第11話

 祠の扉は、古びていながらも不思議と錆びも歪みもなかった。

 まるで何百年も前から、誰かを待ち続けていたかのように、ゆっくりと音を立てて開いた。


 中に広がっていたのは、静謐そのものだった。

 岩肌に囲まれた空間には、潮の流れも風の通りも感じられない。

 けれど、そこには確かに“海の気配”があった。


 天井には小さな穴が開いていて、そこから差し込む陽光が、中央の円形壇を淡く照らしていた。

 壇の上には、蒼い結晶が浮かんでいた。

 水のように透き通って、波のようにゆらぎ、まるで心臓のように脈打っている。


「これは……“潮核石(ちょうかくせき)”?」


 シーナが、思わず声を漏らす。


「知ってるのか?」


「ええ……伝承でしか聞いたことがありません。

 潮核石は、海に選ばれた者だけが触れられる、最も純粋な“潮の記憶”。

 大昔、海龍と最初に契約した者たちが、それぞれの力の礎として残したものとされていました」


 その言葉に、俺の胸が強く脈打った。

 記憶。

 海の記憶。

 セラシオンが持つ“波の知識”とは別に、この世界に残された原初の記録。


 俺は壇の前に立ち、ゆっくりと手を伸ばした。


 結晶は俺の指先を拒まなかった。

 逆に、軽く触れただけで、それは一瞬で光を放ち、俺の中に飛び込んでくる。


 ――ザァァァアアア……


 耳の奥に、波の音が満ちる。

 目の前が、白く、蒼く、揺らめく。


 俺は、記憶の中にいた。


 


 そこは、今よりもずっと昔の海だった。


 まだ島も少なく、海は荒れていた。

 風は気まぐれで、波は猛り狂い、人の声などかき消されるほどの時代。


 その海に、一隻の小舟が浮かんでいた。

 中には、ひとりの少年がいた。

 褐色の肌、鋭い眼差し――どこか、俺に似ていた。


 少年は、手を掲げていた。

 その先には、巨大な龍がいた。


 それは、セラシオンだった。

 けれど、今よりも荒々しく、野生の塊のような姿だった。


 龍は少年に試していた。

 力を与えるに足る“価値”があるかどうかを。

 命を委ねるに足る“覚悟”があるかどうかを。


 少年は叫んだ。


『――俺は、波に従わねぇ!

 波を“感じて”、波と“話して”、波と“共に”生きていく!

 支配も服従もしねぇ! これは、俺と海との“約束”だ!』


 その言葉に、龍は口を開き、咆哮を上げた。


 それは怒りではなく、祝福だった。


 そして――契約が結ばれた。


 波が、世界に意味を持ち始めた瞬間。

 風が、命に向かって吹き始めた時代。


 それが、“最初の契約者”の姿だった。


 


 気がつくと、俺は祠の中に戻っていた。


 潮核石は、光を収めていた。

 だが、俺の中では、波の音が確かに広がっていた。


「……見えたんだな?」


 シーナが、俺の顔を見て訊いた。


「……ああ。“始まり”を見た。

 あの時代から、海と人は“対等”だった。

 波は、従わせるものでも、逃げるものでもない。

 一緒に在るものだ」


「それが……レン様の“波”」


「そうだ。そして、それを……これから、証明する」


 セラシオンの力。

 潮の声。

 人々の命。

 すべてを繋ぐ、“波の在り方”を。


 この祠は、それを思い出させてくれた。


 そして今、この島を、海を、そしてこの世界を守るために――俺は、進む。

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