第29話


「それでは、今晩八時にここの最寄り駅で。まずは終電に乗ってこの街を出て、どこかの宿に泊まって……朝になったらそこから私の家に向かいましょう」

「はい」

「持ってくるものは必要最低限に。逃げやすいように」

「はい、かしこまりました」


 琴乃は自らの頬に手を当てる。嬉しそうに微笑んでいる。


「私は、あなたの妻になれるのですね」

「あぁ。夢みたいだ」

「なんだか嬉しくて、顔がにやけてしまいます」

「琴乃さん、くれぐれも気を付けて」

「えぇ。絶対にそれを表に出さないように、ですね。心得ております。またお会いしましょう、今晩八時に」


 泣いて腫れぼったい顔だったが、琴乃はまるで何もなかったかのように一日を過ごしていた。しかし心の中はお祭り騒ぎである。親が決めた相手と結婚しなくてもいい、恋をした相手と共に幸せになれる、英先生が一緒に逃げようと言ってくれた! 一生分の幸せが体中に詰まっていて、今にもはちきれんばかりだ。

 でも、それを絶対に表には出さない。この計画がバレてしまったら、描いていたそれらはかき消されてしまうからだ。

 神妙な顔をして授業を受ける琴乃、それは時景も同じだった。いつも以上に引き締まった顔で教壇に立つ。その心は彼女と同じように浮足立っていて、彼女を絶対に幸せにするという固い決意も燃え上がっている。この日、二人は授業中目を合わせることはなかった。


 放課後、時景は誰にも怪しまれないように時間ギリギリまで学校に残り雑務をこなしていた。まるで明日も授業をやるかのように教材の準備をして、素知らぬ顔で同僚たちに挨拶し、ひとたび女学校を出た瞬間急いで下宿に向かう。時間もギリギリだ。

 下宿に着くなり彼にとって必要な物、財布に通帳、当面の着替え、原稿用紙と万年筆を旅行鞄トランクに詰めて、身を隠すように外套コートを着て口元を隠し、帽子を手に持って再び急いで今度は駅に向かった。


 駅に琴乃の姿はなかった。時計は七時半を指している。時景が落ち着きなく歩き回っていると窓口が目に留まり、自然に引き寄せられていく。


「終点まで、大人二枚」


 あらかじめ切符を買っておけば、たとえ琴乃がギリギリに着いても焦ることなく汽車に乗れるばずだ。二枚の切符を握りしめ、時景は時計の真下で琴乃を待つ。空には三日月が昇っている。清かな光が美しい。時景はその月を見て、今日の涙に濡れた琴乃の瞳を思い出していた。自分の手のひらも唇も、あの時の感触を覚えている。琴乃に触れた時に感じた喜びも。彼女が妻になると言ってくれた時の声音も。あれは自分の夢ではない、必ず彼女は来ると念じる。そうしないと心は不安で仕方がなかったのだ。


 時間が迫ってくる。時景は大きく息を吐いた。彼女は一向に姿を現さない。別の駅に行ってしまったか? いや、ここだと約束したはずだ。なぜ来ない? ……もしかしたら……頭をよぎる嫌な考えを振り払うように、時景は頭を大きく横に振った。


 しかし、いつまで経っても琴乃は姿を見せなかった。期待感より膨らんでいく諦め。やはり駆け落ちなんてものはただの夢物語で、現実には起こり得ないのだ。彼女だって駆け出しの作家と共には暮せないと目を覚まし、家に残ることを選んだに違いない。それこそが現実が描く筋立てだ。時景は呆然とその場に座り込んでいた。夜の駅を行き交う人はまばらだが、皆じろじろとがっくりと肩を落とす時景を見ている。


 終電までまもなく、という頃。駅にやってきた客が駅員に声をかけていた。


「聞いたかい? あっちのお屋敷で火事だって」

「火事? それはまた大変なことで」

「死人もでてるってさ。……もしかしたら、殺されたんじゃないかって」

「殺人!?」


 噂話と駅員の驚く声に、時景は耳をそばだてた。嫌な予感がする。


「あっちで警察がうじゃうじゃ聞き込みしているよ。なんていう名前だったか……あの成金の……ミヤシタ? いや、違うな……?」


 時景はゆらゆらとその客に近づいていく。どうかこの悪い予感だけは当たっていないでほしい、と願いながら客に話しかけていた。


「……もしかして、宮園という家では?」

「そう! 繊維の宮園!」


 一気に時景の顔が青ざめていく。まるで氷水に浸かったみたいに体は冷たくなっていき、体は震え、歯からカチカチという音が聞こえてくる。旅行鞄と帽子をぎゅっと掴み、時景は震える膝のまま再び走り出していた。


 火事? 死人? まるで悪夢のような言葉だった。嘘だと信じたかったが、宮園邸が近づくにつれて焦げ臭さが鼻についた。邸宅を取り囲む野次馬を巡査が立ち入らないように押さえている。最新式の火消しのポンプ車が並んでいる。野次馬をかき分けた彼の目に飛び込んできたのは焼け落ちた宮園家の邸宅。豪華絢爛と持てはやされた洋館の姿かたちもない。火がまだくすぶっているのか、白い煙が立ち上っている。


「女中のマサさんと、あの書生は外に出ていて無事だったってさ」


 野次馬の話し声が聞こえてくる。時景は耳を澄ました。


「他は? もしかして、家族もろともかい?」

「いや、一人だけ。お嬢さんが火事から助け出されたって。病院に運ばれていったのを見たけど……ぐったりしていて、あれはもうダメかもしれないね」


 時景はその野次馬につかみかかる。巡査が止めに来るが、今はそんなことに構っていられない。


「そのお嬢さんが運ばれた病院は?!」


 叫ぶように問いただす時景。その剣幕に驚いた野次馬は戸惑いつつも教えてくれた。


「畑中医院だって聞いてるよ。ここから近いし」

「分かった、ありがとう」


 野次馬から手を離し、時景は今までにないくらいの速度で走った。胸が苦しくて悲鳴を上げているが、脚は決して止まることはない。時景は祈りながら、病院に急いだ。ただ無事でいてほしい、と。これはきっと、恋に逆上せ上ったあげく彼女のことを少しでも疑った自分への罰なのだ。だから神は、彼の愛しい琴乃に罰を下したのだ。なんて愚かな神なんだ。時景は心の中で天上の存在に悪態をつく。悪態は徐々に彼の願いへと変わっていく。


 琴乃が生きてさえいれば、もうそれでいい。


 畑中医院は宮園邸から走って五分ほどのところにあった。警察がうろついていて、玄関前には車も止まっていた。時景は息を整えることなく、その中に飛び込んでいった。

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