第5話 再会
菜々美が僕の前から去って行ったあの日から、僕の世界は色を失った。まるで古いモノクロ映画のように、全てがくすんで見えた。学校へ行っても、授業の内容は全く頭に入ってこない。ただ窓の外を眺め、時間が過ぎるのを待つだけ。校庭を駆ける生徒たちの足音が、やけに耳障りに響いた。かつては微かな興奮を覚えたはずの、地面を踏みしめるその音さえも、今はただ、失われたものへの痛切な記憶を呼び覚ますだけだった。
教室での僕は、抜け殻同然だった。以前から決して社交的な方ではなかったが、菜々美との別れは、僕を完全な孤立へと追いやった。心配して声をかけてくれるクラスメイトもいたが、僕はまともに返事をすることもできず、ただ俯いて彼らが立ち去るのを待った。休み時間は自席でじっと動かず、昼食も一人で味気なく済ませる。誰の視線も受け止めることができず、僕は自分の周囲に厚い壁を築き、その中に閉じこもった。
菜々美を傷つけ、僕たちの関係を破綻させた原因――僕自身の悍ましい性癖。それを激しく憎んだ。こんなものがなければ、今も菜々美の隣で笑っていられたのかもしれない。そう思うと、自分自身が許せなかった。衝動を無理やり抑え込もうとした。街中で女性の足元を見ないように努め、道端に落ちているものから目を逸らした。
しかし、抑え込もうとすればするほど、意識は逆にそちらへ向かう。ふとした瞬間に、視線は吸い寄せられるように、歩道を行くパンプスのヒールや、
季節は容赦なく移り変わった。木々が葉を落とし、冷たい風が吹きすさぶ冬が来た。街にはクリスマスのイルミネーションが灯り、人々は浮かれたように行き交うが、僕の心は凍てついたままだった。時折降る雪が、世界の音を吸い込んでいく。真っ白な雪の上に残される、誰かの足跡。その一つ一つが、僕には罪の刻印のように見えた。
やがて、卒業の季節が近づいてきた。三年間通った高校。菜々美と出会い、短い間だったけれど恋人として過ごした場所。そこから去ることには、解放感よりも、むしろ言いようのない寂しさと、未来への漠然とした不安があった。
卒業式当日。体育館に響く校歌も、感傷的な答辞も、僕の心には届かなかった。ただ、式の後のざわめきの中で、少し離れた場所に立つ菜々美の姿を遠くに認めた。以前よりも少し大人びて見えたが、その横顔は硬く、僕の方を見ようとはしなかった。僕もまた、彼女に声をかける勇気も資格もないことを、痛いほど分かっていた。僕たちの間にあったはずの細い糸は、もう完全に断ち切られていた。
僕は、結局、親元を離れることはせず、実家から通える地元の大学に進学することを選んだ。新しい環境で過去を振り切り、やり直したいという気持ちはあったが、心のどこかで、この街を離れることに躊躇いがあったのかもしれない。菜々美との思い出が染みついたこの場所から、完全に逃げ出すことができなかったのだ。
春になり、大学の入学式を迎えた。真新しいスーツに身を包んだ学生たちが、期待と不安の入り混じった表情で広大なキャンパスを行き交う。僕もその一人として、どこか所在なく歩き回っていた。高校とは比べ物にならない人の多さに、少しだけ眩暈を覚える。ここでなら、本当に過去をリセットできるかもしれない。そんな淡い期待が、胸の奥で小さく芽生えた。
講義が始まり、数日が過ぎた。まだ慣れないキャンパスを歩き回り、必要な教室の場所を確認する。サークルの勧誘の声が賑やかに響く中庭を抜け、掲示板が並ぶエリアに差し掛かった時だった。
ふと、見慣れた後ろ姿が目に留まった。
まさか、と思った。セミロングの茶色い髪。華奢な体つき。そんなはずはない。この広い大学で、偶然に?
しかし、その人物がゆっくりと振り返り、友人と談笑する横顔が見えた瞬間、僕の心臓は凍りついた。
見間違えるはずがなかった。
少し大人びた化粧をし、高校時代よりも洗練された服装に身を包んではいたが、それは紛れもなく、大島菜々美だった。
息が止まる。時が、止まったような感覚に襲われた。彼女も、この大学に進学していたのだ。なぜ? どうして? それは、単なる偶然なのか、それとも何か意味があるのだろうか。
再会がもたらすものは、希望なのか、それとも新たな絶望の始まりなのか。僕にはまだ、何も分からなかった。ただ、破局の後、凍てつき、何も感じなくなっていたはずの僕の心に、再び微かな、しかし確かな波紋が広がったことだけは、否定しようのない事実だった。菜々美の影は、まだ僕を解放してはくれなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます