第一章 「わたしはここで、生きている」
二〇四五年九月、秋の気配が濃くなりはじめた頃。
空はやけに青かった。その青はどこか作り物のように整いすぎていた。
草の揺れも、空気の匂いも、すべてが“整っている”。
わたしは、仮想空間『パーフェクト・リブート』の中で、目を覚ました。
ここには、わたしと同じように眠り続けている人たちが、数多く存在している。
公園や通り、図書館や診療所——それぞれが“日常”のように再現された空間のなかで、彼らもまた、ゆっくりと自分を取り戻していく。
この世界は「深層同期制御装置」によってつくられている。
病室で昏睡状態にある患者の脳波を読み取り、記憶や感情をもとに構成された空間。
その中で、わたしの“感覚”が再起動している。
わたしが最初に訪れたのは、小さな公園だった。木製のベンチ。風に揺れる銀杏の葉。遠くで子どもたちの声がする。どこか懐かしい。
わたしは、天辰小春。
この世界に入る前のことは、だいたい思い出せる。
事故にあった時、十七歳(じゅうななさい)だったこと。
わたしには母と弟がいたこと。高校に通っていたこと。
でも、まだところどころ霧のように曖昧だった。
その日、公園の片隅で、本を読んでいた男の子が、わたしを見つけて声をかけてきた。
「……、初めて見る顔だね」
その声に振り返る。
その男の子はミズキといった。
白いシャツ——制服のようにも見えるその服に、あどけない笑み。
「ここは、まあ……すぐ慣れるよ」
そう言って、彼はわたしの横に腰かけた。
「……慣れる?」
思わず聞き返すと、ミズキは小さくうなずいた。
「うん。最初は戸惑うけど、大丈夫。時間がちゃんと整えてくれるよ」
彼の言う“時間”が、本当の時間なのか、この空間での体験のことなのか、わたしにはわからなかった。
ただ、彼の声が落ち着いていて、隣にいると心が穏やかになるのを感じた。
「ここって……ずっと、このままなの?」
「ううん。だんだん変わってくる。最初は、みんな似たような記憶をもとに作られた世界を歩くんだけど、思い出すほどに、自分だけの風景になっていくんだって」
「自分だけの……風景」
ミズキは頷き、ベンチの前に広がる小道を指差した。
「たとえば、あの道。最初は誰にとっても“ただの通り道”なんだけど、誰かの記憶とリンクすると、そこに意味が宿る。急に自転車屋が現れたり、家の前のポストが懐かしい形になったり、そういうふうにね」
「まるで、夢みたい」
わたしがそう呟くと、ミズキは笑った。
「夢よりは、ちゃんとしてると思うよ。これは、“記録”っていうより……記憶の再起動、みたいなものかな」
それ以上は聞かなかった。
代わりに、わたしは空を見上げて、やけに整った空に納得した。
「……じゃあ、ここにいる間、わたしは何をすればいいの?」
「無理に何かしようとしなくていいよ。思い出すだけで、ちゃんと世界は動くから。
……君は死んだわけじゃない。この場所は、“思い出すための場所”なんだ。
曖昧だったことも、少しずつ、輪郭が戻ってくる。そして、あるとき“現実の人たち”と繋がる時間がくる」
胸に希望のようなものが宿った。
わたしは小さく、「ありがとう」とつぶやいた。
ミズキは照れたように笑い、「案内しようか」と立ち上がった。
そして、わたしはこの不思議な町の最初の一歩を、彼と一緒に踏み出した。
その日の夜、わたしは“リブートルーム”と呼ばれる場所へと、突然転送された。
案内というより、現実世界からの指示でこの部屋に“呼び戻された”ような感覚だった。
部屋に入ると、すぐに聞き覚えのない男性の声が響いた。
「小春さん、はじめまして。こちらは担当医師の田嶋です」
それは、わたしの意識が接続されたこのシステムについて、はじめて語られる瞬間だった。
「あなたは今、『パーフェクト・リブート』と呼ばれる仮想空間に意識を接続しています。深層同期制御装置によって、あなたの脳波が解析され、記憶の断片が呼び起こされる形で再構成されています」
少し間を置いて、田嶋医師は言葉を続けた。
「事故のあと、あなたは現在も昏睡状態が続いています。
わたしたちはあなたの回復を信じて、このシステムを治療の一環として選びました」
目の前のスクリーンがゆっくりと光を帯び、次の瞬間、聞きなれた声が聞こえてきた。
「小春……聞こえる?」
母の声だ。
続いて、弟のあきら、担任の先生、親友の理沙……
しばらくみんなと話したあと、再び、医師の田嶋先生の声が届いた。
「小春さん、田嶋です。こうしてあなたに直接声を届けられること、本当に嬉しく思っています。
医者として、“必ず”なんて言葉は、本来使ってはいけないのかもしれません。
……でも、それでも、あえて言わせてください。
必ず、現実に戻れます」
その瞬間、通信の向こうで、母の泣き声が小さく聞こえた。
まわりの声が、もう一度重なる。
「待ってるよ」「大丈夫、絶対に戻れるよ」
それはやさしい時間だった。わたしは、気づけば泣いていた。
嬉しさと、そして恐怖で。
わたしは、いま確かに“生きている”。
けれどそれが、どれだけ不確かなものかも知ってしまった。
仮想と現実。その境界で、わたしの意識は細い糸で吊られているようだった。
いつかそれが、ぷつんと切れてしまうのではないかと——そんな不安が、心の奥に影を落としていた。
後日、田嶋先生からこう説明を受けた。
今では、仮想空間で交わされた言葉が、現実とつながる手段として正式に認められているという。
意識が回復していない状態でも、脳の微細な反応や言葉が外に届き、同時に、外からの声も、確かに意識の中へ届いているのだと。
それは、夢のようでいて、確かな“つながり”。
先生は、そう語っていた。
あのときのわたしは、不安の中でただ揺れていた。
「必ず、現実に戻れます」
わたしは、その言葉にすがっていた。
それが、現実へと繋がる、たったひとつの道しるべのように思えた。
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