第二章

第7話


 過去の自分について知りたい。琴乃がそう思うようになってから数週間経っていた。その間何度も勇気を振り絞ろうとしてもできなかった。そんなもやもやとした日々を送っている内に、時景の連載が終わる日がやってきてしまった。

 お国のため戦地に行っていた恋人は無事に戻り、ヒロインは恋人と共に事業を立ち上げる。家族にも結婚が認められ、二人は正式に夫婦となって物語が終わる。とても幸せな物語の終結に、琴乃は心の中で拍手喝采していた。もちろん、時景にも「すごく良かったです」と伝えるのを忘れずに。その時の彼の満足そうな顔と言ったら、思い出すと琴乃まで嬉しくなってしまう。

 暇さえあれば、琴乃は何度も彼の小説を読み返す。読むたびに、ヒロインが羨ましくて仕方がなくなる。いつか自分も……琴乃はそんな夢を思い描いていた。あの日、手を繋いで帰った日から、そんな想像を繰り返しどんどん膨らんでしまう。けれどその度に、琴乃は「自分みたいに出自も分からない人間に懸想されても」と自分の夢を潰していた。

 物語はいいな、琴乃はそう思わずにはいられない。物語は、時景の手で幸せな結末を迎えることができる。自分も時景の物語の登場人物なら良かったのに、と恨みがましく思ってしまうほど。


 それはそれとして、英家はある窮地を迎えていた。


「……今日もおかずはこれだけですか、マサさん」


 時景の声には不安が滲んでいる。食卓に並んでいるのは玄米ご飯に小さなイワシの煮つけ、薄く切られた漬物に具のない汁物。こんな食事が三食、連載が終わった日から続いている。あまりに質素すぎる。時景が文句を言う気持ち、琴乃も少し理解できる。


「そりゃ、先生のお仕事が無くなってしまったんですから。新しい仕事が入ってくるまでは節約しませんと。文句がございましたら、早く小説を書いて売ってきてくださいな」


 マサの言葉にぐうの音も出ないのか、時景が押し黙る。新聞や雑誌に時景の小説が掲載されなければ原稿料は入ってこない。まだまだ駆け出しの作家である彼に仕事を依頼する新聞社や出版社は少ない。貯蓄がないわけではないが、心もとない。時景が早く仕事にありつかないと英家はこのまま衰退していく未来しかないのだ。


「しばらく節約生活ですからね。よろしくお願いしますよ、先生」


 ピシャリと言い切るマサ。生活全般を世話になっているから、時景は言い返すこともできずひたすら頷いていた。マサは琴乃を見る。


「琴乃様は何も気にしないでください。私と先生で解決いたしますから」


 そうはいっても……自室にこもる時景と、帳簿とそろばんを見ながら呻いているマサを見ていると琴乃だって申し訳なさが募る。何もできない自分が腹立たしくって仕方ない。二人のためにできることはないだろうか? 琴乃にできることと言えば、食事の支度の手伝いか、葉っぱだけが伸びて一向に蕾もつけない鉢植えの世話だけ。

 本当にそれだけ? 琴乃は唸りながら考える。


「あっ」


 庭で鉢植えに水を上げていた琴乃は『あること』を思い出していた。手桶と柄杓を置き、そっと家を出る。きっと琴乃の計画を知ったら時景もマサも止めるに違いない。だから二人に気付かれないように……。


 昼時になって、やっとマサは琴乃の不在に気づいた。いつもいるはずの庭にも居間にも姿はなく、具合が悪いのかと思って彼女の部屋を覗きに行くがそこにもいない。マサは隣の部屋にいる時景に向かって声をかける。


「先生、大変です! お嬢様がどこにも……」


 動揺するマサ、部屋から出てきた時景も言葉を失う。この家で暮すようになってから、彼女がいなくなったことなんて一度もない。彼女が外出するのは買い物や病院に行くときくらいで、それも必ず時景かマサが付き添っている。


「本当に? 家のどこにも? 押し入れは?」


 そんなところに隠れるはずないのは分かっているのに、二人とも琴乃の部屋の押し入れを開けてはがっくりと肩を落とした。どんどん青ざめていく時景。不安ばかりが頭を駆け巡る。どうして姿を消したのか見当がつかない……もしかしたら記憶が戻り、自分の家に帰ろうとしているのか?


「俺、近所を見てきます。もし俺が帰ってくるまで琴乃さんが戻ってこなかったら警察に」

「え、えぇ、よろしくお願いいたします、先生」


 時景が下駄を履いて戸を開けようとしたとき、それはゆっくりと動いた。現れた人物に二人は目をパチクリと瞬かせる。


「ただいま帰りました。先生、マサさん、どうなさったのですか?」

「どうなさった?! それはこちらのセリフです、お嬢様!」


 思わず『昔』の呼び方に戻ってしまったマサを諫めるように時景はそっと彼女の肩を叩く。マサはとっさに口をつぐんだけれど、顔は真っ青なまま。琴乃も無断で外出したことで二人に心配をかけたことに気付いて、すぐに頭を下げた。


「ごめんなさい、勝手に出かけてしまって……」

「いや……琴乃さんが無事に帰ってきて良かった。それで、どこに行っていたんですか?」


 時景は尋ねる。そして琴乃の返事に仰天していた。


「私、明日から働きにでることにしました」


 二人は驚きのあまり口をあんぐりと大きく開け、目を見開いた。


「俺は聞いてませんよ、そんなこと! 働きに行くなんてそんな」

「無事に仕事先も見つかりましたから、ご安心くださいませ!」

「ご安心って、琴乃様、どこで働くつもりですか?!」


 落ち着きなく聞いてくる二人を安心させようと琴乃は最大限の笑顔を見せ、外出してからのことを振り返っていた。

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