第8話


 ***


 中々花を咲かせない鉢植えの世話をしていた琴乃が思い出したのは、喫茶ロマン堂だった。確か「従業員募集」の貼り紙があった気がする。思い立ったが吉日、善は急げ。二人が琴乃の思惑に気づく前に、そっと家を出てロマン堂に向かう。お店はまだ準備中だったけれど、琴乃の来訪に気付いた克治が快く開けてくれた。


「お嬢さん、ご無沙汰しております。今日はお一人で?」

「あの、マスターさんにお願いがあるのです!」

「お願い?」


 中の掃除をしていたテルもやってくる。二人の目を見ながら琴乃は自分の思い付きを一気に打ち明けた。


「このお店で、私を雇ってはいただけないでしょうか?」

「え! 一緒に働いてくれるの?」


 真っ先に喜んだのはテル。克治は難しそうに眉をひそめて首を傾げている。


「それは英先生がどう言うか……」

「どうして働きたいの? こんな汚い店で」

「汚い店って言うな」


 琴乃は英家の事情をかいつまんで説明する。それで少しでも収入を増やすために仕事をしたいと思ったけれど、記憶がない自分を雇ってくれるところはそうそう見つからないだろう。でも、彼女の事情を知る克治の店ならば雇ってくれるかもしれない。いや、雇ってほしいのだ。琴乃がそう克治に食い下がると、彼は戸惑いながらも頷いてくれた。


「高い給金は出せませんが、それでよければ、ぜひ。早速明日からでも」

「ありがとうございます、マスターさん!」


 テルが嬉しそうに手をパチンと音を立てて合わせる。


「一緒に働けるなんて嬉しい! ねえねえ、コトちゃんって呼んでもいい?」

「もちろん! よろしくお願いします、テルさん」

「テルちゃんでいいよ! 堅苦しいのはなしにしよう!」


 二人は笑いあう。コトちゃんなんて呼ばれるのは初めてなはずなのに、琴乃はそれに懐かしい響きを感じていた。

 明日の開店前から働きに出ることを確認して、琴乃は帰路についた。彼女はちょっと浮かれていた。これで二人の役に立てる、そのことが嬉しくて。

 まさかこんなに心配をかけていたとは、帰宅するまで思いもしなかった。


 全ての事情を話すと、琴乃は居間でしゅんと肩を落としていた。身勝手なふるまいだったと反省する。時景もマサも、琴乃が帰ってきて安心したと思ったら、次はその大胆な行動に戸惑っていた。時景は細く長くため息をつく。何を驚くことがあろうか、彼女は元々『そういう人間』だったじゃないか。彼女には無鉄砲な一面があるのだ。この前だってテルを助けるために暴漢たちに立ち向かい、それ以前だって……彼の瞳に安心の色が滲む。琴乃の本質は、記憶を失くす前後で変わっていない。そのことが嬉しかったのだ。

 琴乃はすぐにその彼の変化に気付いていた。どうしてそんな穏やかな顔をするの? 琴乃の胸に過るのは、時景が抱いている感情とは全く正反対の「不安」だった。


「……先生?」

「いや、とにかく、琴乃さんが無事に帰ってきて良かった」


 突拍子のない行動に彼女の過去の片鱗を感じている場合ではない、と時景は気を引き締める。働きに出るということは新たな刺激を受けるに違いない。それが記憶を取り戻すきっかけになるのかもしれないのだから、マサと共により一層注意を払っていく必要がある。今はとりあえず、彼女の献身に感謝しておこう。時景が頭を下げると琴乃は大いに慌てていた。


「琴乃さんにはご迷惑おかけしますが、どうぞよろしくお願いします」

「いえ! こちらこそ、これからも末永くよろしくお願いいたします」


 まるでこれから結婚する男女のようだ、とマサは二人の様子を見ながら思っていた。


 ***


「コトちゃん、紅茶お願い!」

「はーい」

「たった数日なのに、もうすっかり淹れ方を習得したな。さすがコトちゃん」


 ロマン堂で働き出して数日。テルが給仕の仕方、克治が珈琲や紅茶の淹れ方を教えてくれたおかげで、琴乃は白いエプロンの女給姿が板についていた。克治も「お嬢さん」という他人行儀な呼び方を変えて優しく接してくれる。ロマン堂に訪れる客も茶を淹れる女給の姿が新鮮なようで、琴乃目的で何度も注文してくれる客まで現れるようになった。すっかり人気者の看板娘だ。不埒な客もぐっと増えた。そいつらが琴乃に話しかけようとするたびに、テルはこう釘を刺していた。


「コトちゃんには旦那様がいるからね」


 テルがそう言うと、不埒な客たちはすぐ引き下がった。うまくかわすことができない琴乃にはテルの存在がとても頼もしく見えた。

 繁盛する時間帯が過ぎ、三人は休憩に入っていた。三人で紅茶を飲む。琴乃が茶を嗜む姿を見ながらテルは明るい声ではしゃぐ。


「やっぱり、いいとこのお嬢さんだったんだよ、コトちゃん! まだ何も思い出せないの?」


 琴乃は頷く。改めて指摘されると不安になる。テルだって克治だって、時景だって、自分自身が何者でどこからやってきたのか分かるのに……自分にはそれが分からない。記憶を遡ってもあの病院で目覚めた時以前のことは思い出せない。琴乃の不安に満ちた横顔を見て焦ったのか、テルは一層元気な声を出して琴乃を励ましてくれる。


「ウチも調べてあげるよ! あ! 貼り紙を作るのもいいんじゃない?」


 貼り紙なんてまるで指名手配の犯人みたいだ、と琴乃は思う。テルは次から次へと案を出してくる。


「それか、お客さんに聞いたり。ねえねえ、オッサンの昔の伝手ってやつは?」

「マスターの伝手?」

「そうそう。何か昔、裏社会に出入りしてたんだって」


 恐ろしい響きに琴乃が身を震わせていると、テルの隣に座っている克治は手刀でテルを諫めた。


「昔ちょっと賭博場に行っていただけだろ。俺はそんな怪しい伝手はない。それに、コトちゃんの事情に無関係のお前が首を突っ込むな」

「えー、何でよ」

「これはコトちゃんが解決するべき問題だ」

「……うん、私もそう思う。でも、ありがとう、テルちゃん」

「ちぇっ」


 テルが色々考えてくれたけれど……そのどれも琴乃の正体に近づくのは時間がかかるだろう。最短で、的確に自分の失われた記憶に辿り着く方法。琴乃はそれを知っているし、その手段が一つしかないことに気付いていた。


「お、英先生だ」

「もうそんな時間?」


 扉の摺りガラス越しに映る「彼」の影を見た克治は珈琲を淹れるため席を立つ。時景が扉を開けると、琴乃は小さく頭を下げた。彼女の仕事の時間の終わりに近づくと彼は必ずロマン堂にやってくる。珈琲はついでで、彼の本来の目的は琴乃の迎え。一人で帰れるから大丈夫だと言ったのに……心配のあまり彼は琴乃が働き始めてから毎日迎えに来てくれる。嬉しいやら恥ずかしいやらで琴乃は顔を伏せてしまう。


 帰り支度のため納戸に向かった琴乃の代わりに、テルが時景に珈琲の給仕をしてくれた。たとえ場末の喫茶とはいえそんなに安いものではないのに、彼は毎日やってきては珈琲を頼む。それがテルにとって不思議で仕方ない。


「……コトちゃんが働かなきゃいけないくらい家にお金ないのに、珈琲は飲むんだ」


 先ほどよりも強い手刀がテルの脳天に落ちる。テルの背後では克治が怒りの形相を見せていた。


「英先生、すみません。コイツはちゃんと叱っておくんで」


 身支度を整えた琴乃の視界に飛び込んできたのは、気まずそうな時景の横顔と、頭を抱えるテルと何度も頭を下げている克治の姿だった。


「皆さん、どうかなさったんですか?」

「いや、何でもない。もう行こう、琴乃さん」

「でも先生、珈琲を飲んでいらっしゃらないみたいですが……」

「いいから」


 時景は珈琲を少しも口にしないまま、代金だけを置いて店を出てしまった。琴乃も慌てて彼の後ろに続く。何があったのか、今度テルに聞いておこう、心の中でそっと決意して琴乃は彼の隣に並んだ。


 二人で歩くこの時間が、琴乃にとっての新たな幸せになっていた。

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