第6話 美味しいトーストのために

お題『夜が明けた。』


「おかあさん、おかあさん、おしっこ出ちゃった」

 明け方、その一言で目が覚めた。

「あー、久しぶりにおねしょしちゃったかー。とりあえずパンツを履き替えようかー」

 こういうときは怒っても仕方がない。

 怒ってシーツがきれいになればいい。

 怒って皐月のパンツがきれいになればいい。

 怒って朝気持ちよく起きれてトーストがカリッとふわっと美味しく焼けて、淹れたコーヒーの苦味と酸味のバランスが取れるのであればいい。

 であれば、いくらでも怒る。

 しかし現実にそんなことは起こらない。

 そして、怒れば自分の心がさらにささくれていく。そのときは一瞬スカッとするかもしれないけれど、自分が発してしまった言葉に後悔が付きまとう。


 初めて皐月のことを怒ったのも、おねしょだった。まだ言葉があやふやだった頃の皐月に、盛大に、それはもうお義母さんが起きてくるくらいの大声で怒ってしまった。

「な、七海さん、どうかした? って、浩介は何で寝てられるの!?」

「……ぅ、う〜ん……? ななみ? 母さん?」

「お義母さんは黙ってて! ねぇさっちゃん! この前オムツ外れたわよね? なんでおねしょしたの? なんで起こしてくれなかったの? なんで? ねえ、なんで?」

 皐月に詰め寄る私を制したのはお義母さんだった。

「七海さん。ココアでも淹れて温まってきなさい。その間にさっちゃんのお世話を済ませておくから」

「でも!」

「……頭を冷やしてきなさい、と言ってるの。いいわね」

 いつもは優しいお義母さんの、後にも先にも見ない恐い一面だった。


 真夜中のリビングは夏も間近だというのに寒々しくて、手のひらの中にあるマグカップの湯気も闇にかき消されてしまう。

 ふと、廊下から光が漏れてきた。

「あらあら、電気くらいつけないと」

 入ってきたのは、おねしょの後始末をしてくれたお義母さんだった。

「おねしょくらいで取り乱してたら、この先ずーっと心がささくれ立ってささくれ立って、いずれ擦り切れてしまう」

 キッチンでココアを淹れているお義母さんの口調はもう冷たくなくなっていた。

「……でも……皐月、何を言っても分かってくれなくて……」

「何を、って?」

「ごはんもふざけて食べてくれない。お片付けも中途半端にしたまま他のおもちゃで遊んじゃう。これでおねしょまでされたら、私、我慢できない……!」

 お義母さんは「仕方ないわ」と柔らかく微笑んでみせる。

「ごはんを食べてくれなくて損をしているのは誰? お片付けをしてくれなくて損をしているのは誰? おねしょをして損をしているのは誰?」

「それは、すべて皐月のために」

「本当に?」

 私の向かいにではなく、隣に座ったお義母さんは話を続けた。

「後始末をしなければいけない自分のために、怒ってないかしら」

 あまりにも図星な指摘に、絶句した。

「教育上叱らないといけないときはきちんと叱らないといけない。でもね、怒りに身を任せていたらキリがないじゃない?

 怒って明日のトーストが美味しくなるなら、私もいくらでもキレ散らかすわ」

 私がお義母さんの前で、初めて涙を見せた夜でもあった。


「いいいいいやあああああ!!」

 おねしょの片付けがさっぱりした頃、お義母さんの叫び声が聞こえてきた。

 何事かと思いお義母さんの部屋に向かうと、お義母さんはコナツにキレ散らかしていた。

「なんで! あなたは! おねしょを! したのかしら!?」

 しかし、怒られているはずのコナツは『ワタシ、ナニモシテイナイヨ?』と言わんばかりにキョトンとしている。

「まあまあまあ、お義母さん! お片付けは私がしておきますから、だからお義母さんはココアでも」

「……はぁ。頭でも冷やしてくるわ」

 リビングに向かうお義母さん。その後ろをくっついて歩くコナツ。


 2回目の大洗濯をしていたら、夜が明けた。

 ——今日のトースト、美味しく焼けられるかしら?——

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