第16話 聖女を導きし名もなき馬番

東の空にわずかに光が差す頃――フォルンコート伯爵家の敷地内にある厩舎では額に汗をにじませ、せっせと働く男の姿があった。


「ほら”シロ”やた~んとお食べ。今日もしっかり働いてもらわないといけないからな」


専用のブラシで白い毛並みを整えながら、男は穏やかな声で語りかける。


その時、ふらふらとした覚束ない足取りで近づいてくる人影があった。


「誰だ? 厩舎にうかつに入ってきちゃダメだ!」


ババンは気配のする方へと向き直り、とっさに声を上げた。


馬は臆病で警戒心の強い生き物だ。見知らぬ者が不用意に近づけば暴れるおそれがある。厩舎への立ち入りが関係者以外に禁じられているのは、そのためであり、お屋敷中にその規則は周知されているはずだった。


にもかかわらず、そこに現れたのは──


“ある理由”で目を覚まし、寝つけないまま夜をさまよっていた小さな少女。フォルンコート伯爵家の次女、レイチェル=フォルンコートだった。


「おや、よく見れば……お嬢様じゃねぇですか。いってぇ、こんな場所にどうして?」


ババンは驚いたように目を見張り、少女に問いかけた。


「……あら、ババン? ってことは、ここは“きゅうちゃ”だったのね……」


レイチェルはあどけない声でぽつりとつぶやくと、自分の足もとを見て小さく首をかしげた。


「レイ、どうやってここに来たのか……おぼえてないの。気がついたら“おうち”が見えて……でもレイのおうちじゃなくて、お馬さんのおうちだったの」


ナイトドレスの裾を引きずり、寝ぼけ眼で語るその姿に、ババンは思わず頭をかいた。


「さぁ、お嬢様。お屋敷に戻りましょう。このババンがちゃんとお連れしますだ」


迷子のご令嬢を促すように、ババンは優しく声をかけた──その時。


「やっ! レイ、おんまさんと一緒に寝る。おふとんに……ち、ちず、できちゃったから、戻りたくないの」


あどけない顔を“イヤイヤ”と横に振りながら呟く少女の言葉に、ババンもハッと気づかされる。


(お嬢様はまだ“お漏らし”も仕方のないお年頃……けど、幼いなりに恥ずかしく思っていなさるんだな)


そう察したババンは、レイチェルの心情を慮り、落ち着くまで仕事の手を止めてしばらくお相手をすることにした。


こうして、“馬番”の使用人と伯爵家の次女との会話が始まったのだった。


「おんまさんは、なんでしゃべれるの?」


レイチェルが不思議そうに尋ねる。


「そりゃあ、生まれはたいしたもんじゃありゃしませんが、言葉くらいは話せますだ。読み書きも、少しくれぇはできますだよ」


なんてこと聞くんだと内心で苦笑しつつ、ババンは素直に答えた。


「おんまさんなのに、すごいね。えらいえらい」


そう言って、レイチェルはつま先立ちになり、丸イスに腰かけていたババンの頭を撫でた。


(……まだ寝ぼけておいでなんだな。こりゃ、オラのことまで馬だと勘違いしてる……)



「お嬢様、馬だってな、生まれたばかりの頃は、きちんとトイレなんぞできんもんです。

じゃが、少しずつ場所を覚えて、ゆっくりできるようになっていく。人間も、まったく同じでございます。

ですから、お嬢様、ちっとも気に病むことじゃありませんよ」


ババンが優しく語りかけると、レイチェルは小さく首を傾げた。


「ふ~ん。おんまさんも最初はできないのね。

じゃあ、あなたも最初はできなかったの?」


レイチェルの問いに、ババンはにっこり笑って答えた。


「もちろんですだ。オラも、そこにいる“シロ”も、みんなそうですだよ」


そう言って、白馬のシロを指さす。


「へぇ……それなら、レイもそのうちできるようになりまちゅわね」


沈んでいた声に少しだけ弾みが戻り、レイチェルはシロに視線を向けながら微笑んだ。


「もちろんですだ!」


ババンも嬉しそうに頷き、ようやく浮かんだ少女の笑みに心の中でそっと安堵するのだった。


「ねぇ、シロちゃんってとっても綺麗ね」


レイチェルがうっとりとした表情でつぶやくと、

「はい、この厩舎一のべっぴんさんでございます」

と、ババンは胸を張って答えた。


「あなたたちはつがいなの? すごく仲良しみたいだから」


突拍子もない質問に、ババンは一瞬目を丸くし、すぐに豪快に笑い出した。


「ガハハハハ! お嬢様、シロは確かにべっぴんじゃが、さすがに人間と馬じゃつがいにはなれませんだよ」


するとレイチェルが、心底驚いた様子で口を開いた。


「えっ! あなた、人間だったの?」


その一言に、ババンは目をぱちくりさせて固まる。


「お嬢様、そりゃいくらなんでも……。たしかに馬面だとか言われますが、オラはれっきとした人間でございますよ……!」


ここにきてようやく、ババンは理解した。お嬢様は本気で、自分のことを“話す馬”だと思い込んでいたのだと――。


(後にこのご令嬢が物凄く思い込みの激しいご令嬢だと知る事となる)


こうして、フォルンコート伯爵家の次女と“馬面”の馬番との不思議な交流が始まった。


レイチェルはその日以来、ときおり厩舎をふらりと訪れてはババンとたわいない話をしたり、シロの世話を手伝ったりするようになった。


ときには馬たちの飼い葉をもらいに庭師のグロリオのもとを訪れ、また、土を富ますための馬糞を取りにババンの元を訪れる――そんな不思議な“往復”も、日常の一部になっていったという。


やがて、馬とのふれあいを通じて乗馬に興味を持ったご令嬢は、訓練を積み重ね、

成長した彼女は、やがて――ポルテア沿岸守護隊を率いる将として、颯爽さっそうと馬を駆る存在となるのであった。



ポルテアの聖女伝説に記録された”初陣”の一節にこうある――

「聖女の武勇伝には、いかなる理由か、船上における活躍の記録は見られない。

一説には、幼少の頃より馬と親しみ、一頭の白馬に深き愛情を注ぎ育てられたことが、その所以と伝えられている。

されど、王国随一の騎乗の才を誇った彼女の背を支えし者――名もなき一人の馬番の存在も、確かに歴史に刻まれている。

サウスポルトニアが未曾有の危機に瀕した折、彼女は討伐隊を率いて颯爽と現れ、その姿、まさしく天より遣わされた女神の如しと、記録には記されている。」




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