とんでもないことを聞いてしまった

 


「お嬢の正義が、己れの正義……か」

 ガラスの杯を手にぼんやりする男に、なんだどうした、と立花が苦笑する。


 風呂上がりに二人は一階にある寿司屋に立ち寄っていた。


 少女には欒が付いている。

 少しだけ気の抜ける瞬間だった。


 ウニの載ったこじんまりとした突き出しを見ながら言う。


「いや。いっそ、そういう人間だったら、楽だったろうと思いましてね。

 あの人の裏の顔になんか気づかなくて、ただ崇拝していられたら」


「お前が気づかずにいるというのは無理だろうな」


 例え、最初から一族の人間だったとしても、と立花は言う。


「どうしてです?」

「いや―― ただ、そんな気がしただけだ」


 わかってはいる。

 ただ、表向きの顔だけ見れば、あの女が尊敬に値する人間だということを。


「でも、立花さんもそう思うときないですか?


 いっそ、お嬢の本性になんか気づかずに、普通の主従関係でいられたらって」


「楽だったかもしれないが……楽しくもないだろう」

「そんなもんですか」


 そんなもんだ、と酒を注いでくれる。

 慌てて男も注ぎ返した。


 少女にいつも引っついているせいで忘れがちだが、一応、立花は自分の上司なのだ。


「だって、そうしたら、薫さんとも普通に付き合えてたんですよ?」


 いや、と立花は杯の中で輪を描く冷酒を見つめる。


「だったらたぶん、薫とは付き合っていない」


 なんだか今、とんでもないことを聞いてしまった気がする……。


 聞かなかったことにしよう、と思った。


「でも、辛くないですかね」

「誰がだ?」


 しまったと思ったが、言ってしまったからには仕方ない。

 嫌々ながらも、男は口にした。


「……お嬢がですよ」

「どうして?」


「いや。

 周りの人間にそう思われて。


 欒さんやまどかさん、薫さん、みんながそんな風に思うようになったら、身動き取れなくなりませんか?」


 他人の望む己れであらんとするために――。


 どうかな、と立花は目の前のガラスケースの中の、活きのいいネタを見ながら嗤った。


「あの人、あれでけっこう非情なところがあるからな。


 人があの人を理想にしていても、そのときが来たら、遠慮会釈なく打ち砕くだろう。


 だが、確かに欒は特別だ。

 あの人のために血にまみれた」


 しばらく沈黙が流れた。


 主人が隣の客に、見てもしっとりとした身に、香ばしいタレのかかった穴子を出している。


 それを見ながら男は訊いた。


「木端にされたことがあるんですか?」

 珍しく立花が噴いた。


「前から訊いてみたかったんですけど、二人きりのときはなんて呼んでるんです?」

「いい度胸だな、お前……」


 顔を作り切れない立花が睨んだとき、からりと入り口の格子戸が開いた。


 つい、そちらに目をやると、赤い浴衣姿の花のような美女が入ってきた。


「……お嬢」


 可愛らしく水色の浴衣を着こなした欒が後ろに付き従っている。


 だがやはり、少女は桁違いだった。


 顔がどうのスタイルがどうのという以前に、雰囲気がの人間を圧している。


「どう? 可愛いでしょ? 此処、好きな浴衣選べるのよ」


 白い地に大輪の赤い花。

 それはまるで少女そのものだった。


 男の隣に座ると、さっさとコハダを注文する。


「ナマモノ苦手なんじゃなかったんですか」


「こういうとこに来たら食べないと。それに、新鮮で生臭くなさそうだし」

とショーケースの中を見る。


「欒、なんにする?」

「えーと、じゃあ、中トロ」


「いきなりかい……。

 あ。私、久保田の千寿」

と可愛らしく手を上げる。


「宮様、せめて人前ではお止めください」


 もうかなり投げやりになっている口調で、一応、というように立花は言った。

 



「そういや、垣坂は何処行ったのよ」


 食べたいだけ食べてロビーに出たころ、ようやく少女はそう問うた。


 最初から気にはしていたのだろうが、微妙にやわらいだ空気を崩したくなくて敢えて触れなかったのだろう。


 立花と垣坂の間には妙な緊張感があるから。


「なんか先に風呂上がって、あちこち電話してましたよ。

 自分のことは気にしないでくれって、ああ、一騎がですが」


 でしょうね、と少女は言う。

 垣坂なら自分のことは気にするななんて言いはしまい。


「なんか……一騎には悪いことしちゃったわね。

 仕事に行く途中だったみたいなのに」




 ロビーラウンジには、薄暗い蝋燭の灯るテーブルが並んでいた。


 その向こうには、全面ガラスの窓があり、人工の滝が見える。


 水飛沫と黒く濡れた岩に水が当たり弾く音がここまで飛んできそうだ。


 緑色にライトアップされたそれを見ながら少女は言った。


「奇麗ね。でももったいない感じ」

「水道の水じゃないでしょう」


 人工のものではない山を見上げながら立花が言った。


 そうだけど、と言いながら、少女はそちらに向かって足を踏み出す。


 立花が止めた。

「もう呑ませませんよ」


 つい少女の要求に負けた自分をも戒めるように立花は言う。

 だが、少女は、違うもん、と頬を膨らました。


「あの滝、近くでみよう思っただけだもん」


「貴女の部屋からも見えるでしょう?

 はいはい、もう寝てくださいよ。欒」


 はい、とつい欒は素直に返事をしてしまい、口許を押さえた。


「今日はお前が宮様に付いてろ」

 でも、と欒は惑う。


「私はボディガードとして動いていい許しをいただいておりません」


 立花は眉をひそめた。


「私は別にこいつとでいいわよ。

 まあ、欒とゆっくり話もしたいけど」


「とんでもない!」

 恐れ多いというように欒は手を振る。


 当主の許しもなく、少女と床をともにするなどと欒にとっては、不敬の極みもいいとこなのだろう。


 だからこそ、自分に対して、あんなに攻撃的なのだと男は悟った。


 だったら、立花さんこそ攻撃してくれ、と思う。


 自分は不埒な真似はしていない。

 ……そんなには。


 立花は自分を疑っているわけではないだろうが、警戒しているのは確かだ。


 いや、違う。

 自分だろうと、垣坂だろうと、誰も男を近づけたくないのだ。


 おそらく、自分自身さえも――。


「宮様、もう戻りましょう」

 そう言って少女の手を取り、彼女を立っていた橋の上から普通の道へと下ろした。


 ロビーを流れる小川の上の橋は、ピンライトで下から照らされていた。


 その上に立つ浴衣姿のさまになる彼女に、通りかかる人々の視線が向かないわけはない。


 もう少し眼福になってやってても悪くないのではないかと苦笑いしながら。

 ふと、もし、いつもの旅のように立花が此処に居なかったら、自分はどうしているだろうと思う。


 きっと、何かケチをつけてでも彼女を下ろしていたことだろう。



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