アラサーOL。異世界で村を立て直すことになりました~癒環のちから~

島田まかろん三世

第一章 癒環《ゆわ》の芽吹き

1

 雨は、ただ静かに降り続いていた。


 会社帰りの陽菜は傘もささず、ただぼんやりと、青く点滅する信号を見ていた。

 遠くで、車のクラクションが鳴った。

 濡れたアスファルトは黒く反射し、人通りのない道路で、陽菜と景色だけを映している。


『婚約、やっぱりなかったことにしてくれ』


 あの一言を、何度頭の中で繰り返しただろう。

 

 陽菜が高校生の時に、両親が事故で亡くなった。身寄りがなかった陽菜は葬式の後、両親が買った家を売り払い、飼っていた犬のチロと一緒に、児童養護施設に引き取られた。手元に残った僅かな遺産と奨学金で大学に進学し、二十歳の時には、チロとともにアパートに移り住んだ。


 バイトをしながら必死に勉強し、卒業後に就職した会社はブラック企業だった。そこで、彼に出会った。彼は、取引先の社員で、陽菜の三歳年上だった。彼に告白され、付き合い始めて二年が過ぎた――三十歳の誕生日を来週に控えた――ある日、陽菜は突然、フラれたのだ。


 端的に言えば、彼の目的は、陽菜の遺産だったのだ。遺産が何もないと知ると、手のひらを返し、彼は陽菜に罵詈雑言を浴びせ、五年付き合っている恋人が別にいることも暴露した。


 彼と付き合う少し前に、幼いころから兄弟のように育ってきたチロが他界した。孤独の暗闇の中を歩いていた陽菜を救ってくれたはずの、彼の裏切り…。


「パパ…ママ…チロ…」


 大粒の涙と雨粒が、頬を伝う。


「一人はもう、いやだよう…」


 その時、聞き覚えのある小さな足音が聞こえたような気がして振り返ると、そこに一瞬、白い毛並みの犬が見えた。


「……チロ?」


 けれど、そこにチロはいない。


 幻覚だったと知ると、陽菜は水たまりの中に両膝を落とした。

 鼓膜の奥で耳鳴りが聞こえる。それが、徐々に大きくなり、やがて雨音も、クラクションの音もかき消していく。


『こっちだよ…!』


 そう聞こえた瞬間――目の前が眩いほど真っ白に染まった。


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