第一章

邂逅編

皇太子ユリウス

 

 





 ――何をどこで間違ったのだろう。




 父上に言われた通りに成人の儀を迎え、王位を継ぐ準備をしていれば、こうはならなかったのだろうか。

 いや、そうじゃない。僕は自分の意志で、この地まで逃げてきた。

 父上から……父上の支配から逃げるために。




 そうだ。あの時、――





 ユリウスは、心が挫けそうだった。


 暗い森の中をどれくらい走っただろう――

 目じりに溜まった涙が溢れないよう、首を大きく振った。







 ◇◇◇







 オルヴァニア大陸の西側を、南から北まで広く統治するラクセンベルク帝国――その唯一の王位継承者。

 そんな立場であるにも関わらず、ユリウスは城を飛び出して当てもなく南下していた。



 帝国民は、彼を見ても皇太子だとわからないはずだ。

 何故なら、城から一度も出たことがなかったのだから。


 逃げている途中も、父である皇帝が、ユリウスを探しているような様子はないように見えた。

 城を飛び出して、一か月。油断していたのかもしれない。







 夜が更けても、寝つけなかった。

 城を飛び出してから、毎日のようにみる悪夢のせいだ。


 皇帝――父上の色のない瞳。


 父にユリウスは魔法で支配されていた。

 思考を奪われ、それにすら気づかないほどに。

 そして、唐突に目が覚めるように、支配が解けた瞬間――


 足元まで飛んできた鮮血と、憎しみに満ちた"彼ら"の顔。

 恐ろしくて、居ても立っても居られずに、逃げ出した。





 まだ寒いと言うのに、火照った体を持て余して、ユリウスは宿の外に風にあたりに行くことにした。


 そこで待ち構えていたように、一人の男が正面を塞いだ。


 闇に溶けるマントを纏い、腰からは剣を下げている。フードの陰に隠れた顔は見えない。

 それでも、その佇まいからは、確かに騎士の気配が感じられた。



「殿下、お迎えに上がりました。ご同行ください」



 男が言い終える前に、考えるよりも足が動いていた。

 途端、四方八方から騎士然とした人影が現れ、道を塞がれる。逃げ道は宿の裏手――森だけだった。

 恐怖に突き動かされ、後ろを振り向く余裕もなく、必死に足を動かした。



 ――連れ戻されるわけにはいかない。



 月光は生い茂る木々に遮られていて、足元の視界もままならない。

 何度も木の根に足を取られかけて、転ばないように踏ん張った。



 頭の中で、警鐘が鳴り止まない。



 怖い、苦しい。誰か、助けて――



 恐怖と絶望が胸の奥を掻き乱し、荒い呼吸が喉に詰まった。

 込み上がってきた涙で視界が揺れる。



 ここには、僕を助けてくれる人はいない……



 そんな思考で一度に頭が冷えた。同時に一か月前まで隣にいた護衛騎士の顔が、ユリウスの頭を掠めた。


 追手の気配も、そして――自分の足音、枝を払う音、荒く吐き出す息、全てが重なり合い、耳を打つ。


 だが、それらは次第に遠のき、最後には自分の呼吸も、思考を埋め尽くした恐怖の声も聞こえなくなった。




 走り続け、ふと気が付くと、眼前に森の終わりが見えてきた。

 出口――そう思ったのも束の間、視界に飛び込んできたものに、ユリウスは愕然とした。



 行く手を阻むように、そびえたつ大きな岩肌。


 上を見上げてみるが、どう考えても登れる高さではない。


 その時になって、ようやく後ろを振り返り、辺りを見渡した。

 楕円を描くようにひらけた地面――その奥には、鬱蒼とした森が広がっている。



 不気味に響く風の声と葉擦れの音。しかし、それだけだった。追手がやってくる気配はない。

 少しの安堵を感じて、ユリウスは岩肌に背を預けた。


 限界まで走ったせいで、呼吸をするたびに肺が痛い。喉が焼けるようだ。

 今になって、全身から汗が噴き出してくるのを感じた。



 脚の筋肉が悲鳴をあげている。あとになって、追い付いてきた恐怖が、体を震わせた。

 ユリウスは重力に引かれるように、地面に座り込んだ。


 体が酸素を求めるように、息を荒げながら自然と頭を岩肌に預けた。

 目に、星空が飛び込んでくる。



 今日は満月だ。

 冬の星座が、存在を主張するように輝いて、運命の輪郭を描いている。

 それを美しいと思える余裕はなかった。



 どこまで逃げればいい……?

 どこへ行けばいい……?

 僕は、どこへ……



 絶望に星空が揺らいだのを知って、ユリウスは大きく首を振る。今、それに呑まれるわけにはいかない。

 ぐっと唇を噛み締めて、森の先を見据えた。



 皇帝が差し向けた追手が、そう易々と諦めてくれるわけがない。



 すぐにこの場を離れないと。

 宿に帰るのは危険だ。伏兵が待ち構えているに違いない。


 吹き通る夜風が、汗ばんだ体から急激に、体温を奪っていくのを感じた。



 どこか身を隠せるところを探さないと――



 そう思ったとき、地面から大きな揺れが、ユリウスの全身へと伝わってきた。



 咄嗟に立ち上がって、辺りを見渡す。

 地響きは止まることなく、一定の間隔を空けて、足元から伝わってくる。

 それは、徐々に大きくなってきているようだった。




 明らかに人間のものではない。



 自然と腰に手が伸びた。しかし、そこにあるはずの護身用の剣がない。

 ユリウスはハッとなって、道中で路銀の足しにしてしまったことを思い出した。


 もしかしたら剣を売ったことで、足がついたのかもしれない――そんな今、気にしている場合ではない憶測が頭を掠める。


 地響きの主がもう近くにいる。

 左か、右か。どちらに逃げるにしても、森へ囲まれたこの場所から、そう距離は違わない。



 大した時間ではなかった。


 迷っているうちに、その正体は満月に照らされ、姿を明らかにした。

 吸い込んだ息が喉の奥で、ひゅっと鳴る。背中に怖気が走った。



 月光に照らされた、おどろおどろしい黒い靄を纏った、人間の三倍はありそうな巨大な熊。



 堕ちた精霊の穢れで巨大化し、狂暴化した動物――’’魔物’’



 体の奥底から湧き出した恐怖に、竦みかけた足が自然と一歩下がる。背中が岩肌に当たった。

 それと同時に、魔物が一歩、踏み出してくる。



 こちらをジッと見据えてくる――魔物の血色の瞳から、目が離せない。





 ‘’調和の力は攻撃に向いておりません‘’



 いつか、王城の専属教師に言われたことが、頭に過った。



 ユリウスの先天本質であり、唯一使える水の魔法――調和の力。



 他属性の魔法があってこそ、能力を最大に発揮できる魔法。

 単独で出来るのは、人の感情や思考を読み取り、または自分の感情や思考を送る。もしくは、それらを共有すること。

 そう教えられてきた。



 その上、ユリウスはその魔法を、まだ完全な制御下に置けていない。

 そもそも魔物を浄化するには、光の魔法でなければいけない。

 魔物が爪で地面を削っていくような、嫌な音を立てて、にじり寄ってくる。



 距離はおよそ十メートル。背を向けた途端、一瞬のうちに追い付かれ、嚙み殺される――


 そんな恐怖が容易に想像できてしまい、逃げることも出来なかった。



 魔物が更に一歩、踏み出してくる。

 まるで獲物が怯えて、諦めるのを待っているようだった。



 一か八かやるしかない。

 光の魔法のように穢れを浄化することはできなくても、水の魔法で少しの隙をつくることは可能かもしれない。



 その間に逃げれば――

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