第8話 夏制服と風のいたずら

六月の始め、学校では制服が夏服に切り替わる時期だった。教室に入ると、白いシャツ姿の生徒たちで溢れている。冬服より開放的な雰囲気が、夏の訪れを感じさせる。


「おはよう、颯太」


玲衣の声に振り向く。制服が変わると、彼女の印象も少し変わる。白い半袖ブラウスに青いリボン、すっきりとした夏の装い。


「おはよう。夏服、似合ってるね」


「そう? ありがとう」


僅かに頬を染める玲衣。メガネの奥の目が少し揺れた気がした。


「颯太くんも夏服、爽やかね」


「そうかな」


「うん。去年より肩幅広くなった?」


その言葉に、少し照れくさくなる。確かに最近、少しだけ体格が良くなった気がする。


「気のせいじゃない?」


「いいえ、わかるわ」


玲衣はそれ以上何も言わず、自分の席に向かった。その後ろ姿を見送りながら、彼女の首筋が夏服になって見えることに気づく。普段はスカーフや襟元に隠れている部分だ。


授業が始まり、窓を開け放った教室に初夏の風が入り込む。開放感のある気分で、窓の外を見ていると、中学校の校庭で体育をしている生徒たちが目に入った。


よく見ると、菜々と里奈のクラスだった。菜々は元気に走り回り、里奈は静かに立っている。双子なのに、こうも違うものかと思う。


「結城、授業に集中したまえ」


教師の声に慌てて前を向く。数学の問題を解きながらも、時々窓の外に視線が泳いでしまう。


昼休み、屋上で弁当を食べていると、後ろから声がかかった。


「先輩!」


振り向くと、桜庭天音が立っていた。夏服姿の彼女は、冬服の時より一層小柄に見える。


「ああ、桜庭」


「ケーキ、美味しかったですか?」


「うん、とても。菜々と里奈も喜んでたよ」


「本当ですか? よかった!」


天音の顔が明るくなる。純粋な笑顔だ。


「あの、もしよかったら…今度うちのお店にも来てください。もっと美味しいお菓子ありますよ」


「ああ、行ってみたいな」


「本当ですか? じゃあ、今週末とか…」


「結城先輩!」


声に振り向くと、生徒会の後輩が立っていた。


「会長が呼んでます。緊急の会議だそうです」


「わかった、すぐ行く」


天音に申し訳なさそうに笑いかける。


「ごめん、また今度話そう」


「はい! 頑張ってください!」


天音は元気よく手を振った。その仕草が小動物のように愛らしい。


生徒会室での会議は予想以上に長引いた。体育祭の準備について、延々と議論が続く。窓の外では風が強くなり、桜の葉が舞っていた。


会議が終わり、教室に戻ろうとすると、廊下で玲衣とぶつかりそうになった。


「あ、ごめん」


「いいえ、私こそ」


玲衣の腕に抱えた書類が、風で数枚舞い上がる。


「あっ!」


二人で慌てて拾い始めた。風に乗って廊下の端まで飛んでいく紙を追いかける。


「これ、最後の一枚」


床に落ちた紙を取ろうとして、二人の手が重なった。柔らかな感触と温かさ。


「あ…」


玲衣の顔が赤くなる。僕も恥ずかしくなって手を引っ込めた。


「ごめん」


「ううん…」


窓からの風が二人の間を通り抜ける。玲衣の髪が揺れ、その香りが鼻をくすぐった。微かなシャンプーの香り。


「風、強いね」


「そうね」


会話が途切れる。何か言うべきか迷っていると、玲衣が書類を抱え直した。


「ありがとう、助かったわ」


「どういたしまして」


玲衣が歩き出す。その背中を見送りながら、さっきの感触が手に残っているような気がした。


放課後、教室で荷物をまとめていると、携帯が鳴った。


「もしもし?」


『颯太兄ちゃん? 今どこ?』


菜々の声だ。


「学校だけど、これから帰るところ」


『じゃあ、正門の前で待ってる! 里奈と一緒!』


「え? どうして?」


『姉ちゃんがさ、みんなでケーキ屋さんに行こうって!』


「紗耶さんが?」


『うん! 今日バイト休みだって!』


「わかった、すぐ行くよ」


電話を切り、急いで荷物をまとめる。紗耶が誘ってくるというのは珍しい。いつもは家事や大学の課題で忙しそうだった。


正門に向かうと、菜々と里奈が立っていた。夏服の二人は冬服の時より一層若々しく見える。特に菜々のポニーテールは風になびいて、活発な印象だ。


「颯太兄ちゃん!」


菜々が手を振る。隣の里奈は静かに頷いた。


「久しぶりだね、こうやって一緒に帰るの」


「そうだね、兄さん」


里奈の返事は短いが、その目には期待が浮かんでいるように見えた。


「紗耶さんは?」


「あ、先に店に行ってるって。予約したんだって」


「そっか」


三人で駅に向かって歩き始める。菜々が真ん中で活発に話し、僕と里奈はそれぞれ両側で聞いている。


「ねえねえ、颯太兄ちゃんのクラスの子たち、夏服になってどうだった?」


「え? 普通じゃないかな」


「えー、気になる子とかいないの?」


「特には…」


「ほんとに? 白石さんとか?」


その名前に、思わず足が止まりそうになる。


「なんで玲衣の名前が出てくるんだよ」


「だって、幼馴染でしょ? 特別な感じがするもん」


菜々の鋭い指摘に、言葉に詰まる。


「ただの幼馴染だよ」


「本当?」


「本当だって」


里奈は黙って二人のやりとりを聞いていたが、その目は何かを見透かすようだった。


駅に着くと、電車を待つ間、強い風が吹いてきた。菜々のスカートが風で舞い上がりそうになる。


「きゃっ!」


慌ててスカートを押さえる菜々。その仕草に、思わず目を逸らす。


「風、強いね」


「もう、びっくりした」


菜々は頬を赤くして笑った。里奈も同じように手でスカートを押さえていたが、その動作は菜々より落ち着いている。


電車に乗り、指定のケーキ屋に向かう。店に入ると、窓際の席に紗耶が座っていた。


「お姉さん」


「颯太くん、来てくれたのね」


紗耶は微笑んだ。白いワンピース姿で、髪は少し巻き髪にしている。いつもより女性らしい印象だ。


「どうしたの、急に」


「たまには家族で出かけたいなって思って」


紗耶の言葉には、何か特別な響きがあった。家族。その言葉が心地よく響く。


「ここのケーキ、美味しいのよ」


紗耶はメニューを開いた。それぞれが好きなケーキを選び、注文する。


「颯太くん、学校はどう?」


「普通かな。体育祭の準備が始まったよ」


「そう、頑張ってね」


紗耶の視線が優しい。その目には何か言いたげなものが浮かんでいる。


「お姉ちゃん、バイト最近多いよね?」


菜々の問いに、紗耶は少し目を逸らした。


「ええ、ちょっとね」


「何か欲しいものでもあるの?」


「それは…秘密よ」


紗耶は人差し指を唇に当て、ウインクした。その仕草に、思わず見入ってしまう。


ケーキが運ばれてきた。それぞれが美味しそうに食べ始める。窓の外では風が木々を揺らしている。


「兄さん」


「なに?」


「あ〜ん」


里奈がフォークでケーキを差し出した。その突然の行動に、驚いて固まる。


「え?」


「どうぞ」


里奈の真剣な表情に、断れない雰囲気を感じる。恥ずかしさを押し殺して、口を開く。


「あ…ん」


甘いチョコレートの味が広がる。里奈の微かな笑みが見えた気がした。


「私も! 私も!」


菜々も負けじとフォークを差し出す。その積極性に、またしても戸惑う。


「も、もういいよ」


「えー、ずるい!」


菜々が頬を膨らませる。その子供っぽい仕草に、思わず笑みがこぼれる。


紗耶はそんな三人のやりとりを静かに見ていた。その目には複雑な色が浮かんでいる。何かを決意したような、そんな表情だった。


「みんな」


紗耶の声に、三人の視線が集まる。


「この週末、海に行かない?」


「海?」


「うん。父さんから、会社の保養所を使っていいって言われたの」


「やったー! 海だ!」


菜々が歓声を上げる。里奈も小さく頷いた。


「いいの?」


「ええ。颯太くんも行きたい?」


紗耶の問いに、考える余地はなかった。


「もちろん」


「じゃあ、決まりね」


紗耶は嬉しそうに微笑んだ。その表情には、どこか安堵の色が見えた。


帰り道、夕暮れの空が赤く染まっている。風はさっきより弱まり、穏やかな夕方になっていた。


「楽しみだね! 海!」


菜々は弾むような足取りで歩いている。里奈もいつもより表情が柔らかい。


「兄さん、泳げますか?」


「まあね。そんなに得意じゃないけど」


「私、教えますよ」


里奈の言葉に、少し驚く。普段は静かな彼女が、積極的な一面を見せるのは珍しい。


「ありがとう。でも大丈夫だよ」


「いえ、私が教えたいんです」


断固とした口調に、思わず頷いてしまう。


「わかった」


家に着くと、それぞれが自分の部屋に向かった。僕も部屋に入り、窓を開ける。夕暮れの風が部屋に流れ込む。


窓の外を見ると、隣家の玲衣の部屋の窓も開いていた。カーテンがふわりと風に揺れるのが見える。そこに一瞬、玲衣の姿が映った気がした。


手を振ろうかと思ったが、すぐにカーテンが閉まった。見間違いだったのだろうか。


ベッドに横になり、天井を見つめる。今日の出来事、風で飛んだ紙、玲衣との手の触れ合い、ケーキ屋での家族との時間。そして来週末の海。


この新しい日常は、少しずつ僕の中に定着してきている。最初の戸惑いは、今では穏やかな心地よさに変わりつつあった。


窓から入る風が、カーテンを優しく揺らす。夏の始まりを告げる風は、これからの日々にも何かの変化を運んでくるのかもしれない。

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