第3話 魂送りの巫女


 にごった青の闇が薄れ、窓から生白い光が降り注ぐ。

 雪が降った日のように静まり返った部屋には、ひんやりとした空気が降りる。

 隣の布団は空だった。

勇璃ゆうり……?」

 皿やグラス、わんぼんも――うたげの跡がきれいさっぱり片付けられ、ご馳走ちそうの匂いも布巾で拭き取ったように、消えていた。

 誰もいない、座敷。だだっ広く感じるだけの空間で、壁際に押し込めた机になにかがポツンと、置いてある。

 うように近づくと、古い地図だった。ぐちゃぐちゃとした輪郭の内側に、自然や都市を表すマークが、書き込んである。

 すぐ下の引き出しを開いてみると、沼のように溜まった底に、小さなカードが見えた。長方形の台紙に地名が記されていた。

 切符か? 首をひねり、すぐに元に戻した。

 以降はなにもしなかった。薄闇に閉ざされた室内に寝転がり、手紙を待つ。

 月が陰る。無限に続く沈黙。体は錆付き感覚がしなかった。ゆっくりと心が死にゆくようだった。


 今日も夜を迎えた。何度目かの夜だった。

 僕はみすぼらしい布団の上で、まぶたを開けた。むくりと起き上がり、床に足をつける。

 空気をかき分け、手探りで進む。ドアノブをひねると、ギィーンとくぐもった音がした。すっと隙間から身をすべらして、戸を閉めた。

 スニーカーをはいた足は西の海へと進む。

 蒼いしおの香りが迫り、さざ波の向こうに見えた、ほの明かり。


 リーンリーン。


 鈴の音色に誘われ、奥へと踏み込む。


 海にそびえるやしろの手前、ゆるやかな波に月影が落ちる。

 重ね襟の垂れた袖と天女のごとき領巾ひれをひらめかせながら舞いを踊る女性を、白い光が染め上げた。

 杖をかかげ鈴を鳴らすと周囲にあかりを灯し、灯籠とうろうのように送り出す。薄闇の空に見知らぬ誰かの輪郭が浮かび、うたかたのように消えていった。

 つま先が水に触れる。透けて見える素足が平らな面に浮かんだ。蓮の形に彩った杖を向け遥か彼方へ、光が伸びる。銀鈴の清らかな音が鳴る。

 優雅で繊細・無駄のない動き。流れるような手振り。月へと捧げる祈りのようだった。


 朝日が昇る。手向けの花と同じ色の光が、曖昧な闇を押し流した。

 まっさらな空の下で、女はピタッと杖を下ろし、たたずむ。

 遠くでおごそかな鐘の音が響いた。


 女は濡れた黒髪をしお風にさらしながら、身動ぎ一つせずに、こちらを見やる。彼女の目はいつか見たものと同じく透き通り、えた光を放っていた。


「君はいったい……?」

 きょとんと尋ねる。

 一瞬の間があった。

「私は魂送りの巫女みこです」

 控えめに口を動かして。

「この世界は循環するもの。常に新しいものに入れ替わります。そうして辻褄つじつま合わせは、なされるのです」

 淡々と彼女は語った。

「旅を終わらせた者は下界へと送り出され、影は跡形もなく消えるでしょう」

「じゃあ、あいつは?」

 上ずって聞こえた自分の声。じんわりと手のひらに、汗が滲む。

 通り抜ける風。奥の森の木々が、ざわめいた。

「無事、送られました」

 冷静な目に、確かな口調。

 一気に体温が引いた。

 目を伏せ、唇を引き結ぶ。口の中に苦い味を感じながら、息を吸い込んだ。

 薄っすら曇った脳内に、勇璃ゆうりの言葉が蘇る。

 ――「あたしは自由だ!」

 晴れ晴れと、スッキリした顔。

 勇璃ゆうりは思いを果たした。満足したのか、よかったな。

 ちっともよくないよ。僕はショックだ。だってあいつはもう、この世にいないのだから。

 好きでも嫌いでもなかったはずなのに、実際にいなくなられると、妙に空っぽになる。

 生ぬるい風が吹き付ける。はなだの海はいだままだった。


「僕はいつまでここにいられる?」

 巫女みこの顔に色はなかった。

「以前にも話した通り。汐崎は入口であり終わりの港。辿たどり着いた者はいずれ次の世界へおもむくでしょう。しかし、あなたはまだ早い」

 落ち着いたトーンで話した内容が、耳をすり抜ける。

 大きく息を吐いた。安堵したのか悲しかったのか、自分でも分からない。

 ただ頭上には暗雲が垂れ込め湿った空気が、僕を覆い隠そうとしていた。


 西の海岸を離れ淡々と歩くと、トタンの壁に覆われた安っぽい宿に着き、力を抜く。

 照明をつけてなお薄暗い室内に、やけに目につく紙切れがある。机に残った古い地図だ。茶色く変色したものを手に取る。

 心の奥底、積もった灰に灯った、緋色の欠片。

 脳裏をよぎった勇璃ゆうりの、生き生きとした顔。

 彼女は冒険の果てになにを得たのか。僕も知りたい、世界の果てになにがあるのか。

「仕方ないな」

 静寂を破ったのは自身の低く、かすれた声だった。

 唇の端を引きつらせながら、頭を持ち上げ、見据えた窓からほのかな明かりが差し込む。

 澄み切った夜の空に孤独に浮かぶ、舟のような望月。透明な光が僕の胸を貫いた。



 赤く燃える水平線の向こうに朝日が昇り、鋼鉄の輝きが放たれる。

 澄み渡る空気を突っ切って、駅までやってくる。

 シンプルなコンクリートの乗り場には申し訳程度についたひさしと、まっすぐ伸びる浅瀬に浸った線路。

 汽笛が聞こえると汽車が駆けつけ、てっぺんから黒いモクモクが噴き出す。鉄と煙のピリッとした匂い。

 顔を引き締め、一歩を踏み出す。

 行こう。

 地図と切符をくしゃっと丸める。手前でつるりとした扉が開く。

 バンッ。

 小気味よい音がした。スニーカーが境をまたいだ。棺桶かんおけに似た鉄の箱へ乗り込む。

 僕を乗せた汽車はゆっくりと走り出し、大海原の彼方へと向かっていった。

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