第10話 冷血の女騎士③
館に足を踏み入れ――まず目にしたのは白の布に覆われ床に寝かされた人ほどの大きさの影。目に涙を浮かべている数名の従者に囲まれたそれを見たイブキの脳裏によぎるは――かつて魔王軍との戦闘で千を超える兵が犠牲になった時、まだ”経験”の浅かった彼女は普段兵器庫になっている倉庫の扉を開けて目の前に広がった――無数の白い布に覆われた躯が痛ましい葬列の如く安置されていたあの光景。
――あの日、イブキはその場で嘔吐した。
「⋯⋯どうして死んだので――」
イブキは彼らに話しかけようとそう言いかけて――止まった。
自分は何という愚問を投げかけてしまったのか。戦争で死んだ躯を囲み涙する者達に死因を問うたとて戦争に類する何かの答えが返ってくるだけである。今回も同じ――館に類する何かが一人の命を奪ったに違いない。そしてそれを彼らに問うのは、分かりきった答えを悪戯に知るためだけに、彼らに耐え難い痛みを強いるのと同じではないか。
「⋯⋯お顔を見せて」
イブキは近づいて布を捲る。そこには年場もいかぬ女性——まだ二十歳にもなっていないであろう美しい女性の姿。きっと囲んでいた者たちが少しでも穏やかに見えるように彼女を整えてくれたのだろう――イブキは胸前で十字を切る。
「マテウス様が⋯⋯レイを殺したんです」
そんな時——従者の一人が擦れた声でイブキに言った。
目を真っ赤にして、枯れるまで涙を流したのだろう。そしてその目には理不尽にレイという少女が殺されたという事実が如実に浮かんでいた。
「あんな⋯⋯あんな酷いっ⋯⋯!! レイは⋯⋯私にとって、お姉ちゃんみたいな存在で⋯⋯!! それを⋯⋯マテウス⋯⋯様はっ!!!」
レイを囲んでいたのは皆十代前半ほどの若い子供たちだ。ジークはかつて身寄りのない子供たちを従者として屋敷に迎え入れていた――その最後の子供たちだろう。そしてレイは恐らく、身寄りのない彼ら彼女らにとって大切な家族のような、姉代わりの存在だったに違いない。
手を静かに――しかし強く握りしめるイブキ。
事情は定かではない。だが、悍ましいことが起きていることを理解した。
「⋯⋯マテウス様は何処に?」
「フェリ様と寝室に籠られました」
「フェリ?」
「ツォーカ様の代わりに⋯⋯マテウス様のお気に入りになった方です」
イブキは記憶を探り――思い出した。
半年前にマテウスの傍で乳房を下品に開けっ広げにし、さながら夜の蝶——というより蛾のような厚化粧で偉そうにしていた女がいた。確かあの女がツォーカで、今はフェリ、ということはお気に入りが代わったということか。
「ツォーカはどうしたの?」
――従者たちからの返事はなかった。
敢えてイブキもそれ以上は聞かなかった。
聞いたとて、気持ちのいい返答は期待できそうにないからだ。
しかし新たなお気に入りと共に寝室に籠る――燦燦と陽が降り注ぐこの時間から。耐え難く呆れるイブキ。『勇者なら日中でも山ほど仕事があるはず』という事実以外は何も問題はないのだがその事実が極めて重い。何故なら、当主のみならず勇者としての仕事もこの様子では真面目にやっている気配がないからだ。
「職務放棄に従者の殺害。七公の地位がなければ牢屋行きの蛮行よ」
「だが七公の地位があれば許されるとも言える」
ここまで幽霊のように気配を消していた男——フードローブの男が冷静すぎるほど冷静に言った。彼からすればこの状況すら”客観的に面白い”のか、何処までも他人事のような口調である。あくまで彼はイブキにもマテウスにも肩入れはしていない――中立的立場から特等席で悲劇——彼にとっては”喜劇”のそれを楽しんでいるだけだ。
「私は手出ししないぞ? お前の主の尻ぬぐいはお前がするのだ、イブキ・フィニータス」
そう言って、ローブをガサゴソとまさぐるとジュッスの実――王国では生っているのがよく見られるオレンジ色の甘い果実を取り出すとパリポリと食べだした。目の前に痛ましい躯があるのに食欲が失せるどころかまるでお構いなし――彼の”経歴”を知っているイブキは驚きもしなかったが――
「⋯⋯廊下は飲食禁止です」
ここで従者の一人——恐らく最も年若い十二才ほどの少女が彼にそう言った。
従者たちが皆得体の知れぬ男の登場にその言葉を飲み込んでいた中、果敢に注意した少女を男はフード越しにじろりと見つめて⋯⋯
「私を誰か知っているのか? 娘よ」
「⋯⋯知らないです。でもここは飲食禁止です」
すると男は――少女に手を伸ばす。
それにビクりと身を震わせる少女——
「——よい。その正義心、大事にするのだぞ」
ポンポンと優しく頭を撫でた。
そして食べかけのジュッスの実を――少女に渡す。
「その実はただのジュッスの実ではない。かつて天より舞い降りた女神が天界から王国に分け与えたと言い伝えられる、王国秘蔵の『オリジナルの』ジュッスの樹から取れた実だ。今、王国中で生えているジュッスの樹は全てこの実から派生した子孫たちである」
そして男は――横たわるレイに手を置く。
「母なる女神の元に還りし其方の魂に、悠久の祝福あらんことを⋯⋯」
それは死した魂の鎮魂を祈る調べであり――代々”王族”の間で言い伝えられる口上でもあった。
「⋯⋯彼女を丁重に弔うのだ。そしてその上にこの実を埋めるといい。天より与えられしジュッスの加護が彼女を護り続けるだろう」
――少しだけこの男への認識を改める必要がある。
イブキは密かにそう思った。
自身が楽しむためなら何でもありの男かと微かに思っていたが――
「私が彼女を弔ったのがそんなに意外かな? イブキ・フィニータス」
「いえ⋯⋯貴方がジュッスの実を無断で国庫から持って来たことに少し驚きはしましたが」
「フフ⋯⋯元より天からの”借り物”よ。王族の所有物ではない」
詭弁だが――”筋”ではある。
この男はルールや慣例よりも”筋”を重んじるのだろう――そう思うイブキ。
やはりこの男は自分にはまだ推し量れない――
――それはそれとして、そろそろ動く時間だ。
イブキが従者たちに聞いたところ、もうすぐマテウスはフェリとの”お楽しみ”を終える時間。そうすると彼はイルフィスの森に繰り出し、気のすむまで原生動物を狩る趣味の狩猟の時間が始まるのだそうだ。
しかしイブキは館に入ってすぐに廊下の壁を埋め尽くさんばかりの獣の頭部のはく製——その多くがイルフィスで狩猟を禁じられている獣たちばかり、で埋め尽くされていたのを見て、マテウスの”趣味”が法を著しく蹂躙するものであることは察していた。
もうこれ以上は看過できない――
――と、その時イブキはあることを思い出す。
館の中央の開けた場所に腕利きの絵師に書かせた前当主ジーク・ファン・レオンの肖像画があったはずだがどこにもない。
「ジーク様の絵は何処に?」
すると従者たちの――全員の目に影が浮かんだ。
貴族文化において、人を模した絵はその人本人と同じ重みを持つ――万が一ジークの絵に”もしもの事”があったらイブキも冷静でいられる自信はなかった。
「ジーク様の絵は⋯⋯燃やされました」
「もや⋯⋯す!? 誰にですか!!」
「マテウス⋯⋯様です。『ジジイが死んでせいせいした』と⋯⋯馬糞の山に絵を投げて火を点けて⋯⋯!!」
「もういい!! 結構です!!」
絵への侮辱は本人に対する侮辱と同格。かくも苛烈に絵を殺したマテウスに対して最早父への敬意の有無を問う段階はとうに過ぎた。そして、ファン・レオン家当主としての素質を問う段階もとうに過ぎた。
覚悟を決めるイブキ。
そうしてマテウスの寝室に伸びる螺旋階段へと足を向けようとして――
「——マテウス様」
まるでイブキの到着を見計らったかのように汗の滲んだ肉体を光らせながら階段を降りてくる男がいた。麻のズボンのみ履いて上裸の半身は筋骨逞しく、精力漲るさまが見てとれる。そして脇にはあろうことか裸の女——パンツのみを履いた上裸で、男に身を寄せた女もいる。男の手にはファン・レオン家に伝わる宝刀。この男こそ――
「マテウス様。お話がございます」
マテウス・ファン・レオン―—その人だった。
「イブキか。カジノの話はどうなった。金は持ってきたか?」
イブキから切り出した話は――塗り潰された。
マテウスがいきなりカジノの話を持ち出したのは暗黙の『俺のしたい話以外をする気はない』という意志の表れか。
だったら――
イブキも語気を強める。
「マテウス様。まずは私の話を――!」
宝刀が光る。
刹那、イブキは跳ねた。
「持ってきてねえなら死ね」
幸運はイブキが英傑であったことか――宝刀が抜き放たれ、爆速の刃が自身に迫るのをイブキは『霊装』で強化された身体能力ではっきりと目視した。マテウスの短気を誰よりも知るイブキにとってこの展開は最初に頭に描いた絵図そのままの光景だったが――
いくら”どうしようもなく腐った君主”とはいえ、七公であり己の主でもあるマテウスに対して出来ることは「攻撃を回避する」か「攻撃を耐える」のどちらかだ。万が一にも『殴り返す』なんてことがあれば、王国憲法第八条——『主に血の盟約を誓い者。何人も主に危害加えることを禁ずる。法犯せし者、斬首刑に処す』という項目に違反し王国憲兵によってイブキは捕まり斬首刑に処されるだろう。
英傑であるイブキが――例え力では勝ろうとも、主に対して決して歯向かうことの出来ないのにはそういう理由がある。これは君主を持つ勇者が、力で君主に対し歯向かうことのないように制定されたルールであり、現にその効力を刹那の時の中でイブキ自身が体感しているところである。
さてどうするか――
イブキは悩んだ。
だがそれはこの状況で”どう立ち振る舞うか”や、”ここからどうやって穏便に場を納めるか”といった自身の行動に対する悩みではなかった。
すでにイブキの中で成すべきことは決まっていた。
今抱く悩みもこれからの行動を変えるものではない。
では彼女の悩みとは一体何なのか――
「マテウス様——」
彼女の悩み。それは自分が今から『王国史上一度も例のない』歴史に対する反逆行為をすると分かっているからである。王国一千年の歴史で初めての――悪しき前例にもなり得るかもしれない歴史をこれから刻む。それに恐怖がないといえば嘘になる――
今ならまだ――マテウスの刃をその身で受ければ、その未来は避けられる。代わりにイブキ・フィニータスという女の歴史は途絶え、延々と続く王国の歴史に黒いインクを垂らすことなく時間の歯車は回り続けるだろう。
「私はこれから貴方に、そしてこの王国の歴史に――」
それではダメなのだ。
イブキという存在は生き――
「反逆します」
――マテウスは死なねばならないのだ。
王国史上で一度も――
血の盟約を交わした主君を”殺した”者はいない。
イブキは剣を抜き放つ。
そして館全体に轟くようなイブキの『霊装』が大気を震わせた。
マテウスもイブキの凶行に辛うじて気づき宝刀に霊装を纏わせる――だが、マテウスの霊装とイブキの霊装は天地の差があった。同じ霊装を纏った剣がぶつかった時、砕けるのは力で劣る霊装。そしてこの時”劣った”霊装は――
永きファン・レオン家の歴史を象徴する宝刀が――
「さようなら――マテウス・ファン・レオン様」
――砕けた。
夥しい血潮が宙を染め上げ――その目はまだ自身がイブキの刃によりその肢体を真中から両断されたという事実には気づいていない。手からは刃の砕けた宝刀の柄がポロリと零れ、背中からゆっくりと崩れ落ちながら倒れていく。
刃を納めるイブキ。
後悔の色はない。ただこれから己に待ち受ける苦難の道を思いながら鉄の味がする空気を噛みしめるのみ。
マテウス・ファン・レオンは――死んだ。
そしてイブキは最も不名誉な称号を背負った――
『主君殺し』という名の汚名を。
「——確かに見届けたぞ。イブキ・フィニータス」
そして幽鬼の如くそれを見届けたフードローブの男は――
フードを外した。
現れるのは――金髪に緑色の瞳の男。額には火傷のような跡が残り、その顔立ちには歴戦の戦を勝ち抜いてきた威厳が刻まれているが、どこか拭いきれぬ”品”も備わっている。その腰に帯びる剣は王家に伝わる『四大聖剣』の一つに数えられる聖剣クト。それは王家に名を連ねる者以外は決して触れることが許されない逸品である――それを我が物と腰に帯びていた。
するとイブキは静かに――
「——ありがとうございます。ハインツ殿」
「私はこれにて王都に戻る。だが、覚えておけイブキ・フィニータス。『王弟』である私に出来ることは、私の主君である七公イルーガ・マクデスシュブルム殿に真実をお伝えすることのみだ。後は――我が主君がお前を庇ってくれることを期待するのだな」
王弟——名の通り”王の弟”
ただし彼に王族としての実権は一切与えられていない。故に彼に対しイブキは『殿下』などの呼称を用いない――だが彼は確かに王の弟であった。
「イブキ・フィニータス。お前に女神の加護があらんことを⋯⋯」
そして王弟は――
ハインツはローブを靡かせ去っていった。
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