#2 うるさい無口

『何を考えているのか分からない』と言われたことがある。

 言われて思ったのは、『そんなの分かりたいか?』だった。


 他人の思考など、分かったところでどうするというのだろう。

 相手が望むものやことを用意して、気に入ってもらうのか?

 気に入ってもらうのは悪くない気分だろうが、少なくとも俺は、そのために労力を割こうとは思わない。


 この考え、どうやら世間的にはだいぶ捻くれた考え方のようだが――


『ウフフフフフ今日からこの箸箱でお昼……水無月がくれた箸箱からお箸取り出して――お待ちになって……!? 水無月の棒からる!? わたしのお箸白いんだけど!? 白いの取り出して!? 白いご飯を!? くちゅくちゅかみかみごっくん!? おいエロすぎるぞこのラノベ全年齢向けなんだが!? 今度白子持ってこようかなあ!?』


 ――絶対に間違っていないと、確信した。





『あー現代文だりーA子がどう思ったかなんて鼻クソほどの興味もないんだが? というかそんなん文章読んでりゃなんとなくで分かるだろ何を教えるってんだよ。

 ていうか題材がなんかこー真面目な小説ばっかでつまんねえのよ。官能小説とかにしようぜ。

「絶頂したA子がどんな顔をしていたか次の選択肢から答えよ」って問題の方が解き甲斐があるってモンですよ。

 ちなみにわたしはアヘ顔ちょっと苦手なのよねトロ顔くらいが一番子宮にクるわ。あとオホ声とかもちょっと……こう、なんか下品じゃない?

 かわいい女の子にはかわいい声で喘いでもらいたくてさあ……。いや分かるのよ? もうそんなんかなぐり捨てて快楽に溺れまくって理性吹っ飛んでる表現としてはアリだと思うんだけどね?

 それで抜けるかどうかは別問題で……いやわたし女だから抜かないけど……』


 ……………………なんだ………………これは………………。


 絶句の一言である。

 今朝氷室に箸箱を渡した瞬間から、耳を塞ぎたくなるような下品な言葉が氷室の声で、耳を塞いでても聞こえてくるようになった。

 今は一時限目だが、相変わらず俺の脳を汚染しようとしているとしか思えない汚い独白が響き渡っている。


 他のクラスメイト達が普通に授業を受けている様子な辺り、この声はどうやら俺以外には聞こえていないようだ。

 もし聞こえているのだとしたら、このクラスはポーカーで世界を獲れる。


 一体なんなんだ、この声は?

 幻聴というものがこの世にはあるというが、こうもはっきりと長時間聞こえるものなのか?


 いや、幻聴なのか突如超能力にでも目覚めたのかどうかは、いったん置いておこう。問題は声そのものだ。

 改めて言われずとも大問題なのは分かっているが、内容自体よりも、これがどうも氷室の思考なのではないかという疑いが俺の中に芽生えてきているのが問題だ。


 なにせ氷室の声だし、俺が渡した箸箱に言及している。今それをする者がいるとしたら、それはこの世で氷室か俺自身だけだろう。

 言及の仕方については無視させてくれ。


 ――突然、氷室の考えが聞こえるようになった?


「まさかな……」


 つい声に出してしまった。幸い周りの生徒は無反応だったが、『声』は反応した。


『おおっとわたしのかわいいお耳がイケボをキャーッチ!

 どうした水無月ィ、高一で中二病は恥ずいぞ気をつけな?

「まさかな……」……ふんふん、何かに気づいちゃった? メタ的にはそれまさかじゃなくて当たってるから早い所誰かに伝えないと殺されちゃうゾ?

 早く伝えようとしても奥さんに化けた敵に撃ち殺されたりするけどな! あっやばっ水無月に奥さんいる可能性とか考えちゃダメだ脳が破壊される。

 でも水無月イケメンだしなあ。ヤリがチンな可能性だってなくなくなくなくなくなくなくなくあの娘のスカートのなーかーかもしれないよなあ。

 それで命中(意味深)しちゃった相手がいてさあ……苦悩のまっただ中にいるんだよ……それである日わたしんちの前で雨の中泣きながら立ち尽くしててさあ……わたしは濡れるのも構わず彼の中の闇ごと包みこんで抱きしめてあげるんだよ……うわっ、わたしにそんなヒロインムーブできるか?

 暗い過去だけなら許してあげるだけでいいけど相手の女と子供っていう現在がいたら手に負えなくない?

 おっぱいで防げるから刃傷沙汰になっても死にはしないと思うけどさあ』


 ぶち殺すぞ。


 ……まずいな。この声を聞いているとストレスが半端ではない。

 まだ聞こえ始めて一時間経ってないのにもうキレそうだ。


 しかし、これが果たして氷室の思考なのか? あの無口で無表情な、人形よりも人形らしいやつの? とても信じられない。


 ――いや、そうは言っても、俺は氷室の性格などほとんど知らない。

 ラジこのを勧められた時、意外と押しが強くて驚いた、その程度だ。

 あとは、あの場所に昼飯を食いにくる辺り、俺と同じく人付き合いは苦手か。


 だから、氷室が実はこういうことを考えていたとしても、別におかしなことではないのだ。俺が知らなかっただけで。


 誰しも、心の中というのは聖域でブラックボックスだ。

 人畜無害な顔をして皆殺しを企てていたとしても何も意外ではないし、考えているだけなら責められることではない。

 むしろ盗み聞きしている方が悪いと言えるだろう。


『まあまあまあ水無月は童貞と仮定して話を進めようじゃないか。どう控え目に見ても告白までは秒読みだろうから、ちゃんとタイミングとシチュを想定して押さない駆けない喋らない戻らないで対処できるようにしておかないとだよね。

 やっぱ王道的なのはアレかな、BDの箱にラブレターが入ってるパティーン! 箸箱に「好きだ」ってだけ書かれた紙切れが入ってるのもイイネ!

 あーでもちょっと乙女すぎるか? 水無月のビジュからするともっと俺様系かもしれんね。

 あの階段で壁ドンからの顎クイでズキュウウウン!「唾、つけといたから」……ひゃああああああ! たまんねええええ! そこですかさずわたしは彼の首に腕を回してこう言ってやったのよ。「唾だけでいいの?」ってね! ヒューッ! そしてそのまま押し倒されてご飯いただく時間なのにわたしがいただかれてしまうって寸法さぁ!

 ――かんっ、ぺき……濡れるッッッッッ!

 あーでもゴムの用意とかしてないなあ水無月持ってるかな? いや、わたしも女だ! 覚悟を決めよう! 

 あっちなみに水無月は「いいよ……出して……」と「らめぇ……赤ちゃんできちゃう……」のどっちがいい? わたし的には後者で「中までマーキングしてやる……!」って言われるのが燃えるかな!

 そうそう、そもそもの話わたしこんなナリだけど残念ながら生理は来』


 内心の自由は死んだ。今日が改憲記念日だ。こんなこと考えてる奴は死ね。


「すみません、先生! ……ちょっと、目眩が」

「……大丈夫か? 保健室行くか? 付き添いはいるか?」

「はい、行ってきます。……いえ、一人で大丈夫です」


 これ以上この場に居たら正気を失う。

 目眩というのもあながち嘘ではなかった。注目を集めるのは本意ではないが、やむを得ない。


 不自然ではない程度に急いで保健室――ではなく下駄箱に向かう。

 距離を離せば聞こえなくなるかもしれない。校外に出ることも辞さない。


『えっ、水無月くんどうしたの、目眩? えっ? 大丈夫かな……』


 急にまともになるな。


『……いや待て、保健室でしょ?

 ……保健室! ベッド! 美人養護教諭! 皆さんもうお分かりですね! そう、股間の腫れを治療するんですよ。あーあーわたしという者がいながら! やっぱりランサーオブティンティンだったんですね〜隅に置けない!

 よござんすよござんす! しっぽりヤッてきな! 誰を愛そうがどんなに汚れようが構わぬ最後に横におればよいから!

 ……いや、やっぱり最初は処女と童貞がいいな……ところでウチの保健室の先生って白衣と黒ストの似合う二十五歳爆乳処女かな? 人妻非処女でもいいよ』


 まともになれ。





 時は飛んで四限。校庭で体育である。


 今日はしばらくトラックを走った後体力測定だ。

 走りたい気分だったのだが、残念ながら見学するようにとお達しをいただいてしまったので、隅っこの木の陰からぼんやりクラスメイトのランニングを眺めている。


 あの後、校外まで出て学校から遠ざかってみたところ、教室からざっくり五百メートルくらい離れた所で『声』は聞こえなくなった。

 できればそのまま帰りたい気持ちがマックスだったが、保健室に行くと言ってしまったし、この現象についてもう少し検証したかったので、一限の終わり頃に戻って保健室へ。

 二限はベッドの上で(もちろん一人で)ぼんやり過ごし、三限は教室に戻って気合いで耐えた。


 ちなみに、養護教諭は爆乳だった。白衣と黒ストッキングも似合っていたと思う。年齢は……俺の主観で申し訳ないが、二十五歳で違和感はない。


 ……………………何を考えているんだ。既に『声』に毒されていないか。


『うひぃ……うひぃ……暑……辛……苦……なんなんだよランニングって走らせんじゃねえよというか体育なんていらねえよ体力測ってどうすんの?

 運動できる陽キャ共のマウント合戦にしか使えないだろそんな数値。我が輩を巻き込むんじゃねえよ。

 ああ水無月が羨ましいわたしも木陰に行きたい。「氷室さんの付き添いを希望します」とか言ってくれないかな保健委員じゃないけど。

 わたしなら青姦オーケーだよ』


 その『声』は恨み節を吐きつつ最後にきっちり下ネタを入れてくる。義務なのか?


 氷室の姿を探してみる。

 いた。ちょうど、足の速い男子達に追い越されるところだった。何周遅れだろうな。

 長い髪はポニーテールにまとめられている。服装はもちろん学校指定のジャージだが、夏日の今日、上は脱いで半袖シャツ姿の生徒が多い。

 しかしなぜか氷室は脱がない上に前もきっちり閉じている。それでは暑かろう。

 顔は流石に遠くて分からないが、口を大きく開けつつも表情自体は変わっていないように見える。もはや感心してしまうな。


 走る姿勢は、ジョギングを趣味にしている者からすると一言言ってやりたい酷さだ。

 まず足の運び方が全くバラバラだし、腕はだらんと下がって紐のように揺れているし、極め付けは背中が丸まっている。

 胸を張っていないのだから苦しいのは当然だ。


 ……いや、まだ俺が氷室の思考を聞き取っていると決まったわけではないのだった。それらしい幻聴を俺の脳が創り出している可能性が残されている。

 それはそれで深刻だが、まだそっちの方がいい。俺の願望の中の氷室は、もっと普通なんだ。


 いずれにせよ、氷室が暑くて苦しそうなのは心が読めなかろうと一目瞭然だ。

 まあ、熱中症にならん程度にがんばってくれ。


『ぺぇが……ぺぇが重ぇ……走ると揺れて痛ぇし……肩凝るし足元見えねぇし蒸れるし、なんだこの脂肪引きちぎってやろうか……いやコレ無くすとマジでただのチビガリになっちまうな。

 ……着脱式にできません?』


 そんな感じで、陽炎のようにゆらめく氷室をぼんやり眺めていると、やがてランニングの時間が終わり、体育測定へ移行し始めた。

 今日は五十メートル走か。ご愁傷様だな氷室。長距離走じゃないだけ有情と思っておくといい。


 名前の順に数人ずつ測定が進んでいく。

「ひ」は真ん中辺りということで、氷室も今は休息だ。

 男子からも女子からも離れたところに一人で立ち尽くしている……いや立ててはいるが、今にも崩れ落ちそうだな。


『あぢ……あぢ……くるし……あっ♡ これは死ぬ♡ とか言ってる場合じゃねえマジで死ぬぅ』


 まだ余裕ありそうな気がするな。せめて木陰ここにでも来たらどうだ? というかジャージの上を脱いだらどうだ。


『脱ぐとなあ……男子に変な目で見られそうだなあ……こわい……』


 会話が成立してしまった。

 というか、あんな妄想してるくせに何を怖がっているんだか。


 おっと、女子が一人氷室に近づいていく。

 ツインテールで、なにやら髪色が黒と紫の二色で、耳にピアスを付けている。氷室とは真逆の世界の住人だな。


 誰だっけ?『杏野あんのさん……保健委員の……ヒィギャルギャルギャル!?』どうも。


 杏野はなにやら氷室に話かけている。聞こえないが、まあ内容は察しがつくな。


『授業中に保健室に担ぎ込まれるとか陰キャに耐えられるわけねぇえだらぁぁぁう!? ヤメロー! シニタクナーイ! シニタクナーイ!』


 大げさすぎるだろ。

 さっき自分から保健室に行った俺の立場はどうなる。


 己が職務に忠実な杏野に対し、氷室はブンブン手を振って丁重に辞退した。

 それでも杏野は引き下がらず、こっちを指差す。


『木陰に……? あ、水無月くんと二人に……いやいや! あかんあかん! 休憩なんて行ったら目立つやんけ!

 注目されるのに陰キャは耐えられないって言ってんの!

 視線ってのは陰キャには物理的に刺さるんだよ知らないの!?』


 頑なな氷室に対し、ついに杏野も諦めたか、一言かけてから教師の下へ向かっていく。

 氷室に気をつけるよう言いにいくのだろうか。本当に職務に忠実だな。


 しかし、氷室も素直に休めばよいものを。本当に熱中症になっても――


『なんか頭痛くなってきたけど、授業終わるまでは耐える……耐えてスポドリ一気飲みパーティする……!』


 おいおいおい頭痛いってヤバいだろ。

 いや『声』がそう言ってるだけで氷室が実際どうなのかは分からないが……今の氷室を見ていると、本当に熱中症でもおかしくはない。


 ……仕方ないな。俺が連れて行くか。

 そう思って立ち上がり、氷室の方へ歩いていくうちにも、『声』は事態の悪化を告げてくる。


『なんか……汗止まらん……ぼーっとする……あれ、水無月くん……?』


 マズそうだ。駆け寄る。

 気付いた氷室は、相変わらずの無表情で振り返り――こちら側にふらりと倒れてきた。


「氷室!」


 受け止めるのは、すんでのところで間に合った。

 バカ女め。よく分からん見栄を張って休まないからだ。


「どうした!」「氷室っち!」


 思わず出した大声に反応して、教師と杏野が走り寄ってくる。


「熱中症かもしれません。保健室、連れてきます」

「それならあたしも……!」

「……分かった。行こう。……少し中断だ! 皆、陰になるところで休んでいてくれ!」

『みんな……おおげさ……ちょっとふらついただけ……』

「んなわけないだろ」


 下手すりゃ死ぬんだぞ。

 流石に、死なれたら嫌な気分になる程度には、お前は他人じゃないんだ。


 ……とりあえず少しでも涼しくしてやった方がいいか。

 左腕一本で氷室を支え、ジャージのジッパーを――


『あ……え……?』

「あ、ちょ、水無月っち今は……」


 ――下げて、止められた理由を知った。

 薄手のTシャツでより強調された胸がまろび出る――ところまでは予想できていたのだが。


 ――汗で濡れて下着が透けていることまでは予想できなかった。


「…………すまん」


 杏野が慌てて氷室の前を閉める光景から顔を逸らす。


『くぁwせdrftgyふじこlp;@:「』


 ……いや、本当にすまない。


「はいできた。……氷室っち、暑いと思うけど、保健室着いてから脱ごうね。……歩ける?」


 杏野は氷室の脇の下から腕を差し入れて支える。そうして歩き出そうとしたものの、氷室の足元がおぼつかない。

 庵野も氷室ほどではないが小柄なので、ふらつく氷室を抑えられずに一緒にぐらぐらしていた。


「俺が背負おう」


 体育教師が買って出て、しゃがんで背中を向ける。

 まあ、それが一番だな。


『おんぶ……胸、当たっちゃう……』

「待て」


 教師の背に預けようとする杏野から氷室を奪い取る。

 そして氷室を横にして、背中と膝裏部分に腕を回して抱き上げる――いわゆるお姫様抱っこに移行した。


『えっ』

「えっ」

「ほう……」


 なんだ杏野その顔は。

 そしてなぜクラスメイト達はどよめく。口笛を高らかに響かせているのは誰だ。


「行くぞ」


 杏野や教師の反応を見ずに歩き出す。


 ふと下を向くと、氷室と目が合った。

 感情の乗っていない静かな顔。『声』も今はなぜだか聞こえない。

 なんだか、久しぶりに氷室に会った気がした。


「……軽いな」


 意味もないことを口走る方ではないと自覚しているのだが。

 今はなぜか言ってしまった。


『…………三十五キロでやんす……』


 ……本当に軽いな。





「……ふう」


 昼休み。いつもの階段に腰掛けて弁当を広げる。


 氷室を保健室に運び込み、ベッドに寝かせてすぐに校庭に戻った俺を待っていたのは、主に女子達による質問攻めだった。


「氷室さんと付き合ってるの!?」「もうどこまでいった!?」「氷室さんとどんな話するの!?」「分かるぜ兄弟……ちいさくてデカい……最高だよな」「キモッ! どっか行ってろ!」


 などなど。

 それらを不祥事を起こした政治家ばりのスルー能力を発揮して全無視してやり過ごし、四限が終わったら弁当だけ引っ掴んでさっさとここに来た。


 保健委員でもない男がしゃしゃり出てきてお姫様だっこで連れて行ったという経緯を見ていれば、まあ特別な関係を疑われても仕方なくはある。

 だが、だからといってそれがそんなに気になることか?

 俺もしくは氷室に好意を持っているのであれば分かるが、群がってきた同級生全員がそういうわけではないだろう。

 となると、同じクラスなだけの赤の他人の恋愛模様を知りたがる理由が分からない。


 しかし、世の中には恋愛絡みのゴシップニュースが溢れているからして、どうも知りたがる人の方が多いようだ。

 我が家でも母はその手のニュースが大好きだし、夏葉いもうとも時折話題に出す。

 父も話題について行けているので、関心度合いはさておき目を通してはいるようだ。マイノリティな俺の理解者はいないのである。


 ――いや、そんな昔からの疑問はどうだっていい。重要なのは――今、例の『声』が聞こえなくなっていることだ。


 氷室の意識が落ちていると『声』も聞こえなくなるのでは? ということに気づいたのは、三限目の授業中のこと。

 氷室が船を漕ぎ始めると『声』も途切れ途切れになり、撃沈すると完全に無音になったのだ。

 そして、こことそう離れていない保健室で、十中八九氷室は今眠っているのだろうから、確定と見ていいだろう。


 これはいい収穫だ。

 要は、氷室に存分に居眠りしてもらえばいいのである。

 起こさせられることはうっとおしいが、あの下品な『声』を聞かされるより万倍マシである。

 そもそも居眠りするなと言ったのは俺であることは目をつむろう。


 それに、氷室としてもネチネチ言われなくなって喜ばしいことだろう。

 ウィンウィンというやつだ。


 いや、いっそ階段ここにはもう来ないことにするか。

『声』が本当に氷室の思考なのだとしたら、俺との接触が増えれば当然俺のことを考える機会が増える。

 それは大変にウザいので、距離を取って俺のことは丁重に忘れていただこう。


 だがそうすると別の食事場所を探さないといけなくなるな……などと考えつつ食べていたため、気づくのが遅れた。


「あの……」

「! ……なんでしょう」


 いつの間にか、割と近くに二人立っていた。

 顔を上げると、一人は養護教諭で、もう一人は見覚えのない若い女性だ。


「こんにちは。ごめんなさいね、お食事中に。……水無月くんかしら?」

「そうですが……」


 教師かと思ったが、大変豊かな胸の下に入館証が揺れている。

 養護教諭とそう変わらない年齢に見えるので、誰かの親というわけではなさそうだが――


「まあやっぱり! むーちゃんの言ってたとおり、イケメンさんねぇ~!

 ……あ! ごめんなさいね名前も言わずに! 私、氷室葉月はづきといいます。氷室睦月むつきの母です~!」


 ――親なのか!? この見た目で!?

 ウチの母もかなり若く見られる方だが、それ以上だな……。

 それに――氷室と言ったか? 氷室のお母さん? あと氷室の下の名前初めて聞いたな。


 弁当を置き、慌てて立ち上がる。

 そうしたら分かったが、氷室のお母さん――葉月さんは娘と違って背が高い。去年171センチだった俺より少し低い程度だ。

 1年でだいぶ伸びただろうから、差し引きで170くらいはあるか?

 なぜ娘に遺伝しなかったんだろう。 髪も、色こそ同じだがサラサラだし。


「水無月です。ひ……睦月さんのお迎えですか?」

「そうなの~。熱中症だって言うからもう心配で心配で~。あの娘運動苦手でしょ~? しかも今日はこんなに暑くて体育だって言うから大丈夫かしら~って思ってたの! 嫌な予感って当たるのね~。でも今は落ち着いておねんねしてるから安心したわ~。あ! もちろんちゃんと病院には連れて行くわよ~」


 ……随分とノリは違うが、母さんと同じくお喋りな人だ。

 こんな人と生まれた時から一緒にいてなぜ氷室はあんな無口に……いや、だからこそなのか? 俺とて口数が多い方ではない。


「それでね~。むーちゃんのこと、水無月くんが運んでくれたって言うじゃない? しかもお姫様抱っこで! きゃー!」


 興奮した様子で顔を両手で挟んで身体をくねらせる葉月さん。

 娘に匹敵する膨らみが腕で潰され、さらに横に揺れる。

 こんな表情豊かな人と生まれた時から(後略)。


 後ろに控えている養護教諭を見る。余計なことを伝えやがって。

 しかし何を勘違いしたのか、黒縁眼鏡を光らせてサムズアップしてきた。


「……いえ、たいしたことはしてません」

「ううん、そんなことないわ~! 本当にありがとう~! それに今日だけじゃなくってぇ、いつもむーちゃんと仲良くしてもらってるから、そのお礼も言わなきゃと思ってたの~!」

「はあ……」


 仲良く……してるか?

 一方的にブルーレイを貸されて、箸箱壊して。

 会話と言えば、氷室の居眠り状況を俺が評価してあいつが頷くことを会話と認めてくれるのであればしている、という程度である。

 しかも、誠にやむを得ない事情から遠ざけようとしているのだが。


「水無月くんとお昼一緒にするようになってから、むーちゃんの顔がすっごく明るくなったのよ~! 夜も早く寝るようになったし――」


 母親ってすごいな。

 俺には隈が少し薄くなったくらいの変化しか読み取れなかったぞ。


「――それもこれも、水無月くんが顎くいして『隈がない方がかわいいぜ。ちゃんと寝ろよ?』って囁いてくれたお陰ね~! きゃあ大胆っ!」

「はい?」


 事実が「ちゃんと寝ろ」くらいしか……いや、それも言ってないな。

「居眠りをなんとかしてほしい」といった風なことは言ったが。つまり誇張100%じゃねえか。


「いや、そんなことしてな」

「あ! いいのよ! 怒ってるわけじゃないの! むしろ母親として嬉しいの! むーちゃんにこんなに情熱的に迫ってくれる男の子がいるなんて! ほらあの娘あんなにかわいいのに今までお友達の一人もいなかったからお母さん心配してたのよ~!」


 聞いちゃいねえ。やっぱりあの『声』は氷室の心の声なのでは?

 なにかこう、葉月さんと相通ずるものを感じる。


「そういうわけで、ね! 水無月くん!」


 葉月さんは俺に近づくと、おもむろに両手を握ってきた。

 指輪の硬い感触が、なんとなく印象に残る。


「――これからも、睦月のこと、よろしくお願いしますね?」

「………………」


 微笑みながらもどこか真剣なものを感じさせる葉月さんの表情に、言い返せず黙り込んでしまう。


「お昼の邪魔して、ごめんなさいね。今度うちにいらっしゃいな、水無月くん♪ じゃあね」


 最後にニコリと笑みを深めると、葉月さんは踵を返して養護教諭と一緒に去っていった。


「…………誤解なんですが」


 言えなかった言葉を遅まきながら口にする。

 元通りに座り直して食事を再開しながら、ひとつ方針を改めることにした。

 …………まあ、明日からも、この階段に来てもいいか。


『……ん……む……知らない天井……』


『声』だ。氷室が起きたらしい。


『ん……わたし……寝てる……なんで……? ……あ、そっか、わたしクラクラして、水無月くんに運んでもらって……水無月くんに……』


 嫌な予感がしてきた。無駄と分かっていながら耳を塞ぐ。


『――水無月にお姫様抱っこされたんだったぁぁぁぁぁ!

 うおぉぉぉあぁぁクラスの皆には内緒だよ! じゃねえ面前で抱っこされちったよ水無月ファンに殺される!』


 そんなのいねえよ。関係ないが階下でくしゃみの音が聞こえた。


『わたしの人生も短かったな……嗚呼最期に処女くらい卒業したかった……いや待てよ、体操着、保健室、二人きり、何も起きないはずもなく――』


 二人きりじゃねえ他にも三人ほどいたよ。


『おっとぉ大丈夫かわたし? 服着てる? 処女膜ついてる? 今月はまだだけど血出てたりしない? 枕元にゴム風船(配慮した表現)転がってない?

 ふー大丈夫か。なんだなんだ手ぇ出さなかったのかヘタレがよおチンポついてんのかあぁ?』


 ……やっぱり、ここで食うの辞めるか。

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