第2話
ずっと、俺には何もなかった。
誰にも期待されず、必要ともされなかった。
ただ、流されるように、与えられた役割をこなしてきた。
だが今、この巨大な“存在”は、そんな俺を――見ている。
「……契約って、何をすればいいんだ」
喉が渇く。声はかすれていた。
それでも俺は、訊いた。
セラシオンは、海面をわずかにうねらせて答えた。
「おまえの名を我に捧げよ。そして、我を呼べ。
その瞬間より、おまえは“波の契約者”となる」
たったそれだけでいいのか?
いや、そんなわけがない。
「代償は……?」
俺が問うと、セラシオンの目がわずかに細まった。
「おまえはすでに、すべてを失っている。
帰る場所も、共にある者も、過去の誇りすらも」
――そうだ。
追い出されて、否定されて、見捨てられて。
俺には、もうなにも残っていない。
「だからこそ、契約は成立する。
波は“失われた者”にしか、その背を預けぬ」
その言葉に、なぜか胸が締めつけられた。
孤独であることが、選ばれる理由になるなんて。
こんなに皮肉なことがあるか。
けれど、心の奥底では、何かが確かに響いていた。
「……分かった」
俺は立ち上がった。
小舟の上で、膝が震えていたが、無理に踏ん張った。
どこかで波が吠えた。風が逆巻いた。
海が――期待しているようだった。
「俺の名は、レン・タカナ。海に捨てられた、“ただの漁師の息子”だ」
両手を前に差し出した。
「だけど……この命、くれてやるよ。
力があるなら、俺にくれ。
もう、失うもんなんて、ないんだから……!」
その瞬間、海が光った。
――蒼い光。
陽光でも、魔法でもない、もっと根源的な輝きが、俺の全身を包み込んだ。
海面から、波がひとつ、天に向かって巻き上がる。
まるで龍が吠えるように。
セラシオンが首をもたげた。
「契約、成立――」
その言葉と共に、俺の胸に、熱が流れ込んできた。
視界が、反転する。
耳の奥で、潮のざわめきが轟く。
脳裏に、ありとあらゆる“海の知識”が流れ込んでくる。
それは、まるで“もうひとつの自分”が誕生する感覚だった。
俺の中に、確かに“波”が宿った。
潮の流れが、わかる。
風の向きが、肌で感じられる。
海面を走るさざ波のひとつひとつが、まるで自分の指先の延長になったような錯覚さえ覚えた。
「……これが、“契約者”の力か……」
そう呟いた俺の声は、震えていた。
恐怖ではない。驚きでもない。
ただ――確信だった。
世界が変わった。
いや、世界そのものは何も変わっていない。
変わったのは、俺の“感じ方”だ。
海は、ただの水の塊じゃなかった。
怒り、嘆き、願い――感情を抱いて、そこに“生きていた”。
それに、今、俺は触れている。
「おまえの魂に刻まれた印。それが、波の契約」
セラシオンの声が、再び思考に響いた。
「おまえは、波に祝福されし者。“龍契者(りゅうけいしゃ)”となった」
その瞬間、体内で何かが反応した。
手の甲に、蒼く揺れる紋様が浮かぶ。
渦を描くような文様――波の印。
「これから、どうすれば……」
思わず口に出していた。
契約は成立した。だが、それだけでは何も変わらない。
俺には家も仲間もない。ただ、ひとつの力を得ただけだ。
「おまえの旅は、今始まったばかりだ。
波は流れる。導くままに、進め」
「導く、ままに……?」
その言葉に合わせるように、船がふわりと浮き上がった。
いや、風が、帆もないこの小舟を押し出していた。
追い風。方向は、太陽のある西。
俺は慌てて舵を掴んだ――が、驚いたことに、舵を切らずとも、船は滑るように進んでいく。
「……まるで、生きてるみたいだな」
思わず洩れた本音に、セラシオンの声が答えた。
「船もまた、波に生かされたもの。
おまえの“意思”に応じて、道を選ぶ」
まるで俺の心を読んだような言葉に、少しだけ背筋がぞくりとした。
だが、同時に、胸の奥に熱がこみあげる。
俺は――選ばれたんだ。
今まで、誰にも必要とされなかった俺が。
何もできないと笑われ、追い出された俺が。
今、この広い海に、たったひとつの“特別”として立っている。
波が揺れる。
風が笑う。
水平線の向こうには、まだ見ぬ島々がある。
新しい世界が、俺を待っている。
「……行こうか。どこでもいい。けど、もう、流されるだけの俺じゃない」
漕ぎ出す足には、もう迷いはなかった。
海が応えてくれる。
この身を委ねた、この波が――確かに、俺を運ぶ。
そう、信じられた。
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