第2話 亜樹の日常

***


 高校三年生の七月。

 受験までのカウントダウンが始まり、日常は『勉強』という単語に塗りつぶされていく。

 高校生になったらきっと楽しいことが起こるんだと思っていた中学生までの僕だが、そんな幻想が砕け散った、一年生の春。

 僕は『現実』というものを知った。


 変わらない毎日。

 それが退屈じゃなく、むしろ心地いいなんて思うようになったのはいつからだろう。

 このまま何も起こらなければいい。

 そんなことを思うくらいにはこの日常を本気で気に入っていた。

 しかしあと半年ほどで受験を控えているこの身、迫りくる卒業という単語が憂鬱だ。




「起立!姿勢!礼!」

『お願いします!』


 今日もクラスは元気のある声で一日が始まる。

 着席すると一時間目が始まる前の十五分ほどのホームルームをBGMにして早弁を始める。

 カバンの中にはなかなかなサイズの弁当箱が二つ、菓子パンが四つ入っておりその中の菓子パンの一つを掴む。

 入学してから毎日し続けてきたルーティーンなのでさすがの熱心な先生でもあきらめてしまっているのか何も指摘されたりしなくなってしまった。


「……今日の午後からは強い雨が降ってくるそうだから放課後は部活のある人以外は早めに帰るようにしてください」


 担任の先生の締めくくりの言葉で朝のホームルームが終わった。

 始まったときと同じように礼をして最近お気に入りのメロンパンの包みをゴミ箱へ捨てに行く。


「おう、亜樹。今日はメロンパンか毎日毎日そんなにいろいろ買っていてよくお小遣いもつな」


 今話しかけてくれているのは松本智樹といい、仲の良い友達の一人で席も近く、授業中にもよく雑談などしている。


「まぁ、そのためだけにいろいろと手伝いとかやってお小遣いを多めにもらってるからね」


 僕の通っている楚廷高校はアルバイト禁止だからしっかりとそれを言い訳にして親のすねをかじらせてもらっている。

 ありがてぇ。


「そういえば昨日の生物の授業で玉ねぎの細胞見る実験したんよ。その玉ねぎ今も持っとるしこれあげるわ」


 智樹は自分のカバンの中からビニール袋を取り出し、目の前に広げながら白い歯を見せつけるようにニカッ!っと笑う。


「おいおい、これを僕に食わせる気かよ。なんかすごい玉ねぎの玉ねぎっぽいにおいがするし、お前の持っとった玉ねぎとか汚そうだしいらんわ」


 智樹の持っているビニール袋の中から醸し出す匂いに顔をしかめながら、智樹に袋ごと突き返す。


「お、やっぱり亜樹でもこの玉ねぎはいらんか。せっかく昨日一緒に寝てまでこのにおいを引き出したというのに勿体ないな」


 僕は理系クラスの物理選択者だが、このクラスには物理選択者と生物選択者が両方が在籍しているため、このような交流を通じて僕たちは広い世界を学ぶ。

 智樹はそう言いながら僕の左隣の席の平山美咲の席に玉ねぎを売り込んでいく様子を横目に見ながら一時間目の数学Ⅲの授業の準備を進める。

 特に準備するものはないが、メロンパンを食べていた影響もありカバンから教材を取り出すとすぐに授業の始まるチャイムが鳴った。

 授業は始まったもののまだ先生は来ておらず、必然的に教室内は生徒たちによる私語にあふれ、自分の声を通すためにさらに大きな声をみんなが出していくため教室内はとんでもないくらい大きな騒音に苛まれていた。

 そんな中何の気なしに斜め後ろの席である智樹の方向を覗いてみると、智樹が袋から玉ねぎを取り出し僕の後ろの席の人に回していた。


「――くっさ!」


 後ろの席の女の子の声に同情する心が芽生えていく。


「嘘!これすっごい臭い」


 後ろの席の片岡愛美の玉ねぎの匂いの感想に前を向きながらうんうんとうなずいていると、右肩を誰かがトントンと叩いた。

 誰がどのような容易でたたいたのか想像することは難しくなく、少し振り向くことをためらったものの後ろを振り返った。

 そこには普段からも愛想がよく、クラスの中でもなかなか人気のある片岡さんのこれまで家族にしか見せないであろう満面の笑みを僕に向け、両手を差し出して玉ねぎを受け取らせようとする。

 だから僕もできる限りにっこり笑って、差し出された片岡さんの手を覆うようにして玉ねぎを引き取ってもらうように握らせた。

 予想外の抵抗だったのか玉ねぎを握りそうになる直前に何とかとどまることのできた片岡さんは諦めず、僕に引き取るように促す。


「遅くなりました」


 そういいながら僕たちのクラスの数学の先生である竹田先生は入ってくる。

 それにより騒がしかった教室も静まり返り、片岡さんもあきらめたのか、大人しく持ったままとなった。

 ちくでんという愛称で礎廷高校に何代にもわたって親しまれ続けている竹田先生は大分年老いた先生で、頭の方も大分寂しくなってしまっている。

 教卓の前でまで進み、教材を置くため前かがみとなった竹田先生はいつも大人になるとこうも寂しくなってしまうのだとまるで教えつけているかのように頭を見せつけてくる。

 そんな先生に僕たちは。


「かわいい!」

「かっこいい!」

「がんばれ!」


 などといった言葉をちくでんにかけ、社会の荒波に耐え忍んでいる先生(頭)を励まし続けている。

 その時の先生は照れ隠しなのか、すごく微妙な顔をしている。

 そのような一定の儀式のようなものが過ぎた僕たちのクラスは寝るか、遊ぶか、真面目に授業を受けるかの三通りに分布される。

 左前の席に座っている田中君はあだ名がツェツェバエ(眠り病を引き起こすと言われている)と呼ばれるほどのこのクラスきってのスイマー(寝る人)だ。

 もうすでにちくでん以外の先生は田中君を起こすことをあきらめており、ほとんどいないものとして先生の中では扱われている。

 しかしちくでんだけは。


「おい、起きろ。寝る子は落ちる(成績)っていうだろ。今は大切な時期なんだからしっかり勉強しろよ」

 という。


 しかし田中君は起きたとしても十秒間ほどだけ。

 またすぐに寝静まってしまう。

 いつも通り睡眠に移っていく様子を観察しながら授業に集中していく。

 学校になかなか寝心地のよさそうな枕を持ってくるほど気合の入っている奴はなかなかいないだろう。



 今日も相も変わらずそれなりに楽しくはあるが、変わりない日だ。

 先生のおっしゃることを真面目に聴きながらノートをとる。

 しばらくすると急に強い雨がザーザーと降ってきて教室の殆どの人が窓に目を向けていた。


「やば!本当に雨降ってきたんだけど。今日傘持ってきてないや」


 無意識のうちに呟いた。

 窓を叩きつけるような強い雨音は無意識の不安を僕たちに募らせる。


「まぁ、大丈夫だろ。夕立みたいなものでしょう。すぐ上がるよ」


 その声に智樹が励ましの言葉をかけてくれる。


「そうだな。夕立じゃなくて朝立ちだがな」

「おいやめろよ。亜樹にしては珍しく下品だな」


 そのまま三時間目まで終了し、そして未だに田中君は起きておらず、雨も降ったまま、玉ねぎの匂いを嗅ぎながら寝ている。

 しかしすでにこの時間帯は昼休憩でいつも起こすように頼まれているので、田中君の金玉袋辺りを思いっきりにぎにぎする。

 初めはきちんと肩をゆすったりして起こしていたがなかなか起きず、だがそんなある日、金玉袋を握ることで三秒もかからずに起きることを知ってしまっていたのだ。

 そして今回もみんなの目の前で田中君の金玉袋をにぎにぎする。


「――んん………くっさ」


 このようにして僕たちの日常は続いていく。


 放課後になっても雨は衰えることなく、むしろ勢いが強くなっていた。

 外を見るとグランドが一つの水たまりのようになっており、道路も冠水状態に近いといっても過言ではない。


「すごくない?今大雨警報と洪水警報が出とるよ」


 ロッカーにしまっていたスマートフォンを取り出し、明日学校が休みになる可能性に目を輝かせる。


「えー、でも帰りがめんどくさくなるだけじゃん。今帰ったら危ないから、電車が止まった人以外は帰らせてもらえない可能性もあるし、どうせ明日までには雨もやんどるだろ」

「夢のない奴だなぁ。明日学校休みになったなにが出来るかとか考えてみろよ。それだけで楽しくなって、そんなこと言えなくなるから」


 そういいながら智樹と自転車乗り場で別れ、雨に少しでも濡れないようにするため全力で自転車のペダルをこぎながら家に向かっていく。

 雨のせいなのか普段よりも圧倒的に道を通っている人たちの数は少なく、交差点などでも人がいるかいないかなど確認せずにどんどん進んでいった。

 グゥゥゥ!

 腹の虫がなかなか大きな声で自分の存在感をアピールしている。


 点字ブロックにタイヤを滑らしたりしないように、気を付けながら進んでいくといつも通る道にある川が見えてきた。

 その川は濁流となっており、普段に比べると何メートルも水面が高くなっており、子供たちがキャッチボールをしていることもある河原は川の一部へと変貌している。


「おお、すっげー」


 思わず独り言がこぼれるほどめったに見ない川の勢いに僕自身が流されてしまったらどうしようという不安がこみあげてきて来た。

 緩めていた回転を再び早くし、この川沿いの道を一気に駆け抜ける。

 するととんでもないものを目撃した。


「おい、嘘だろ!」


 六歳くらいだろうか、小さな男の子が五十メートルほど先に立っており、一直線に川の方へ叫びながら何かを追うように走っていっているのだ。

 なぜ?という疑問もあったが、体はモノを考える前に自転車を乗り捨て、その子供に向かって思いっきり自分自身を強化して走っていた。

 川へ向かっていることに気が付いたのはもうすでに川までのギリギリ一メートルを切っておりとても追いつくことができるようなものではない。

 いくら強化した僕の体といってもギリギリ追いつかなかった。

 こうなってしまってはどうすることもできないので逸る心を抑えながら消防を呼ぼうとズボンのポケットからスマートフォンを急いで取り出し、慌てて画面を開こうとする。

 いくら僕が人助けに積極的な人間であるとはいえ、この状況でできることは何もない。

 本音を言えばあの子の命を諦めてしまっていた。


「――っ…………」


 強化されたこの耳が拾った、か細い悲鳴。

 触れば崩れてしまいそうな脆い命の声が、僕の中の何かを焼き切った。


「――くそぉぉぉおお!」


 思考じゃない。

 理屈でもない。

 ただ体が勝手に命令した。

 “助けろ”と。

 無我夢中に着ていたカッターシャツとズボンを引きちぎり身を軽くして、川の中へと飛び込む。

 バシャン!!

 川に飛び込んだ音は雨の音や川の流れる音の中に儚く消えていき、まるでこの命もあっけなく消えていくことを示唆しているかのようだ。

 普段から泳ぎなれたプールの水とは違う。

 これは牙を剥く液体の壁だ。

 浮力などなく、ただ重く体にまとわりついてくる。

 目を開ければ砂利が眼球を削り、手足を動かせば見えない岩が皮膚を裂く。

 樹木をも押し流す水の流れは、方向感覚を一瞬で狂わせた。


「………ボコボコ!」


 必死に飛び込む際にかすかに見えた人影の場所を想像しながら水を掻くが、目も明けることができない状況にどっちが岸かもわからなくなり、ふと自分自身も大丈夫なのかという考えが頭によぎる。


「――ゴォボ!」


 よぎった恐怖が引き金となり、縮こまった心臓が肺から一気に空気を放出させる。

 意図しない行為に恐怖に加え、焦りまで一気に募った。

 水面に顔を出し、息を吸おうとして濁流をたくさん飲みこむ。


「――おぅえぇぇ!」


 口の中いっぱいに広がる泥の香りとそれを飲み込んでしまったという不快感に、体は異物を取り除こうとするかのようにすべてを吐き出そうとする。

 苦しい!

 その感情が頭の中いっぱいとなり、目をつぶったまま川に流され続けていることに不安を覚え、今すぐ楽になろうとする自分と必死に戦いながら、二分間ほどしたのち、意識を保つことが出来なくなった。



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