第16話:天羽璃奈の件


 目に見える全てを救う。


 それは、天羽璃奈という少女の根幹に根付いた信念である。


 善を尊び、分け隔てなく全てを愛し、人々の笑顔を守る。

 聖人そのものともいえる彼女の在り方は、生まれついてのものではない。


 彼女は厳しくも優しい母にエクソシストとして育てられ、幼い頃より悪魔と関わってきた。


 悪魔と関わり、その悪行を知った。

 苦しむ人々を知った。

 この手には悪魔を葬り去り、苦しむ人々を救える力があるのだと知った。


 そうして天羽は芽生えたその想いを大切に、より一層鍛錬に励んだ。 


 自分にしか出来ないことがある。

 自分が頑張れば救われる人がいる。

 そう思うと、力が湧き上がってくる。



 ――――き、



 救った人の笑顔を見れば、自分も救われた。

 救えなかった人を想い、涙が溢れた。



 ―――――つ、き



 鍛錬でボロボロになった手で銃を握った。

 母から譲られた大切な銃。

 この力で、より多くの人を救う。

 救って見せる。




 ――そ――つ、き



 天羽璃奈には立ち止まっている暇はない。

 より多くの人を救うために、動き続けなければならない。


 救って、救って、救って……その果てに



 う――そ――つ、き



 幸せになるために。













 ……本当に?









 彼女の中に疑問が生じる。

 宝石のような心に罅が入る。

 全てを照らす光に一点の曇りが生じる。


 何かが違う。

 何かが間違っている。


 疑問を抱いてしまってはいけなかったが、既に壊れてしまった天羽璃奈は生じたエラーの原因を探ろうと過去を遡る。


 そして――



 彼女は、封じていた記憶を思い出した。






♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰






『いい、璃奈』


 その声は、優しく、美しかった。

 黒髪をなびかせ、静かに幼い娘を見下ろす女性。


 ――璃奈と似た面影。


 彼女は、天羽璃奈の母。

 天羽玲子。


『この銃を受け継ぐからには、私の信念を引き継ぎなさい』


 差し出されたのは、銀色の二丁拳銃。

 悪魔を滅ぼすための武器。

 十銀銃クロス・シルバー


『エクソシストとして目に見えるすべての人を救うと、その魂に誓いなさい』


 璃奈は頷いた。

 何の疑いもなく頷いた。

 それが正しいことだと思ったから。

 父を失い――それでも正しくエクソシストであろうとする立派な母の志を継ぐことに、間違いなんてあるはずがないと固く信じていたから。


 でも――


『良かった。それじゃあ――』


 彼女の信念を継いだのに、母はどうして嬉しそうではないのだろうか。

 どうして、冷たい目で璃奈を見下ろすのだろうか。


『――最初の試練を与えるわ』


 そう言って彼女は懐から黒色の拳銃を取り出した。

 それは、人間を傷つけず悪魔だけを殺す十銀銃とは異なる――ただの凶器。


『早速、貴女の信念が破れる瞬間を見ていなさい』


 嫌な予感に突き動かされ、璃奈が動こうとするが、母は秘術を使用した。

 娘の身体を縛る聖言。


『璃奈』


 身動きが取れない娘を呼ぶ母の優しく、甘い声。

 幼い璃奈は震えていた。

 その声が甘いのは優しさが理由じゃない。

 その声に含まれているのは――


『たくさんの人を救いなさい。その銃で、その刃で。救って、救って、救って――』


 ドロドロに溶け切った憎悪。


『――その果てに絶望なさい』


 そして、彼女は娘に呪いを残す。

 純粋な彼女を穢す特大の呪いを。


『最後に教えてあげる。私はね――』


 璃奈は、息を呑んだ。


 母の手が、拳銃を持つ。

 その銃口を、"自分"に向ける。


『あの人を奪ったお前のことが』


 娘の瞳に、自分の姿を映しながら――


『大嫌いだった』


 引き金を、引いた


 轟音。

 赤い花が咲いた。

 母の血が、璃奈の頬を濡らした。

 床に倒れる母の亡骸。

 その場に取り残された、幼い少女。


 "母に殺された"のではない。

 "母を殺した"のでもない。


 それなのに――


 "母の死は、自分のせいだ"という確信が、胸を抉った。


 目の前で崩れ落ちた母の姿が、脳裏に焼き付いた。

 否応なく、愛されていなかった事実が突き刺さる。


 耐えられなかった。

 受け止めるなんて、到底できるものではなかった。


「――――あぁあああああああああああああああああッ‼」


 幼い少女の絶叫が響き渡る。

 それは――彼女の魂に、深く、深く、刻み込まれた"傷"となった。



 ――目に見える全てを救う。


 そうだ。

 そうだった。

 忘れてしまうところだった。


 その信念は。

 大事にしていたその想いは。



 ……偽りだったのだ。





♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰






「う……ぅん……」


 軽く身じろぎして、天羽璃奈は目を覚ました。

 霞んでいた視界が晴れていく。目の前には無機質な天井があった。

 無駄に豪華な天羽邸とは違う、見知らぬ天井。


「びょう……いん……?」


 夢心地のまま呟く。

 徐々に思考回路が起き上がってくる。

 そうだ。ここは病院だ。

 外を見れば既に真っ暗で――


「あっ――――」


 ここで璃奈は完全に思考回路を復活させた。


 悪魔との戦い。

 愛しい人が何度も殺される地獄のような空間。

 最悪の悪魔。

 その手に握られた心臓。

 愛しいあの人は璃奈を抱きしめて、最後に名前を呼んでくれて――


「ゆ、ゆうとくん! ゆうとくん……!」


 勢いよくベッドの上で上体を起こす。回復しきっていない身体が痛みを訴えるが、無視する。

 璃奈は血走った瞳で辺りを見渡して――


「ゆうと、くん……」


 すぐに見つけた。

 ベッドの脇にいるその人物を。


 彼は眠っていた。硬そうなパイプ椅子に腰かけ、腕を組んだまま目を瞑っていた。

 そんな状態で眠っていては身体を痛めてしまう。

 天羽は彼を起こそうとして――


 震える手でその頬に触れた。


「ゆうと、くん……」


 疲労からはだいぶ回復し、熱も引いたはずなのに――また身体が熱くなる。

 触れた頬は微かに熱があって、彼がちゃんと生きていることを教えてくれる。


 璃奈は嬉しかった。


 彼が生きていることもそうだが、何よりも――


「……いっしょに、いてくれたんだね」


 彼が約束を守ってくれたことが。


 意識を失う寸前、璃奈は最後の力を振り絞って彼に強請ったのだった。

 ずっとそばにいて欲しいと、我儘な願いを。

 冷静に考えれば、無茶な願いだったと、今なら思う。

 彼だって――いや、彼こそ疲労困憊のはずだったろう。

 家に帰ってゆっくりお風呂に入って、それからベッドで眠りたかっただろうに、律儀に璃奈との約束を守るためにこんな場所で眠っている。


 その事実がただ嬉しくて――璃奈は蕩けるような笑みを浮かべた。


 何度も、何度も彼の頬を撫でる。


「ゆうと、くん……」

「んぅ……? あ、れ……璃奈……?」


 疲れ果てていたのか。触れた程度では全く起きなかった地藤だが、流石にこれだけベタベタ触られ続けたら目を覚ます。

 ぼんやりと目を開いた彼は、掠れた声で彼女の名を呼んだ。


「おはよう。優斗君」

「……おはよう。まぁ、どっちかっていうと、“こんばんは”な気はするけどね」


 真っ暗な外に視線を向けた地藤は苦笑しながら言った。

 確かに、もうこんばんはだ。

 病院に突入した時はお昼だったというのに、今は深夜ということは――彼は何時間ここにいたのだろうか?


 彼の献身性に胸が熱くなる璃奈だが、しかし同時に気になることがあった。


「優斗君、看護師さんたちにバレなかったの?」

「あぁ……まぁ、そこは“悪魔の屁理屈ワンダー・トリック”を使わせてもらったよ。効くかどうか不安だったけど、寝ていても発動し続けるんだね、これ。便利だ」


 他人事のように呟く地藤。

 天羽はその能力名を聞いた瞬間――表情を失った。


 “悪魔の屁理屈ワンダー・トリック”。

 忌むべき悪魔の力。

 あの、悪魔の力。

 あのクソみたいな悪魔。

 優斗君を苦しめ、優斗君を服従させ、優斗君を侮辱する最低最悪の悪魔。


 ギリっ、璃奈は強く唇を噛み締めた。


 勝ち誇ったような笑みが脳裏に浮かぶ。

 何が結婚だ――無様に振られたくせに。

 何が愛しの契約者だ――優斗君に嫌がられているくせに。

 何が、2人だけの秘密だ。

 何が――


「璃奈?」

「――なに?」


 地藤に呼ばれた璃奈はすぐに優しい笑みを浮かべた。

 悪人の罪すら受け入れそうな、聖女のような笑みを。


「い、いや……身体は大丈夫かなって、思って……」


 まるで悪鬼のような顔をしていた璃奈が気になり、声を掛けた地藤は彼女の切り替わりに困惑しつつ、尋ねる。


「まだ万全ってわけではないけど、もう大丈夫だよ。――心配してくれたんだね。ありがとう」


 そう言って、璃奈は嬉しそうに笑った。

 本当に、心の底から嬉しそうに。


「いや、僕にはこれくらいしかできないから……」


 地藤はあまりにも眩しい彼女の笑みから逃れるように、目を逸らした。


「そんなに自分を卑下しないでよ」


 璃奈は彼の頬に両手をあてて――強制的に自分の方を向かせた。

 まるで、自分から逃げることは許さない、とばかりに。


「璃奈……」

「私、嬉しかったの。こうして優斗君が約束を守ってくれたことが。今、こうしてここに居てくれることが。でもね、それは優斗君だから嬉しいの。他の誰がここに居ても――私は、優斗君じゃなきゃ、嬉しくない」


 ハッキリと言い切る。

 と。

 平等に、分け隔てない価値観を持っていた天羽璃奈の虚像が崩れていく。


「優斗君だけが居てくれたらそれでいいの。だから、そんなに自分を卑下しないで? 優斗君はね、ただ居てくれるだけでいいの。こうして呼吸をしてくれているだけで、私は涙が出そうなくらいに嬉しいの」

「お、大袈裟な――」

「大袈裟じゃないッ!!」


 璃奈の鋭い声が響く。


(まずっ……!)


 衝撃で硬直しつつ、微かに部屋の外が騒がしくなった気配を感じた地藤は咄嗟に“悪魔の屁理屈ワンダー・トリック”を使って彼らの認識と世界を誤魔化した。

 咄嗟のファインプレーで騒ぎが起きる前に処理を完了させた地藤は内心で胸を撫で下ろしつつ、突然情緒不安定になった璃奈を心配そうに見遣る。


「り、璃奈? ちょっと落ち着いて――」

「落ち着いて? 落ち着けるわけなんかないよ! なんで落ち着けるの? だって、だって、優斗君――?」

「……」


 ポロポロと美しい涙の宝石が零れ落ちる。

 璃奈は泣いていた。

 地藤にとっては既に終わったことになっている彼の“死”に泣いていた。


「私、ずっと死にそうだった。君が死んで、生き返るのを見て、本当に、おかしくなっちゃいそうだったんだよ? 私を庇った時、首を斬られた時、“死”を受けた時、胸に穴を空けられた時、剣で刺された時、全身の骨を砕かれた時、顔を吹き飛ばされた時、首を折られた時、胴体を半分にされた時、臓器を抉り取られた時――」

「り、璃奈?」

「――私、ずっと怖かったんだよ? 次は……次はダメかもしれないって。今は起き上がってくれたけど、次はダメかもしれないって……本当に、本当に……怖かった……!」


 震える声で璃奈はあの時の心境を語る。

 地藤は目を伏せ、深く反省していた。

 メフィラや死王女のせいで感覚が麻痺していたが、確かに外野から見ている人間からすれば、あれは悍ましい光景だったろう。胸が締め付けられるような光景だったろう。

 仮に地藤の立場に天羽璃奈がいたとしたら――彼はきっと、耐えられない。


「ごめん、璃奈」

「謝らないで。だって……優斗君は、悪くないもん」

「いや、でも――」

「悪いのは、あの悪魔だよ」


 ゾッとするほどの憎悪が、その言葉に籠められていた。


「そうだよ。あの悪魔が悪い。優斗君の心臓を弄んで、ふざけた契約を押し付けて! おまけに秘密がどうのこうのって……!」


 大勢の男子生徒を魅了していた美貌が壮絶に歪む。

 憤怒と、憎悪と、嫉妬で。


「安心して、優斗君。アイツは……私が殺すから。絶対に、絶対に、絶対に、私が八つ裂きにしてやるから……!」

「……」


 悪魔を討つといいながら、その表情は敬虔なる神の戦士ではなく――

 まるで、悪魔のようだった


(あぁ……そうか)


 地藤優斗はようやく悟った。

 もう全ては手遅れであったことを。

 狂ってしまったのは世界のルートだけではない。


(全部……全部、僕のせいか)


 もっとも守りたかった彼女もまた、狂ってしまったのだ。


「璃奈……ごめん」

「? なんで謝るの? あっ! もしかしてあの悪魔を私が倒していないから? 大丈夫! 怪我が治ればあんな奴、すぐに殺せるから! だから、優斗君は安心して」

「璃奈!」


 地藤は耐えきれなくなって天羽璃奈に抱き着いた。


「ど、どうしたの? 大丈夫? 震えてるよ……?」

「……ごめん」

「だから謝らなくてもいいのに」

「……謝って許されることじゃないけど、本当にごめん……!」

「……変なの」

「ごめん……!」


 情けない。

 地藤は自分が心底情けなかった。

 良かれと思った行動は全て裏目に出て――何より大事だった彼女に取り返しのつかない傷を刻み込んでしまった。


 地藤は自分の罪深さに絶望して――だが、同時にそっと抱き返してくれる彼女の体温に安心もしていて、もうぐちゃぐちゃだった。


「本当に謝らなくていいのに……だって、私、んだよ」


 彼を落ち着かせようと、優しく抱き着いてくる彼の頭を撫でながら天羽璃奈は微笑む。


「あの悪魔の言葉で知ったのは癪だけど……優斗君、私の為に戦ってくれたんだよね?」


――まさか、あの状況から誓い通りに天羽璃奈を救ってハッピーエンドで終えるとはね。


 如月メフィラの皮肉混じりの言葉が脳裏に蘇る。

 その言葉を聞いた時、璃奈は確かに跳ね上がる心臓の鼓動を感じた。

 あの場の誰よりもボロボロになっていた彼が。

 理不尽な死を受け続けた彼が、それでも立ち上がっていた理由が、自分だなんて。


「……うぅん。ごめんね。本当は、私を黒い剣から庇ってくれた時に分かっていた筈なの。優斗君は私を助けるために無茶をしているんだって」


 最後に一目だけ彼に会いたいと願い――そして、その背中で守られた時のことを思い出す。

 あの時の彼は、天羽璃奈にとって本物の英雄だった。


「でも、それを直視したら自分がおかしくなりそうで……何も分からないフリをしていたの」


 目まぐるしく変化する状況に混乱していたのも確かだが、天羽璃奈の頭脳をもってすれば、状況を理解することはそれ程難しいことではない。

 だというのに、惚けたような表情で置いてけぼりにされていたのは――脳が理解を拒んでいたから。

 自分の為にあそこまでしてくれている彼に対し、何も出来ない自分が不甲斐なさすぎて。


――動けずに目の前で大事なものを失うトラウマを何度も経験する地獄に、耐えられなかったから。


「優斗君は私が心臓を交換して欲しいって私が悪魔に願った時、見たこともないくらい怒ってくれたよね? ……私、嬉しかったの。私なんかの為に、あそこまで怒ってくる人がいることが」


 彼女の肉親でさえ、璃奈のためにあそこまではしてくれないだろう。

 いや、寧ろ母は――


「だから、謝らないで? 泣かないで? 私、今――なの」


 天羽璃奈は優しく微笑んだ。

 その表情は、どこまでも柔らかく、穏やかで――それでいて、どこか狂気じみた熱を孕んでいた。


 こんなにも人に想われたことなんて、今まで一度もなかった。

 そして、璃奈自身がここまで誰かを想うことも、なかった。

 こんなにも心が満たされて、胸がいっぱいになって、どうしようもなく涙が溢れる。

 この溢れんばかりの感情の奔流。


 これが幸せでなくて、何が幸せだというのか。


「しあわ、せ……?」


 その言葉を聞いた地藤優斗は、璃奈の腕の中でゆっくりと顔を上げた。


「璃奈……今、幸せなの……?」


 問いかけるように、彼女を見つめる。

 璃奈はその瞳をしっかりと見返し――


「幸せだよ」


 迷いなく即答した。

 彼女の紫色の瞳は、偽りのない光を宿していた。


「私が世界で一番好きな人と触れ合えているんだもん」


 その言葉に、優斗の胸が強く締め付けられる。

 たったそれだけの理由で、彼女はこんなにも幸せを感じているのか。

 あんなにも傷ついて、ボロボロになったのに。


「……璃奈」


 震える声で、彼は彼女の名前を呼ぶ。


「うん。どうしたの?」


 璃奈は美しい微笑みを浮かべながら、小首を傾げた。

 その仕草は、かつての彼女の純粋さを思わせるものだったが――


 その瞳に宿る色は、決定的に違っていた。


 地藤優斗は、ゆっくりと息を吐く。

 そして、覚悟を決めた。

 彼女を、まっすぐに見つめる。


「好きだよ」


 璃奈の瞳が、大きく揺れた。


「今までも、これからも」


 その言葉を聞いた瞬間――

 璃奈の瞳は、歓喜に満ちた。


「嘘……じゃない?」

「嘘じゃない」


 優斗は迷わず答えた。

 その言葉を聞いた璃奈の頬を、一筋の涙が伝う。


「……なら、離さないで」


 彼女の指先が、優斗の袖をぎゅっと握る。


「もう、二度と……私を置いていかないで」


 その声は、震えていた。

 不安と、切望と、狂おしいほどの愛に満ちた――壊れそうな声だった。


「約束する」


 地藤優斗は、璃奈の瞳を見つめながら、静かに誓った。


「僕は、もう、逃げない」


 このふざけた世界で。

 自分が壊してしまった彼女を。

 そして、壊れるほどに自分を愛してくれる彼女を――


 守り続けると決めた。


「君を、傷つけない」


 璃奈の瞳が、大粒の涙で溢れる。


「……うんっ!」


 それは、悲しみの涙ではなかった。

 それは、絶望の涙ではなかった。


 ずっと求めていた言葉をもらえた、幸福の涙だった。





♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰





「そうだ。これ、今なら渡してもいいよね……?」


 璃奈は懐から、小さな包みを取り出した。

 シンプルな銀色の包装紙で包まれたそれを、優斗の手のひらにそっと置く。


「これは……?」


 優斗は包みを見つめながら、問いかける。

 その問いに、璃奈はどこか恥ずかしそうに微笑んだ。


「優斗君への……誕生日プレゼント」


 その言葉に、優斗の心臓が跳ねる。

 驚きと、戸惑いと、込み上げる感情が入り混じったような、不思議な感覚。


 優斗がゆっくりと包みを開くと、そこにあったのは――

 銀色のピアス。


 シンプルで、それでいてどこか洗練されたデザイン。

 光を受けて優しく輝くその小さな装飾品を見つめ、優斗の胸にある記憶が蘇る。


「……これ、いつ用意してたの?」


 そう問いかけると、璃奈は少しだけ切なそうな笑みを浮かべた。


「本当はね……優斗君の誕生日の翌日に、学校の屋上で渡すつもりだったんだ」


 あの日。

 ずっと前から選んでいたこのピアスを、大切に大切にラッピングして。

 明日こそ渡そうと決めていた。


 それなのに――


「……でも、渡せなかったんだよ」


 誕生日の翌日。

 彼を屋上に呼び出した璃奈を待っていたのは――


 彼の別れの言葉だった。


「璃奈……」

「ううん。もういいの」


 璃奈は首を振り、再び優斗を見つめる。

 その瞳には、決意が宿っていた。


「今、こうして渡せるから。……むしろ、あの時より嬉しいかも」


 彼ともう一度繋がれると確信した今だからこそ。

 彼の手に、このプレゼントを届けられることが、心から嬉しいと思える。


「ありがとう。大事にするよ」

「うん。絶対に身につけてね」

「もちろん」

「四六時中、絶対に、絶対に、身につけてね」

「分かったって。……耳に穴を空けないとね」


 自身の耳たぶを触りながら呟く優斗。

 何気ない動作を見た璃奈は――急に顔を赤くした。

 じ――っと、彼の耳たぶを見つめている。

 それこそ、穴が空きそうなほどに、熱心な眼差しで。


「ど、どうしたの……?」


 そんな目線を向けられて気が付かないはずもない。


「お願いがあるの」

「なに?」

「私の手で、優斗君に"穴"を空けたい……」


 璃奈は、ゆっくりとした動作でピアスを摘み上げる。

 彼の耳元へと手を伸ばし――愛しげに触れる。


 その瞳には、危険な光が宿っていた。


「ダメ、かな?」


 小首を傾げる仕草は小悪魔のように魅惑的で。

 その表情は妖艶で。

 その声音は、どこまでも優しく――

 それでいて、底の見えない狂気を孕んでいた。


 優斗は迷うことなく答える。


「いいよ」


 璃奈の表情が、さらに妖艶な笑みを深める。


「ありがとう。嬉しいな」

「こんなことが?」

「こんなこと……? 優斗君に傷をつける許可をもらえたんだよ? 嬉しくないはずがないよっ!」

「き、傷をつける許可……?」


 困惑しながら尋ね返す。

 璃奈は不思議そうに首を傾げた。


「うん。これからは、私の許可なしに優斗君に傷を負わせることなんてさせないから。許さないから。あっ、でも私は優斗君に許可を貰う必要があるから、優斗君が許さない限りは誰も優斗君を傷つけることはできないの!」

「……」


 早口で告げられた内容に理解が追い付かずフリーズする。

 怪訝な表情を浮かべる優斗を見て――璃奈は表情を曇らせた。


「ご、ごめん。ちょっと重かったかな……?」


 狂っているにも関わらず、元来の頭の良さからか、自身を客観視することもできる。

 極めて特殊な狂い方をしている彼女に困惑しつつ、それでも彼女を守ると――受け入れると覚悟を決めた優斗は優しく微笑んだ。


「いや、璃奈が守ってくれるってことが分かったから、いいよ。寧ろ嬉しいかな」

「ッ!」


 璃奈は嬉しすぎて――思わず優斗に真正面から抱き着いた。

 抱き返してくれる彼の腕を感じながら、ピアスを空ける耳元で囁く。


「……重い女に掴まったって、後悔しても逃がさないからね?」

「後悔なんてしないよ」


 優斗は、確信を持って答えた。


「―――嬉しいな」


 甘い声で呟きながら、そっと彼の耳たぶを噛む。

 くすぐったそうにする彼が咄嗟に身体を後ろに逃がそうしたから――

 咄嗟に両腕に力を込めた。


「逃がさないよ」


 蛇のように彼の身体を絡めとる。

 身動きが取れない彼の耳元で呪いのように呟いた。


「絶対に、絶対に、君を逃さない……!」


 狂気に染まった愛の呪い。


 地藤優斗は身体の力を抜き、それを受け入れた。

 天羽璃奈は、歓喜した。


 彼は彼女を傷つけた。

 彼女は彼に傷つけられた。


 だけど、それでも――


 二人はもう一度、恋人に戻る。





♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰ 







 あぁ……



 あぁ……



 あぁ……!



 溢れる感情に身を浸らせる。


 私は今、幸福だった。


 だって、この世界で一番大事なものを手に入れられたから。

 この世界で生きる為の理由を再認識できたから。

 私は、まだ生きていられると、確信できたから。


 これから、私の生き方は変わるだろう。

 いや、変わらなければならない。


 これまでのように、品行方正なエクソシストとしての仮面は纏い続ける。

 それは便利だから。

 でも、本質は違う。


 もう私は、あの頃の"いい子"ではない。


 もしも母が今の私を見たら――きっと嘆くだろう。


 あの冷たい瞳で私を見下ろし、罵倒するだろう。

 平手で打たれ、何も音が聞こえない暗い部屋に閉じ込められるだろう。


 そして、衰弱しきった私に――最後の命令を下すのだ。


『地藤優斗を殺せ』


 ……嘗ての私なら、そうしていただろう。


 涙を流しながら、それでもそれがエクソシストとして正しいことなら。

 母の言うことなら。

 従うべきものだと信じていたから。


 だけど、今の私は違う。


 今の私は――母を殺すだろう。


 エクソシストとしての使命。――それが何の役に立つ?

 悪魔と契約した。――それがどうしたというの?


 そんなものは、どうでもいい。


『エクソシストとして目に見えるすべての人を救うと、その魂に誓いなさい』


 母の言葉が脳裏に蘇る。

 これまでの私を縛り付けていた母の信念。

 私が受け継いだ彼女の遺産。


 大事にしていた。

 大事なはずだった。

 大事にしていた――つもりだった。


 でも、それは偽りだった。

 天羽璃奈の本物ではなかった。

 だって、それは母が己の“死”をもって彼女に押し付けた“呪い”だったから


 だけど、一方で――こうも思う。

 このまま何も知らないまま生きていればその信念は本物になっていたと。


 嘗ての自分はそれくらいに無色で――我が薄かったから。

 幸せを知らなければ絶望を知ることもない。

 信念を貫いて果てるか――もしくは、信念に共感してくれる誰かと出会いでもしていたら、もう少し違った未来があったかもしれない。


 だが、今となっては違う。

 私は自分の色を手に入れた。


 自我を手に入れた。

 欲を手に入れた。


 だからもう――


 無垢の聖女ではいられない。

 都合の良い聖人にはなれない。


『たくさんの人を救いなさい。その銃で、その刃で』


――うん。分かったよ、お母さん。私はこれからも戦い続けるよ。


 でもね。


『救って、救って、救って――その果てに絶望なさい』


 それは聞けない。

 私が救う相手は――私が決める。


 私の銃弾は、私の刃は、そのために振るわれる。

 私という兵器はそのために運用される。

 この世界で最も愛おしい――あの人を守るためだけに。


 私が、彼を幸せにするために。


『最後に教えてあげる。私はね……あの人を奪ったお前のことが――大嫌いだった』


 うん。今なら分かるよ、お母さん。

 お母さんがだったんだね。

 

 救って、救って、救って――、その果てに何も残らなかったから、絶望したんだね。


 だって、貴女が本当に救いたかったのはただ一人だけ。

 私を庇って悪魔に殺されたお父さんだけ。


 だから、ただの一度だって私のことを愛してくれなかったんだね。

 いつも怒鳴って、睨みつけて、叩いていたんだね。

 あれは、八つ当たりだったんだね。

 

 安心して、お母さん。

 私は貴女のことを憎んでなんかいない。

 だって、貴女は教えてくれたから。

 私がどうするべきか。

 どうやって生きれば――貴女のようにならずに済むかを。


 私はお母さんと同じ。


 本当は、大事な人以外はどうでもいいの。

 使命も、信念も、崇高な志も――彼が死ねば意味はない。

 彼だけが生きていれば、それでいいのだ。 


 色んな方向へ散らばっていた、慈愛という名の薄っぺらい欠片が一か所へ集まっていく。

 大きく広がっていた感情が、一つへ収束していくのを感じる。


 あぁ、私は今、生まれたんだ。

 ただ一人の、人間として。

 天羽璃奈として。


「逃がさないよ。絶対に、絶対に、君を逃さない……!」


 私は心の底からの笑みを浮かべた。


 彼の瞳に映る私は――


 どこか狂っているように見えた。

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