私的世界構造論

柊アカネ

梓と潮音、私的世界と現実世界

プロローグ・作者の思想概略


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第一部:私的世界と序終章


私が産まれた時に私の世界は産声を上げ、私の死と共にその幕は降りる。その世界では、登場人物は私一人であり、私だけの真理が存在し、それは現世の真理とはある点で相反し、ある点で合致し、ある点で不和を奏でる。きっとそんなものだ。私の世界の潮騒が、あなたの世界の教室の風切音であったらいい。


第二部:機械基盤世界論


私は私以外の存在が機械のようなものであったならよかったと思う。それならそうで、私は私の世界だけを盲信できたはずなのに。ただ、その盲信は愛を排斥しているのと同義である。孤独に生きるということは、愛を知らないということだ。周りが機械であったなら、その世界では誰も愛を知らぬまま死んでいく。


第三部:私的世界構造論


私が思うに、人というのは人との繋がりがなければ生きていけないのだと思う。なら私はどのようにして私の世界に潜水しているのだろうか。きっと、私だけの世界とはいえ、私の世界には誰かの"エッセンス"のようなものは確かにある。誰かの言葉の切れ端だとか、誰かが私に遺した傷跡だとか……そういうのを包括して、私の世界と呼べるのだろう。しかし、根本的に、私が死ねばこの世界が終わるというのは事実である。それが私の唱える"私的世界構造論"だ。


終部:私的世界と現実世界の相対


もし現実世界に生きる人類が機械であったら。もし私の世界が途端に終わりを告げたら……そんなことを考える度に、つくづくこの世界は私にとって最高な思考の場だと考えられる。

『嗚呼なんて素敵な世界なんだ!』

私は世界に話しかけた。その世界は、いつも2つ、私のそばにあったのだ。


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第一章:潮音坂にて

小樽の坂道には、季節の気配が長くとどまる。
秋が冬の背中を押しながら、街をゆっくり染めていくように、あの日も海風は柔らかかった。

「……ねえ、梓。もしこの世界の人間が全員機械だったら、どうする?」

文学クラブの活動日。坂の上の公園。放課後の空がゆっくりと群青に沈む時間。ベンチに座る瀬下潮音が、文庫本から顔を上げて尋ねた。
三鷹梓は、その問いにすぐには答えず、しばらく海の方を見つめていた。凪いだ水面が、夕陽に薄く照らされている。

「うーん……それなら、私はもっと強くなれてたかもね」

「強く?」

「他人の目を気にせず、自分の中の世界だけを信じて生きられるって意味で。……でもそれって、たぶん愛を知らないってことだよ」

潮音は、ふふっと笑った。「それ、詩に使えそうだね」

「使っちゃダメ。私の世界の核なんだから」

そう言って、梓は潮音に向かって小さく微笑んだ。あたたかくて、少しだけ寂しげな、あの笑顔。

この2人には、もうずっと前から続いている"世界"がある。
小学校の頃、梓が初めて書いた短い詩に潮音が「すごい」と言って以来、その世界は少しずつ形を変えながら膨らんでいった。

文学クラブの部室は、校舎の裏側、階段を上がった先の使われなくなった資料室。今では2人だけの秘密基地みたいな場所。そこには、梓の綴った「私的世界構造論」がファイリングされていた。潮音はそれを読むたびに、何かを発見したような顔をする。

「でも、本当にそんなこと考えてるんだね。誰かが機械だったらって」

「だって……みんな、同じ言葉で笑って、同じ顔で疲れて。まるでプログラムみたいに見える時がある。私たち以外は、何か"現実"の仮想人間なんじゃないかって思う」

「でも俺は違うでしょ?」

梓は、黙ったまま潮音を見た。
そして、ほんの一瞬だけ、彼女の世界と潮音の世界が交差した。


第1話・完


第一章:放課後の文学クラブ

文学クラブの部室は、北校舎の裏手にある、かつて資料室だった空き部屋。今は三鷹梓と瀬下潮音、2人のためだけにある静かな空間だった。

棚には古い詩集や文芸雑誌、寄贈された哲学書が無造作に並び、窓からは坂の向こうの海が少しだけ見える。外の喧騒から隔離されたこの場所は、まるで梓の“私的世界”を現実に落とし込んだような空間だった。

その日も、梓は自分のノートを開き、鉛筆を走らせていた。

「“私が死ねば私の世界は終わる。”──なんて、強い言葉だよな」

潮音はノートを覗き込みながら、ぽつりとつぶやく。

「それ、書いたときはあんまり深く考えてなかったの。自然と出てきた言葉だった。でもね……今は、少しだけ重く感じるの」

「死んだら終わるってこと?」

「ううん。終わるけど……その中には、あなたの“エッセンス”も入ってるなって思って」

潮音はその言葉に、何も返さなかった。ただ、窓の外に視線を移し、黙って潮の匂いを吸い込んだ。

静かな空気が流れる。

でも、その沈黙は不快ではなく、むしろ2人の間にだけ許された“私的世界”のリズムのようだった。


第二章:提案

数日後、梓と潮音の通う小樽東高校で“校内論文発表会”の案内が掲示された。

文化系のクラブや個人からの参加を募る、年に一度の発表会。過去には歴史研究部や新聞部が入賞していたが、文学クラブが出場したことはない。

その日もいつものように部室で本を読んでいた潮音が、パンフレットを持ってきた。

「これ、出てみない? 梓の“私的世界構造論”を使って」

梓は目を丸くした。

「え……本気で言ってるの?」

「うん。本気。だってあれ、めちゃくちゃ面白いし、俺以外の誰かにも見せたいと思った」

「でも、それって……すごく個人的な世界だよ?」

潮音はにっこり笑った。

「だから、俺と一緒に発表しよう。“私的世界”と“現実世界”の交差点を探す論文ってことで。2人の視点があることで、きっとより立体的になる」

しばらく沈黙したあと、梓は小さく笑った。

「……面白そうね。やってみよっか」


第三章:論文とリハーサル

2人は放課後の時間を使って、論文の骨子を練りはじめた。
梓は、自身のノートから重要な節を抜き出し、潮音はそれに現代思想や文学史の知識を織り交ぜて、構造を形にしていく。

潮音は梓の言葉にいちいち驚き、称賛し、問いかけを投げ続けた。
梓もまた、潮音の論理的な補完に何度も助けられた。

「“孤独を選んだ者は、愛を知ることができない”……か。俺、逆に思ってたんだよね。孤独だからこそ、愛を渇望するって」

「それ、論文に入れよう。2人の“矛盾”を、1つの視点のように見せるの」

いつしかこの活動は、ただの発表会のためではなく、2人にとって「世界を重ねる儀式」になっていた。


第四章:崩れるバランス

しかし、論文の完成を目前にして、少しずつ歯車が狂いはじめる。

ある日、潮音はふと口にした。

「……梓って、本当に誰かに自分の世界を渡したいと思ったことある?」

その言葉に、梓の表情がほんの一瞬、曇った。

「わたしの世界は、わたしだけのもの。でも……潮音なら、触れてもいいと思ったの。たったひとりだけ」

「……嬉しいけど、それって、責任が重すぎる」

その日を境に、潮音は少しだけ距離をとるようになった。部室に来る頻度も減り、梓は一人で原稿を仕上げる日々が続いた。


第五章:再会と決意

発表会の2日前、梓はひとり坂の上の公園へ向かった。

潮音がいつも読書していたベンチには、潮音の姿はなかった。

その代わり、文庫本の間に、一枚の紙が挟まっていた。

梓へ
君の世界は、あまりにも美しすぎて、怖くなった。
でも、あの論文を読んで、やっぱり発表したいと思った。
君の世界に、少しでも立ってみたいから。

梓はその紙を胸に抱きしめ、深く息を吐いた。


最終章:ふたつの世界の交差点

発表会当日。

スライドに映し出されたタイトルは、

「私的世界構造論とその現実的対照──ふたつの世界に生きる我々の存在論的試み」

梓は前に立ち、ゆっくりと語りはじめた。

「私の世界は、私が生まれた瞬間に始まり、私が死ぬと共に終わります──」

潮音はその隣で、哲学的視点から彼女の思想を咀嚼し、観客に向けて言葉を添える。

「私的世界が存在しうるという事実こそ、他者との繋がりの証明です。孤独では世界は完結しない……我々は、他者の“エッセンス”によって初めて、自分を知るのです」

静かな拍手が広がり、2人の視線が交わる。

その瞬間、たしかに“私的世界”と“現実世界”が交差していた。

それはきっと、この世界にたったふたりだけの、確かな真実だった。


第2話・完


第一節:黄信号の瞬間

「私的世界と現実世界の交差点。その信号機が常に青である訳ではないんじゃない?」

放課後の文学部室、窓から差し込む夕陽が少しだけ眩しい。
潮音の声は穏やかだけど、その中にある種の棘が潜んでいた。

「明らかに重ならない部分はあるはずだよね、私的世界と現実世界では。例えば、自分の世界を誰かに侵害されたり、とかさ」

梓はノートにペンを走らせていた手を止め、顔を上げた。

「……潮音、それって、わたしの世界を“侵害した”ってこと?」

「いや、そうじゃない。違うよ。ただ……俺たちが話してるこの“理論”って、綺麗ごとで完結しないなって思っただけ。
だって、世界を重ねるってことは、踏み込むことでしょう?それは“交通”であって、“交通事故”でもあるんだよ」

梓は黙った。潮音の言うことは、理屈として正しい。けど、それは彼女にとって、あまりにも生々しい真実だった。


第二節:私的世界の防壁

その日の夜、梓は自室でひとり、自分の世界を“地図”のように描いてみていた。

中央にあるのは“感覚”。その周囲を“記憶”“思想”“願望”が取り囲み、外周には“他者”というエリアがある。
潮音は、たぶん“他者”のエリアを越え、少し“思想”に足を踏み入れている。

「わたしの世界は、孤独によって守られているんじゃない。境界があるから存在できるの」

彼女はその境界線を赤くなぞった。

「……でも、彼は境界を“越えよう”としてる。それは、“優しさ”じゃなくて、“侵略”かもしれない」


第三節:対話という衝突

翌日、梓は部室に入るなり、潮音に言った。

「ねえ、“交差点”って、ぶつかる前提なの?」

潮音は少し驚いた表情を見せたが、すぐに真剣な目で答えた。

「……ぶつからない交差点もある。けど、完全に同じ軌道を描くには、誰かが軌道修正しないと無理だと思う」

「じゃあ、それは“歩み寄り”じゃなくて、“諦め”だって思わない?」

「諦めじゃない。“選択”だよ。誰かと世界を重ねるには、自分の一部を一度手放す必要がある。それが嫌なら、誰とも交差できない」

梓はしばらく黙った。

そして、少し目を伏せたまま、呟いた。

「……わたし、潮音のこと、ずっと“理解者”だと思ってた。わたしの言葉に反応してくれる、唯一の存在。でも……あなたの“理解”は、わたしを超えていくような気がして怖いの」

「梓……」

「ごめんね。でも、それくらい“私的世界”って脆くて、自意識でできてるものなの」


第四節:新しい概念の誕生

その翌週、ふたりはしばらく距離を置いていた。
けれど、論文提出の期限は迫っていた。そして、論文の中心に据える理論が、まだ完成していなかった。

そんなある日、潮音から一通のメールが来た。

“共有できる私的世界”って、つまりは【交差領域】じゃないかな。
完全に重なる必要はなくて、“一時的に交わるゾーン”があれば、それは世界の中で奇跡的に生まれた“歩道橋”みたいなものだと思う。

梓はそれを読んで、小さく笑った。

“歩道橋”。なるほど、それなら信号を無視せずに、衝突も避けながら、世界を越えられる。

彼女は返信を打った。

交差領域……悪くないね。じゃあ、わたしの提案。
交差領域には“滞在可能時間”がある。世界が交わっている時間は、無限じゃないってこと。
だからこそ、その時間を大切にしなきゃいけない。


第五節:ふたりで書く地図

再び部室に戻った2人は、論文の構造を練り直すことにした。

■ 世界の定義
■ 私的世界と現実世界の境界
■ 交差領域の概念(共有空間)
■ 交差時に起きる“干渉”と“浸食”
■ 滞在時間と“撤退”の倫理

論文というより、これはもはや“感情の設計図”だった。

「交差領域を設計できるなら、わたしたちは他人と安全に繋がることができる。それが……わたしたちの“世界構造論”の核心なんじゃないかな」

潮音は頷いた。

「信号が青じゃなくても、歩道橋がある。世界は交差点だらけだけど、道を選ぶことができる。俺は、君と歩道橋を作りたかったんだ」

梓はその言葉に、少し泣きそうになった。

でも泣く代わりに、笑ってこう言った。

「じゃあ、ちゃんと設計しよ。私たちの、世界の交差点を」


エピローグ:論文のタイトル

完成した論文のタイトルはこうだった。

「世界の交差点における歩道橋理論──私的世界と現実世界の安全な接続構造についての試論」

ふたりの世界は、まだ完全には重なっていない。
けれど、確かに今、歩道橋の上で肩を並べている。

そして、彼らの“交通網”は、どこまでも続いていくのだった。


第3話・完

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