6月に死んだ猫

6月に死んだ猫

作者 桜无庵紗樹

https://kakuyomu.jp/works/16818622177535380333


 十九年共に生きた猫アトムの死と喪失、回想を通じて主人公の成長と感謝が綴られる物語。


 現代ドラマ。

 純文学✕動物文学。

 ペットを通して「喪失と成熟」という普遍的テーマを真正面から描ききり、情緒表現と構成の優れた作品。静かな語りの中に、確かな物語の芯を感じた。


 主人公は、猫アトムの飼い主の少年。一人称、僕で書かれた文体。自分語りの実況中継で綴られた回想。音や温度、匂いなど感覚描写が多く、沈黙や間で感情を語っている。構成上は短い章を連ねる連作形式で、詩的散文に近いリズム。無理な感情の押しつけがなく、静かな行間で感情を伝えている。死を悲劇的にせず、「継続する記憶」として再生的に描く点が秀逸。現在過去未来の順に書かれている。


 純文学の日常叙景型の中心軌道に沿って書かれている。

 三幕八場の構成になっている。

 一幕一場 始まり

 六月の最初の木曜日、主人公の少年の家で長年ともに暮らした猫アトムが十九歳で静かに死んだ。母は涙を流し、父は現実的に葬儀を段取りするが、少年は言葉を失い、ただアトムの毛の柔らかさを確かめ続ける。アトムの死をきっかけに、少年は彼と過ごした十九年を振り返る決意をする。

 二場 目的の発見

 アトムは少年の誕生より一年前、両親が子どもを育てる練習として迎え入れた猫だった。赤ん坊の頃の少年を見下ろすアトムは、まるで兄のように成長を見守る。玄関での見送りや寄り添う仕草など、少年の世界のあらゆる場面にアトムが存在する。少年にとってアトムは家族であり友達であり、最初の記憶そのものだった。少年はやがて確信する。アトムは自分より先にこの家を生きてきた「もうひとつの命」なのだと。

 二幕三場 最初の課題

 寒い冬、少年が熱にうなされていた夜、アトムは静かに足元に寄り添う。言葉ひとつなく寄り添うその温もりが少年を救う。病が癒えたあとも彼のそばを離れずにいた。少年は絵に描こうとしても描けないアトムのかたちのなさに気づく。理解できないことごとくが愛しい。少年はそれを優しさと呼ぶようになる。

 四場 重い課題

 中学二年のある朝、アトムが家から消える。少年は土地中を駆け回って探し、絶望と焦燥のなかで自分の存在の小ささを知る。夕方ボロボロになったアトムが帰宅する。その姿に少年は泣き崩れながら、「生きて帰ってくれたこと」だけで胸がいっぱいになる。少年の世界の中心は変わらずアトムだった。しかし、そこにはすでに別れの予兆が漂い始めていた。

 五場 再整備・転換点

 アトムが戻った夏の日々を経て少年は知る。彼はもう、無意識にいるのが当たり前と思っていたのだ。アトムはその傲慢な習慣を壊すように一度姿を消した。

少年はノートに書き記す。「いなくなって初めて、そばにいた意味に気づく」初めて手にした大人の気づきであった。その夜、アトムは少年の膝に腰を下ろし、目を細めた。まるで「もうわかったな」と囁くように。

 六場 最大の課題

 高校に進んだ少年のそばで老いたアトムはしだいに静かさを増す。視力は落ち、骨が浮き、毛並みは薄れた。しかし穏やかに日差しを浴びるその姿は老いの美しさを湛えていた。進路に迷う少年はアトムの寝息に励ましを聞き取る。やがて彼は悟る。焦らず、いまを生きることこそアトムの教えであると。少年はもう守られる側ではなく、見送る側にいた。

 三幕七場 最後の課題、ドンデン返し

 秋の訪れとともにアトムは静かに衰えていく。少年の膝の上で眠り、翌朝、机の下で最後の呼吸を続けていた。彼は眠るように逝った。少年は「さよなら」と言わず、「またね」とだけ呟く。葬儀のあと空の器が残る静かな家で少年はようやく笑いながら泣く。アトムはもういない。だが、彼の時間は少年の中に残る。写真、傷跡、毛布の跡、それらすべてが共に生きた証だった。

 八場 結末、エピローグ

 一年後、大学進学を機に家を離れる日。少年はアトムへの手紙を書き終え、骨壺の前で「行ってくる」と告げる。窓の外の春風が揺れ、どこかで「ふにゃ」と鳴く幻聴が聞こえる。少年は振り返らず新しい季節へ歩き出す。彼の心の奥には、確かにアトムがいる。猫と過ごした十九年であり、少年が大人になるまでの十九年でもあった。終わりではなく継承の物語として静かに幕が下りる。


 アトムの死と、主人公に起こる様々な出来事が、どう関係し、どのような結末に向かうのか気になる。

 遠景「アトムが死んだのは、六月の最初の木曜日だった。湿度は高め、気温はそれほどでもない。天気予報では『曇りのち一時雨』と曖昧な顔をしていて、でも結局、一滴も降らなかった。たぶん、空も僕と同じで、何かを失ってしまったあとの泣き方が、少しだけわからなくなっていたのかもしれない」環境や天候を描き、静けさと喪失の季節を示し、近景「彼は、十九歳だった。猫にしては、長生きだった。というより、ほとんど大往生だった」猫の年齢や存在を描き、心情「だけど、だからといって『よくがんばったね』と言って拍手をするような気持ちには、どうしてもなれなかった。僕の人生のほぼ全部に、彼がいた。生まれたときからそこにいた。もの心がついたころには、すでにアトムは家の中のひとつの“常設物”として、廊下を歩いていた」新人口の内面の感情が吐露されていく。


「猫アトムが死んだこと」幼い主人公が高熱で孤独に怯える夜、「ただそばにいてくれた」猫の存在に救われる描写からは、同情を感じる。

 風邪が治った後にアトムへの卵焼きを分け合う場面からは、日常の小さなやり取りが温かく現実的で人間味を感じる。

 主人公の「小さな生命を慈しむ心」。自己中心ではなく他者を感じる感受性は誰もが望む資質。

 これらに共感して読み進めていく。


 主人公とアトムとの思い出の日々が実に微笑ましく、温かな気持ちになる。

 冒頭で亡くなったことを描いているので、この先どうなるのかが予想出来てしまうため、それ以上の出来事は起きないだろうと予想がつく。だが、あまりある微笑ましい日々がこれでもか描かれていて読み手の心を満たしてくれるところが実に素晴らしかった。

 死を喪失ではなく継承として描く構図がいい。文体の繊細さ、湿度をもつ空気の描写。構成が日記的ながら章ごとに成長のステップが明確。語りのトーンが一定で、情緒のブレがない。ラストの「行ってきます」で始まりと終わりが円環を成す構造美はよかった。


 五感描写は、五感をバランス良く駆使し、物語の感情や空気感を深く豊かに伝えている。

 視覚は「六月の曇り空」「紫陽花の葉の水滴」「月明かりにぼんやり浮かぶ白と黒の毛」老猫アトムの「白く濁った目」や「鏡の中の自分と対話する姿」の描写。

 聴覚はストーブの音、喉のごろごろ、遠くで鳴くセミの声、カーテンの揺れる音。猫のかすれた「ん……にゃ」とかすかな鳴き声。

 嗅覚は「アトムの毛布とミルクの匂い」「汗ばんだ首筋」

 触覚は猫の「少し冷たいけどまだ柔らかい毛皮」「手にのしかかる体重の重み」「膝の上でのびをする体の温かさ」

 味覚は主人公が風邪のときに「味噌汁は少ししょっぱい」「薄味の卵焼きが好き」「焼きささみ」など。


 主人公の弱みは、感情を表に出すのが苦手で他人と距離を置きやすい内向性なこと。成長とともに周囲へ無関心になる部分。喪失を受け止める勇気の欠如。これらの弱さが、アトムとの関わりを通して、受容と変化に変わる。


「そして、という、ような、ように、と言った」などの水増し表現やこそあど言葉の指示代名詞は、ここぞというところを残して削るか別な言葉に置き換えると読みやすくなる。


 感情表現のために「……」「──」を多用することで、語りの親しみや緊張感を演出しているのだろうけれども、使用が多くテンポを見出しているようで重く感じる。自然な会話調や静かな語りに適度な間を取るのは大切だけれども、三点リーダーやダッシュは記号なので、使用頻度を抑えつつ、沈黙や間をシンプルな文体や描写で伝える工夫をされるといいと思った。


 感情をそのまま「寂しい」「悲しい」と平坦に書いているところが気になる。

 形容詞はデコレーションで、どう寂しいのか、悲しいのかを具体的に描写しないと伝わりにくいと考える。

 感情の描写に具体的なイメージ「胸の奥がぽっかり空いたような感覚」「途端に風が心を吹き抜ける」「灯る小さな火のようなぬくもり」など、情景を多い浮かべやすい表現をしてみるのもいいのではと想像する。


 第4話から第6話あたりは穏やかな日常の積み重ねが描かれているのだけれども、起伏が緩やかで物語全体のテンポがやや停滞しているような気がする。 

 同じ感情を別の場面でくり返していると重複っぽく感じるので、情景を一場面で一イメージにしぼってみるのはどうかしらん。描写を短くするとテンポが締まり、余韻が残ると思う。

 第4、5話は内面描写が中心に書かれていて、どうしてもテンポが停滞気味に感じる。会話や行動を少し書き入れて動きで示すなど流れがあると、読み続けやすくなるのではと想像する。

 中盤の強みは、主人公がアトムの存在に気づく過程が描かれていること。

 第4話は「アトムに守られている安心」、第5話は「アトムを失うかもしれない不安」、第6話は「アトムの存在の意味に気づく」という三段階の成長があるので、段階的に変化を見せるために各話の末尾に気付きの言葉で締めてはどうだろう。それぞれのテーマがわかりやすくなり、テンポも良くなると考える。


 終盤はクライマックスでもあるので、主人公の心情が深く掘り下げられているのだけれども、同じような内省がくりかえされていて、重複っぽく感じる。

「ありがとうは、今でも言ってる。おまえがいてくれて、本当に良かった」

「ありがとう、アトム。おまえと過ごした十数年は、僕の人生のいちばんの誇りだ」

 同じ「ありがとう」の気持ちをくり返しているので、一方は「感謝の気持ち」を直接表現し、もう一方は比喩で別の形に置き換えてはどうだろう。

 また、同じ感情を何度も会話調や語りで繰り返しがちなので、初めは「気づき」の内省「あの日、彼がそばにいてくれた意味をようやく理解した」、次に「受け入れ」「もう手を離しても、大丈夫だと思えた」、最後は「未来への決意」「忘れていくのではなく、ずっと連れていく」といった具合に、変化する心情を段階的に描いていくと文章にリズムがでてくるのではと想像する。


 読後、タイトルを見直す。

 飼い猫との喜びや哀しみ、別れの憂いが全編に満ちており、言葉からこぼれ落ちるほどの思いが感じられた。思い出や家族、そして主人公の内面の微かな揺れが繊細に描かれ、命の儚さと尊さが丁寧に綴られている。読んでいるうちに感情が静かに波打ち、深い共感を呼び起こされた。

 私自身は猫ではなく犬を飼っていたが、十六年共に過ごし、火葬の日を迎えた記憶が蘇った。きっと何かを失った経験を持つすべての世代の読者が、同じようにこの物語に沈黙の温度を感じ取るだろう。

 主人公と猫の十九年という歳月を一本の成長譚として束ねた構成は完成度が高く、柔らかな口語体の中に確かなリズムがある。

 泣ける作品でありながら、感傷に溺れすぎることはない。高校を卒業し、大学へ旅立つラストに立ち上がる静かな幸福が、読後に温かく残る。

 アトムと主人公と家族も、それぞれのかたちで確かに幸せな日々を過ごしたのだ。

 その時間の揺らぎを、しなやかに温かく紡ぎ出した筆致に感服した。

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