「おはようございます、お嬢様。そろそろ朝食の時間は終わりです。急がないと遅刻しますよ」


 淡々とした稀月くんの低い声と、無表情な琥珀色のまなざしに、今日も少しドキリとする。


「おはよう。すぐ準備してくる」

「はい」


 マグカップのカフェオレを一気に飲み干すと、私は広い家の廊下を走って部屋に戻った。


 制服のブレザーを着て、軽く髪を整え、革製のスクールバッグを持って部屋を出る。


 玄関に行くと、稀月くんと椎堂家の執事の戸黒とぐろさんが話していた。


「それでは、瑠璃るりさんにもそのように伝えてください」


 戸黒さんが話しているのは私に関することみたいだ。


 戸黒さんは、もともとは母の実家で働いていて、母の結婚を機に椎堂家で働くようになった。


 椎堂家に来てからの働きぶりを父にも認められて、今では椎堂家のことをいろいろ任され、使用人達の取りまとめもしている。


 それだけでなく、小さな頃から私の一日のスケジュールを把握して管理し、両親に伝えているのも戸黒さんだ。たぶん彼は、忙しい両親以上に私のことをよく知っている。


 年齢もそこそこいっているはずだけど、戸黒さんの見た目は若くて私が幼いときからあまり変わっていないように見える。


 背が高くて、どちらかというと顔立ちの整っている年齢不詳な戸黒さん。彼は、椎堂家の女性のお手伝いさんのあいだで結構な人気がある。


 仕事ができる人間は、どこの世界でもかっこよく見えるものらしい。


 でも……、私は昔から戸黒さんが少し苦手だ。


 三白眼気味の戸黒さんの目は、いつも冷たく、蛇のように無機質で。その目に見られると、理由もなく怯えてしまう。


 戸黒さんと事務的に会話をしている様子の稀月くんを待っていると、戸黒さんのほうが先に私に気付いて振り向いた。


「お待たせしてすみません、瑠璃さん」


 私に無機質なまなざしを向けながら、口元にだけ笑みを浮かべる戸黒さんにぺこりと頭を下げる。


「おはようございます」


 私は戸黒さんに挨拶すると、彼の横を早足で通り抜けて、磨いて揃えてある茶色のローファーに足を通した。


 すぐにあとを追いかけてきた稀月くんが、靴を履いて先に玄関のドアを開けてくれる。


「行きましょうか、お嬢様」

「うん」

「お気をつけて。瑠璃さん、夜咲くん」 


 冷たい笑みを浮かべた戸黒さんが、私たちに頭を下げる。


 戸黒さんは昔から、毎朝、学校に行く私を玄関で見送ってくれる。


 けれど、私にかけてくれる「お気をつけて」という声のトーンは、仕事に出かける父や買い物や友達との食事に出かける母にかけるときより冷たい。それも、私が戸黒さんを苦手だと思う要因のひとつかもしれない。


「いってきます」


 戸黒さんに挨拶をして玄関を出ると、稀月くんが微妙に距離をとって、私を警護するように後ろからついてきた。


 家の門の外に出ると、今度は黒の送迎車が待っていて、運転手の黒多さんが後部座席のドアを開けてくれる。


 前髪をピシッと横に分けて、黒のスーツを着た生真面目な印象の黒多さん。彼は、椎堂家に仕えて十年になるベテランで、数年前までは母の専属運転手をしていた。


「おはようございます。瑠璃るりお嬢様」

「おはようございます」


 十六歳の小娘相手にひどく畏っている黒多さんに会釈をすると、私は車に乗った。そのあとすぐに、稀月くんが私の隣に乗り込んでくる。


 少し待っていると、黒多さんが運転席に戻ってきた。


「お嬢様、今日はヴァイオリンのレッスンに変更があるそうです」


 車が動き出すと、稀月くんが戸黒さんから指示を受けたスケジュールの変更を私に伝えてくる。


「そうなの?」

「はい。今日は、先生の都合でレッスンはおやすみです」

「わかった。じゃあ、今日は病院に寄って帰れるかな?」

「そうですね。お嬢様が希望されるなら、スケジュールを調整します」

「ありがとう」


 お礼を言うと、稀月くんが私のほうを見て、ほんの少し眦をさげた。


 光の当たり具合によって、ときどき金色にも見える稀月くんの琥珀色の瞳。隙がなく、常に周囲を警戒して鋭く尖っているそれが、ごくたまに、私の前でだけゆるむ。


 その瞬間が、私はたまらなく好きだ。


 その一瞬だけは、稀月くんのことを高校生のふつうの男の子みたいに身近に感じられて、胸の奥がきゅっとする。


 稀月くんのことを見つめていると、彼が私から顔をそらして前を向いた。


 そのまなざしは、いつもの無表情に戻っている。


 艶やかな漆黒の髪、フロントガラスの向こうを真っ直ぐに見つめる眦の少し上がった琥珀色の瞳。整った顔立ちをした稀月くんの綺麗な横顔は近寄りがたく、警戒心の強い猫みたいだ。


 夜咲よるさき 稀月きづきという彼の名前も、月の輝く夜の闇にたたずむ美しい黒猫を思わせる。


 稀月くんが私の前に現れたのは、半年前。私が高校生になったときだ。


 そのときから、彼は私と一緒に暮らしている。


 といっても、私と稀月くんは、恋人だとか婚約者だとか、そういう甘い関係じゃない。


 稀月くんは、両親に雇われた私のボディーガード。そして、私――、椎堂しどう 瑠璃るりは、不動産関連の会社をいくつも経営する椎堂しどうグループの社長の娘。


 稀月くんは、父と結んだ契約のもとに、今日も《お仕事》で私のそばにいる。


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