白き蓮の探偵記録 ― 記憶を失った少年と神隠しの巫女

蒼獅

魂の叫びと、蓮の香り

放課後の夕暮れ。商店街のざわめきの中を、高校生の白蓮透真はゆっくりと歩いていた。


ヘッドフォンから流れる静かなピアノ曲が、周囲の喧騒を薄く覆うように耳へと届く。


──いや、それはただの音楽ではない。透真にとっては、世界と距離を取るための“結界”だった。


人の心の声──“魂の叫び”が聞こえてしまうという異能。


それは、彼が生まれつき持っていた呪いだった。


「……うざい。あいつ、また来てるし」

「なんで私だけ、こんな目に……」

「死ねばいいのに」

ヘッドフォンを外した瞬間、他人の心の奥底から噴き出す怒りや嫉妬、憎しみが一斉に流れ込んでくる。


だから彼は、いつも音で塞いでいた。世界から、自分の心を守るために。


けれどその日、すれ違いざまにぶつかった誰かの肩の衝撃で、右耳のヘッドフォンが外れた。


「──消えてしまえ……」

一瞬の空白。


透真の身体が反応するより早く、鋭く刺すような怨嗟えんさの声が頭の奥に響き渡る。


彼はすぐにヘッドフォンを戻したが、心に刻まれた“声”の余韻は消えなかった。


「……ちっ。今日も最悪だな」

ため息とともに視線を上げると、風に乗ってふわりと漂う香りが鼻をくすぐった。


──蓮の香り。


周囲には香を焚いているような場所はない。それでも、確かにそこに在る香気だった。


不思議に思いながら商店街の掲示板に目をやると、色あせたチラシの中に、一枚だけ新しい紙が混ざっていた。


『アルバイト募集 呪われた人歓迎』


「……は?」

透真は思わず声を漏らす。悪戯か、誰かの冗談か──。


しかしその瞬間、また蓮の香りが漂った。


彼の心の奥で、何かがかすかに動いた。


* * *


指定された住所を頼りに、透真が辿り着いたのは、古びたビルの三階だった。


『九条探偵事務所』と書かれた控えめな木製の看板。その前に立った瞬間、香の香りが濃くなった気がした。


ギイ……。


木製の扉を押すと、静かな音が空間に染み込んでいく。


中は意外にも清潔で、柔らかい光が差し込んでいた。和紙のランプ、書物が並ぶ棚、そして部屋の中央に置かれた香炉。


白い煙が天井へ向かってゆっくりと昇っている。


「いらっしゃい」

声がした方に視線を向けると、そこには銀髪の青年が立っていた。


落ち着いた紫と金の刺繍が入った衣をまとい、鋭くも静かな青い瞳が透真を見つめている。


その空気は、異質だった。人間のものではないような静けさと威圧感。


「君が……呪われてる少年、だな」

「は?」

「そのヘッドフォン、外してごらん。ここでは大丈夫だ」

警戒しつつも、透真はゆっくりと右耳のヘッドフォンを外す。


しかし、頭の中には何の声も流れ込んでこなかった。


「……なんで? 聞こえない……」

「ここは、結界で守られている。俺が張ったものだ」

透真は思わず男を見上げた。


「君の呪い──“魂の声”を聞く力。それを制御する方法がある」

男の名は九条清蓮。

陰陽師を名乗る彼の言葉に、透真は戸惑いながらも興味を抱いていた。


やがて、事務所の扉が再び静かに開く。


「すみません……ここ、九条探偵事務所ですよね?」

現れたのは、清楚な雰囲気の女性だった。

肩にかかる栗色の髪。どこかはかなげで、それでいて芯の強そうな眼差し。


「鏡から……声が聞こえるんです。“助けて”って。毎晩、必ず……」

依頼の内容に、透真の背筋がわずかに冷たくなった。


(また、魂の声……?)


九条はゆっくりと頷き、透真に視線を向けた。


「透真。ついて来い。試しに、この依頼に同行させてやる」

──こうして、彼の“探偵記録”は静かに幕を開けた。


【続く】

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