさえいれば、他には何もいらない。あの時の関係が無くなってしまったならば、また一から作っていけばいいのだから」


 琴乃は自分に縋るように抱き着いてくる男が、心の底から愛おしいと思った。きっと、過去の自分も同じように思うに違いない。記憶がなくなっても心は琴乃のまま。彼が愛しいと思うのは、今も昔も、きっと変わらない。


 琴乃が彼を抱きしめ返そうとしたとき、外から何やらか細い声が聞こえてきた。ハッと顔を上げる。その声に時景も気づいたようで二人は耳を澄ます。


「――ちゃん、コトちゃん――」

「もしかして、テルちゃん?」


 テルの声だ。慌てて玄関まで降りていく琴乃、時景も彼女を追いかける。眠っていたはずのマサも玄関にやってきた。


「琴乃様、何事ですか?」

「テルちゃんの声が。待ってて、テルちゃん! 今開けるから」


 時景が玄関の錠前を開ける。そこには青ざめた顔をして、缶箱を持つテルの姿があった。


「テルちゃん、どうしたの? こんな遅い時間に。マスターは?」

「オッサンには何も言ってない。見てほしいものがあるの、これ」


 テルが持っていた缶箱を時景が受け取った。騒がしくなっては近所迷惑だからとマサがテルと居間に引き入れる。電灯をつけると、それはちゃぶ台に置いた缶箱を照らした。


「オッサンのものなの」

「マスターの? 勝手に持ってきてよかったの?」

「わかんない。でも、コトちゃんと先生にどうしても見てもらいたくて」

「……開けるぞ」


 時景が缶箱を開ける。そして、驚きのあまり目を丸くしていた。目に飛び込んできたのは琴乃の女学生時代の写真。そして、宮園家事件に関する切り抜き。新聞だけではなく婦人誌やゴシップ誌の切り抜きまで幅広く。琴乃も小さく悲鳴を上げる。こんなにたくさん、どうして? まさか克治が……嫌な考えばかりが浮かぶ。


「どうしてあのマスターが、こんな記事を集めているんだ!」


 まるで怒っているかのような時景の声。テルは震えたまま首を横に振った。


「わかんないってば! 納戸にあるのを今日見つけたの。ねえ……オッサン、もしかして、コトちゃんの記憶喪失に何か関係があるの?」


 文字は読めなくても、おどろおどろしい文字が並んでいることはテルもうすうす察していた。


「オッサン、悪い奴かもって思って……でも……」

「うん、わかるわ。私も、マスターが悪い人だなんて思いたくない」


 口ではそう言うが、琴乃の胸には不安ばかりが渦巻き始めていた。考えたくはないけれど、克治はもしかしたら、宮園家事件との関りがあるのかもしれない。犯人かもしれない。警察の目から逃れるために、事件の捜査がどこまで及んでいるか調べるために事件の記事を集めていて、まだ琴乃を狙っているのかも……。悪い想像は止まらない。最近、突然店を休みにする日も増え始めた。それは、休んでいる間に悪だくみをしているから? でも……テルと同様に、完全には疑いきれなかった。


「……俺が話をしに行く」

「こんな遅くに? 琴乃様を一人置いて行くと言うのですか? まずは太陽新聞の三郎に連絡をして、日が昇ってからでも」

「朝になったらテルさんがこれを持ち出したことがバレて、ここにやってくるかもしれない」


 ゾッと青ざめていくマサ。琴乃の身を案じるあまり、悪い想像をしてしまったに違いない。


「マサさんはアイツらに電報を打ってほしい。話があるからすぐに来てほしい、と。テルさんはここで琴乃と一緒に待っていてくれないか?」

「……ううん、ウチも先生と一緒に行く」


 テルは勢いよく立ち上がる。


「テルちゃん、大丈夫?」

「一人より二人の方がいいでしょう? コトちゃんは待っていて。ウチ、頑張るから」

「……琴乃は必ず錠をしておくこと。灯りも消して、俺が帰ってくるまで隠れているんだ。分かったな?」

「わかっております。どうかお気をつけて」


 マサは電報を打ちに向かい、時景はテルと共に喫茶ロマン堂へ。店の中は真っ暗で、人の気配はない。


「外出しているのか?」

「……わからない。オッサン、一人で出かけることも多いから」


 一歩踏み入れると、足元から硝子が擦れるような音が聞こえた。思わず飛び上がる時景、テルは慣れた手つきで電灯をつけてくれた。


「なによ、これ」


 店の中はまるで台風が通り過ぎたかのように荒れ放題だった。食器は散らばり、珈琲杯も割れて粉々になっている。強盗が入ったのか……いや、逃亡前に証拠を消すために克治がわざと荒らしたのかもしれない。もしそうならば、人の気配を感じられないのも頷ける。


「先生、納戸が」


 テルが納戸の方を指さした。ドアがわずかに開いていて、小さな灯が揺れていた。ろうそくの火か? 時景は背中にテルを隠しながら、そっと扉を開けた。怖くて下を向いていたテルの目に、散らばった男物の革靴が飛び込んでくる。克治の靴だった。時景の息を飲む音が聞こえ、テルは恐る恐る視線を上げていった。


「……オッサン!」


 納戸の床には克治があおむけに倒れていた。額からは血が流れている、時景は喫茶の台所から布巾を持ってきて、止血するように額に押し当てた。


「オッサン! オッサン! ねえ、なにがあったの!?」


 テルの叫びに克治は全く反応を見せなかった。


「俺は警察を呼んでくる。テルさんは手当てを」

「わ、分かった。ねえ、オッサンってば! 起きてよ!」


 テルに克治を託して、時景は外へ飛び出していた。最寄りの交番がどこだったのかを思い出しながら走り出す。

 克治は襲われたのだろうか? ならば、誰が、どうして?


 そしてこの事件と宮園家事件、繋がりはあるのだろうか?


 息を切らしながら、時景は頭を働かせていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る