第9話 体育祭のリレーと手の温度
「よーい、ドン!」
校庭に響く声と共に、クラス対抗リレーの選手たちが一斉に駆け出した。六月中旬、体育祭の日だ。快晴の空の下、応援席からは歓声が上がっている。
僕は三走者。まだバトンは回ってこない。スタンバイしながら、一走の玲衣に視線を向けた。彼女の背中にクラスの期待がかかっている。風のように走る姿は、いつもの静かな図書委員会の彼女からは想像できないほど躍動的だ。
「白石さん、速い!」
隣のクラスの生徒たちも驚いている。確かに、玲衣のスピードは予想以上だった。彼女は着実に前を行く選手を追い抜いていく。
「颯太兄ちゃーん!」
応援席から菜々の声が聞こえた。振り向くと、フェンス越しに菜々と里奈が立っている。中学生なのに高校の体育祭を見に来たらしい。菜々は元気よく手を振り、里奈は静かに頷いた。
「頑張って!」
その声に力をもらい、二走者から自分へのバトンに集中する。
「結城、準備!」
二走の声で構えると、バトンが手渡された。その瞬間、体が自然と前に弾けた。
風を切る感覚。足の裏から伝わる地面の固さ。肺に流れ込む空気の冷たさ。
僕は全力で走った。クラスのため、応援してくれる人たちのため、そして自分自身のため。
「結城先輩、すごい!」
コーナーを曲がると、最終走者の待機場所が見えてきた。そこには天音が立っていた。彼女は緊張した面持ちで手を広げている。
「桜庭!」
バトンを渡すと、天音は小柄な体で懸命に走り始めた。僕はそのまま勢いで数歩進み、ようやく立ち止まる。息が上がり、視界が少しぼやける。
「颯太、大丈夫?」
玲衣が水筒を差し出してくれた。冷たい水を一口飲むと、少し落ち着いてきた。
「ありがとう」
「いい走りだったわ」
玲衣の言葉に、少し照れくさくなる。
「天音、いけるかな」
「大丈夫よ。彼女、意外と速いから」
玲衣の言葉通り、天音は小さな体で驚くほど速く走っていた。フィニッシュラインを越える彼女の姿に、クラス全員が歓声を上げる。
「三位! 三位だぞ!」
予選突破の知らせに、クラスメイトたちが喜びを爆発させる。僕も思わず拳を上げた。
「先輩! やりましたね!」
天音が走り寄ってきた。その顔には汗と涙が混じっている。嬉しさと安堵の表情だ。
「桜庭こそ、すごかったよ」
「い、いえ! 結城先輩のおかげです! バトンもらった時、もう…」
息を切らしながらも言葉を続ける天音。その真剣な表情に、思わず頭を撫でそうになる。でも、周りの目があるので我慢した。
「颯太兄ちゃん!」
菜々が駆けてきた。その後ろには里奈もいる。
「やったね! 超かっこよかった!」
「ありがとう。でも、お前たち授業は?」
「特別に見学許可もらったんだよ! 姉ちゃんが中学校に電話してくれて」
「紗耶さんが?」
「うん! 今日は来られないって言ってたけど、応援してるって」
紗耶は大学のテスト期間中で来られないと言っていた。それでも、妹たちのために計らってくれたようだ。
「兄さん」
里奈が静かに近づいてきた。制服姿の彼女は、大きな水筒を差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
水筒を受け取ると、中のスポーツドリンクが冷えたままだった。どれだけ時間をかけて準備してくれたのだろう。
「兄さん、速かったです」
「そうかな」
「はい。とても」
里奈の目は真剣だった。その視線に、なぜか照れくさくなる。
「あ、白石さん! こんにちは!」
菜々が玲衣に気づいて声をかけた。
「こんにちは」
「すごい走りだったね! まるで風みたい!」
「そんなことないわ」
玲衣は少し照れた様子で目を逸らす。その仕草が珍しく、何だか可愛らしい。
「みんなで記念写真撮らない?」
菜々の提案に、玲衣が少し驚いた顔をした。
「私も?」
「もちろん! 颯太兄ちゃんの大事な友達だもん!」
玲衣の表情が柔らかくなる。それはいつも見せない、素直な笑顔だった。
「白石先輩、一緒に撮りましょう!」
天音も加わり、五人での写真撮影が始まった。菜々がスマホを構えると、皆が自然と颯太を中心に集まる。
「はい、チーズ!」
フラッシュが光る。その瞬間、何か特別な瞬間を切り取ったような気がした。血のつながりはなくても、確かな絆で結ばれた人たちとの一枚。
「いい写真! 皆に送るね」
菜々は満足そうに写真を確認している。里奈も隣で覗き込んでいた。
「桜庭さん、元気ね」
玲衣の言葉に、天音は小さく頷いた。
「はい! 料理部と体育の両立で体力つけました!」
「そうなの。頑張ってるのね」
二人の会話を聞きながら、何か言うべきか迷っていると、校内放送が鳴った。
「次の種目、三年生男女混合リレーの参加者は準備をお願いします」
「あ、行かなきゃ」
「がんばって!」
菜々が元気よく応援する。里奈も小さく頷いた。
「頑張ってください、先輩!」
天音も応援してくれる。周りに人がいる中で、こんなに応援されるのは少し照れくさい。でも、嬉しい気持ちの方が大きかった。
「行ってくるよ」
競技場所に向かいながら、振り返ると四人が手を振っていた。その光景が、妙に心に残る。
男女混合リレーは、息の合った走りで見事に優勝することができた。玲衣との最後のバトンパスは完璧だった。彼女の手から僕の手へ、その一瞬の感触が温かい。
競技が終わり、表彰を受けた後、僕と玲衣は憩いの場所に座っていた。二人とも汗だくで、水を飲みながら息を整えている。
「久しぶりだね、こうやって一緒に競技するの」
「そうね。小学校以来かも」
「あの時は二人で三脚だったっけ」
「うん。転んじゃったよね」
「ごめん、あれは俺が原因で」
「いいのよ。楽しかったから」
玲衣の笑顔には、懐かしさと温かさが混じっていた。
「菜々ちゃんたち、帰ったの?」
「うん、里奈が明日のテスト勉強があるって」
「そう。里奈ちゃん、真面目ね」
「そうだね」
風が二人の間を通り抜ける。少し汗が引いて、心地よい風だった。
「あのさ」
「なに?」
「この週末、海に行くんだけど」
「ああ、紗耶さんが言ってた保養所?」
「うん。もし良かったら、玲衣も来ない?」
その言葉に、玲衣の目が開いた。
「私も?」
「うん。紗耶さんに聞いたら、友達も連れてきていいって」
実際には、昨日紗耶に断りなく誘うつもりだったが、先に相談しておいた。紗耶は少し考えた後、「いいわよ」と承諾してくれた。その表情には複雑なものがあったが、反対はしなかった。
「でも、家族旅行でしょう?」
「いや、そんな堅苦しいものじゃないよ。皆でわいわいやる感じ」
「そう…」
玲衣は少し迷っているようだった。
「ダメ?」
「いえ、行きたいわ。でも、親に聞かないと」
「そうだね。今日中に教えてくれると嬉しいんだけど」
「わかった、帰ったら聞いてみる」
玲衣の表情が明るくなる。その笑顔を見ていると、何だか胸が温かくなった。
「あの子も誘うの? 桜庭さん」
「え? まだ考えてなかったけど」
「そう」
玲衣の声には、少し安堵が混じっていた気がする。
空を見上げると、雲一つない青空が広がっていた。六月の太陽が照りつける中、汗で湿った制服が風で少し冷たく感じる。
この瞬間、僕の周りには大切な人たちがいる。それは血のつながりよりも、もっと不思議な縁で結ばれた関係。
「結城! 閉会式始まるよ!」
クラスメイトの声に、二人は立ち上がった。肩が触れ合うほどの近さで歩きながら、何も言わなくても心地よい沈黙が流れる。
その日の夕方、玲衣から「行けることになった」というメールが届いた。週末の海。それは新しい思い出の始まりになるのだろうか。
部屋の窓から外を見ると、夕暮れの空が赤く染まっていた。まるで、これから始まる何かを予感させるかのように。
義姉妹と。恋になる前に、好きになった。 @umino_sora
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