第4話

「あ、甲斐君だ」

 懸念はあれど二日二晩の悩みがひとまず晴れて、久々にぐっすりと眠ることができた翌日。

 すっきりと目覚めたのもあり珍しく早朝に登校した甲斐が、一階にある購買の自販機で飲み物を買おうとしていたらその人は現れた。

 鈴を転がすような声。甲斐は買う飲み物ボタンを押し間違え、コーヒーを買おうと思ったのにいちご牛乳が出てきた。

「橘、さん」

「かわいいもの飲むんだね」

「あ、うん。甘いものの気分で……」

 本当は甘い飲み物はあまり得意ではないけれど。内心を悟られるわけにはいかず、笑顔を貼り付けて誤魔化す。

「橘さんも、飲み物を買いに?」

「うん」

 と頷いた橘に、場所を譲る。

 この夏期講習期間はやけに橘に会う機会が多い気がする。

 普段は遠目から眺めるか、小賀と話しているところを眺めるか、極稀に話題を振られてほんのちょっぴり会話する程度。小賀たちどころか他の生徒もいないような空間で顔を合わせるなんて、これまでに一度たりともなかった。

 喜びよりも緊張が勝り、無難な別れの挨拶を考えながらそうっと距離を取ろうとしたとき。

「甲斐君に会えてよかった。ちょうど話したいと思ってたから」

「へ」

 未知の言語を前にしたように甲斐は呆然とする。そんな甲斐の様子に気づいていないのか、それとも気にしていないのか。迷いなくミルクティーを買った橘はくるりと甲斐の方に向き直ると、ポケットからスマホを取り出した。

「ほら、講習最終日にみんなで遊ぼうって話してたでしょ。私がほしい景品取れそうかなって、相談したくて。これなんだけど」

 橘が甲斐に一歩近づいてくる。ポニーテールとそれを結ぶ臙脂色のリボンがそっと揺れる。ほんのりと甘い香りもする、気がする。激しくなる心悸、さらなる緊張に思わず後退りそうになる。

「このうさぎのぬいぐるみ。サイズが結構でかいんだよね。三十センチだったかなぁ。どう?」

「えっと、UFOキャッチャーの機種とか設定次第なところが大きいけど」

 声が上擦りそうになるのを堪え必死に平生を装った答えは、なんとも当たり障りがない。

「そっかぁ。そりゃあ、そうだよね。甲斐君に取ってもらえるかもって思ったら気が急いちゃった」

「あ、でも。小賀たちとよく行ってるところはわりと取りやすいから。そこにあったら、いけるかも」

 自分でもUFOキャッチャーはそれなりにできる自信があるし、期待されているのなら応えたい、好きな人の喜んでいる姿は見たい、と思う。甲斐の精一杯のフォローに、橘はぱぁっと瞳を煌めかてくれた。

「そこにあるといいなぁ。予算多めに用意しとこ」

 橘はふふっと小さく笑う。その姿はとても可憐でかわいらしくて、見ているときゅんと胸が鳴るし癒される。そしてこのときめきと感謝を認めたい気持ちになる。

「甲斐君も、このあと教室に戻る?」

「あ、うん」

「じゃあ、一緒に行こう」

 本当は橘が去ってから飲み物を買いなおそうと思っていたけれど、橘から誘ってもらって断れるわけがなかった。

 適度な距離を保ちつつ連れたって三年生フロアがある三階を目指す。いつもは特に何考えず歩む道を、今日は橘とともにゆっくりと行く。

「普段だったら土日休みなのに、夏期講習期間中は午前授業なの、なかなかハードだよね。まぁ、休みがまったくないよりはいいけれど」

「橘さんでもそう思うんだ」

「なぁに、それ。橘さんでもってどういう意味?」

「もちろん、悪い意味じゃないよ。ほら、橘さんって普段の成績もいいし、夏期講習期間の放課後まで勉強してるから」

「別に好きでしているわけじゃないもの。必要だからしてるだけ」

「受験生だから?」

「そう」

「耳に痛い」

「ふふ。まぁ、それに私の場合は、どうしても入りたい大学があるから」

「そうなんだ」

「そうなんだ、なんだ」

 湖に小さな礫がぽとんと落下したような、静かに響く声だった。気になってふと橘の方に顔を向ければ、彼女はいつもの微笑みを浮かべていた。

「でも今日の午後はちょっと遊ぶよ。浴衣を買いに行くの。甲斐君は夏祭り行く?」

 学校から歩いて十分ほどのところに大きな神社があり、そこでは毎年盛大な夏祭りが開催されている。露店も多く、花火の打ち上げも行われる。もともと我が校の生徒の参加率は高いが、三年生にとっては夏期講習終了翌日の開催というのもあり、開放感かつ高校生活最後という枕詞をもとに多くが足を運ぶことだろう。

「小賀たちが行くなら、一緒に行くかな」

「あー、どうだろうね。恭平ってお祭りムードみたいなの好きじゃないから。去年も行ってなかったし」

「そうなの?」

「人混みもそうだし、色んな光とかにおいが混じっているのが嫌なんだって」

 一、二年の頃も甲斐は当時つるんでいたメンバーに誘われて行ったし、今年もそうなると思っていた。

 ゲームセンターなどは好んで行くのにと不思議に感じていたら、橘も「ゲーセンとかは行くくせにね。変なところで繊細なんだよ」と呆れたように小さく笑い、過去の小賀のエピソードを話し出す。さすがは幼馴染、よく理解しているのだなと感心する。

「渋谷君とかはお祭り好きそうだよね」

「たしかに。色んな屋台ではしゃぎ倒しそう」

「大井君は……謎めいているよね。意外と好きそうな気もするけれど」

「俺も判断つかないな」

 存外会話が弾み、気づけば三年フロアに続く最後の階段をのぼっていた。

 そのまま他愛ない話を続けて、それとなく橘と解散することになると思っていた。

 けれど、三年フロアに辿り着いたとき。ふいに、橘がわずかにひそめた声で言った。

「八木沼君はどうかな」

 思わぬ名前の登場に、甲斐は一瞬聞き間違いかと疑った。

 橘の視線は、廊下の遠くに向けられていた。

 それを辿れば、甲斐たちがのぼってきた東階段の対岸、西階段へと続く廊下にその人はいた。さらりとした黒髪、まっすぐな背筋。後ろ姿だけでも凛とした雰囲気が伝わる。早朝の人気のない廊下で、窓から注ぐ朝日にふんわりと照らされながら、八木沼はしずしずと歩いていた。

 たまたまクラスメイトを見つけたから話題にあげただけだったのか——それでも、その対象に八木沼を選ぶだろうか。社交に富む橘が、クラスの誰とも交流を持たないときに浮き、ときに沈んでいるその人を。

「この間、八木沼君と一緒に英語の授業のお手伝いしたんでしょ」

「え」

「渋谷君たちと話してたじゃない」

「ああ」

 橘は顔の横に垂れる栗色の毛を指でくるりと巻く。

「なにか、話さなかったの」

「なにかって」

「八木沼君って、ミステリアスでしょ。私もあんまり話したことがないから。どんなことを話すのかなって、気になって」

 たしかになにかは話したが、その内容は八木沼以外の誰かに伝えられるものではない。

 そう素直に答えたところで、橘は人が良いし、甲斐がしっかりと線を引けば無理に踏み込んできたりはしないだろう、とは思う。

「あんまり、話してないよ」

 それでも、橘も八木沼に対して少なからず好奇心を抱いているらしいから、それを下手に煽ってしまうのはよくない気がした。

 甲斐の応えに橘はひとつ瞬くと、「そっか」と呟いた。

「大人しいもんね。八木沼君って」

 そうだね、とは頷けなかった。

 橘が夏期講習を受ける教室の前でふたりは解散した。

 甲斐も自分の教室に向かおうとした。けれど、気づけば、もう姿が見えなくなった彼がいた方向へ足が動いていた。駆けていた。

 四階へと続くのぼり階段の途中で、八木沼を見つけた。

「八木沼さん」

 びくりと肩を跳ねさせた八木沼は、目を丸くしてこちらを振り返る。と、すごい勢いで背後を振り返り、何かを確かめるように左右に首を振った。それから再び甲斐の方に顔を戻した八木沼は、不機嫌そうに眉を顰めた。

「……なに」

 明確な理由や用事があったわけではない、半ば衝動的に彼を追った。視線をわずかに彷徨わせながら自然な話題を探す。

「今日のことなんだけど。午後、休みでしょ。だから、午前の講習が終わったらそのまま家って感じで大丈夫?」

「ああ……まさか、それだけのために声かけてきたのか?」

「そう、だけど」

「昨日連絡先交換したんだから、メールしてくれればよかっただろ」

「でも、八木沼さんを見かけたから」

 八木沼は深々とため息を吐き、肩を竦める。

「学校の人の目につくところで話しかけるのは、やめてくれ」

 明確に引かれた一線に、ちくりと、甲斐の胸に細く冷たい棘が突き刺さる。

「どうして?」

「どうしてって」

「……八木沼さんは、極力俺と関わりたくないってこと?」

 思わず口にしてから、嫌な問いかけをしてしまったと思った。瞬いた八木沼は、困ったように眉を下げる。

「まぁ、ある意味、そういうことにはなるけれど」

 自分から問うたくせに、肯定されて、さらに胸が痛くなる。

「でもそれは、甲斐が嫌だからとかじゃない」

「……え?」

「好奇に晒されるのが嫌なんだ。日頃ひとりでいるやつが話しかけられてたら悪目立ちするだろ。お前がそんなことをしたら、お前の友達は関心を持つかもしれないだろ」

 八木沼の言うことはもっともだった。それでいて、耳に痛い言葉でもあった。

 クラスのどの群れにも属さず、誰とも関わりを持たない八木沼は未知の存在と言える。そして未知というのは、ときに人の好奇心を擽り、ときに人に嫌悪を齎す。それ故に粗雑に扱ってもいいと考える人もときに現れることがある。

 あの橘も八木沼に好奇心を抱いていたけれど、それを本人にぶつけることはないと思う。人が良いのもあるけれど……社交に富む彼女ならば、面倒ことに巻き込まれるリスクは回避すると思うから。例えば、甲斐がつるんでいるグループ、特にその中心に立つ彼女の幼馴染の前で八木沼に話しかけてしまえば、間違いなく揶揄に巻き込まれる。

 それを想像できない橘ではないと思うし、他のほとんどのクラスメイトも同様だ。クラスのほとんどが、八木沼を露骨に遠ざけはしないけれど決して近づきもしない。

 甲斐もかつてはその一員だった、けれど。

 八木沼の過去を知った今、彼の孤高は甲羅なのかもしれないと思った。

 かつて深い傷を負った八木沼は、普通じゃない自分を受け入れてくれないかもしれない周囲との交流を諦めたのではないか。だが、かつて集団に属していた明るい人間が個になるとき、そこに一抹も寂しさを感じないことはあるだろうか。過去を語る八木沼姿には傷が透けて見えた。

 いつだって背筋はまっすぐに伸びている。少しも怖じることなく人の目を見て対話する。八木沼は気高く、凛としている。孤独よりも、孤高という言葉が似合う。

 けれどそれは、もしかしたら、内外自他、彼を取り巻くあらゆるものから彼を守るために編まれた甲羅なのではないだろうか。

 想像でしかない。でも、彼の微笑みはあまりにやわらかく、心に残っているから。

 甲斐は八木沼の内側に触れたくなった。もっと彼について知り、近づき、親しくなりたいと思った。

 なのに。

 八木沼の言うように、誰かが甲斐と八木沼の交流に関心を持ったとして、それで揶揄ってきたり、不快なことを口にされたとして。甲斐はそれに面と立ち向かえるイメージが、湧かなかった。脳裏に浮かぶのは、曖昧な表情を浮かべて口を閉ざす、これまで通りの自分。

「嫌な言い方をしたのは、悪かった。けど、そういうことだから。放課後もお前の家の最寄り駅で待ち合わせよう」

 八木沼は言う。

 淡々とした声音。動かない表情。

 甲斐の心はぐちゃぐちゃと乱れる。

 嫌われていなかったことに安堵した。昨日の独行の理由を知った。人目につくリスクを今更考えた。

 公で一緒にいても彼を傷つけるだけ。自己嫌悪に苛まれるだけ。なんにもいいことなんてない。なら、放課後ひそかに会うだけの関係でい。それで親しんでいけばいい。

 ——仕方ないことだ。俺にだって、トラウマがあるんだから。

 そう思うのに。甲斐の心はちっとも慰められない。むしろ、どんどん苦しくなっていく。

「……乗り換え駅でも、うちのクラスの人、あんまり見かけないよ」

「は?」

「だから、そこで待ち合わせようよ」

「いや……そんなことする意味ないだろ」

 こんなささやかな反抗で、八木沼との関係も、自分の情けなさもちっとも変わりはしないだろう。自分の心を慰めるための、独善に過ぎない。それでも。

「あるよ。八木沼さんと、少しでも長く一緒に過ごせるから」

 少しでも、ほんの少しでも、彼の近くに行きたかった。

 甲斐を見下ろす、漆黒の瞳が丸くなる。

 瞬かれて、顰められて、八木沼は唇を薄く開いては閉じるを何度か繰り返す。

 やがて八木沼の瞳は伏せられ、唇からは小さくため息を零れる。

 それに、断られるのかもしれない、不安になった。

「これ、あげる」

 八木沼がなにかを紡ぐより先に、階段を数段駆け上って、いちご牛乳のパックを押し付けた。

「間違って買っちゃって」

「は」

「じゃあ、そういうことだから! 昨日と同じホームで待ち合わせで。違う車両に乗らないでね」

「あ、おい——」

 逃げるようにして踵を返し、階段を駆け下りた。

 勢いのまま一階まで向かうと、あれこれしているうちに時間が経過していたようで、登校してきた生徒の姿が散見した。

 乱れた呼吸を整えながら、今度こそ自販機で紅茶を買い、さっそく口をつけた。口の中が渇いて仕方なかった。

 教室に戻り、講習までぼんやりと過ごす。八木沼から断りの連絡が入っていそうでしばらくスマホを見る勇気が湧かなかった。

 それでも放課後になって、乗った電車内で恐る恐るスマホを取り出せばメールはひとつも来ていなかった。

 ドキドキと胸を鳴らしながら向かった、乗換駅の三番乗り場。付近のベンチに、座って本を読んでいる八木沼がいた。

 何度も瞬いて目を擦って、皮下を震わせながら、甲斐は八木沼に声を掛けた。

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