追放された最弱少年、海龍と契り群島国家を救う〜波と契約した俺の内政&冒険記〜

☆ほしい

第1話

 ――海の音が、やけに遠く感じた。


 潮風の匂いが鼻をかすめ、ひび割れた木造の桟橋の上で、俺はぼんやりと波を見ていた。

 目の前に広がるのは、どこまでも続く青。だが、心に広がっているのはそれとは反対の、灰色のような虚しさだった。


「おまえは足を引っ張るだけだ。今すぐ島から出ていけ!」


 その言葉が、まだ耳に残っている。


 冒険者ギルドの仲間だったはずの奴らに、俺は昨日、追い出された。

 いや、仲間だなんて思っていたのは、俺だけだったのかもしれない。


 俺の名前は、レン・タカナ。

 アラトゥ島という、小さな漁村で生まれた海民の少年だ。

 昔から魚を獲って暮らしてきた家に生まれ、物心ついた頃には、親父の船に乗って潮を読んでいた。

 海のことなら、誰にも負けないつもりだった。


 けれど、冒険者ギルドに所属してからは、ずっと“最弱”の烙印を押されていた。

 戦闘スキルは持っていない。

 武器の扱いも並以下。

 パーティの中では、荷物持ち、雑用、魚の捌き役……それだけ。


 でも、それでも、俺は仲間のために動いた。

 潮の流れを読んで、海路の危険を避ける。

 浅瀬に潜ってモンスターの卵を回収する。

 海辺の生き物の毒抜きをして、みんなに食事を提供する。

 それを、誇りに思っていたんだ。


 ――なのに。


 ギルドの連中は、そんな俺の存在を“無駄”と切り捨てた。

 誰も俺を庇わなかった。

 そして、船に放り込まれた俺は、荷物も持たされず、小舟で海に突き出された。


「なんなんだよ……俺は、なんで……」


 波が揺れる。空は広く、陽が強い。

 でも、胸の奥は、どこまでも冷えていた。


 俺の持つスキルは《潮の眼》。

 潮の流れを読み、水中の魚群や地形を視る、ただそれだけの能力だ。

 戦えない。護れない。誰かを助ける力なんて、どこにもない。


 小舟の底で膝を抱え、俺は空を見上げた。

 雲一つない空。果てしない蒼。

 この世界は、あまりにも広く、そして俺は、あまりにも小さい。


「……もう、終わりかもしれないな」


 声にしてみると、それが妙に現実味を帯びた。

 このまま、潮に流されて、誰にも知られず、海の藻屑になる――

 そんな未来が、手のひらに落ちてきたような気がした。


 でも。


 そのとき、遠くから、何かが近づいてきた。


 ――ゴウウゥ……。


 風ではない。波でもない。

 それは、海の底から響いてくるような、低く、重く、威厳ある音だった。


 俺は顔を上げた。

 太陽の下、海面がわずかに揺れている。


 そして。


 ――海が、俺を見ていた。


 おかしい。風は止んでいるのに、船が揺れる。

 それも、ただのうねりじゃない。なにか――巨大な“存在”が、水の下で動いている。


「……なんだ、これ」


 俺は慌てて、船縁にしがみついた。

 ぐらりと傾いた小舟の横で、海面が泡立つ。

 その中心に、黒い影が――いや、輪郭がはっきりしない、なにかが浮かび上がってきた。


 波ではない。魚でもない。船でもない。


 それは、神話でしか聞いたことがなかった“それ”だった。


 ――海龍(かいりゅう)。


 巨大な、蛇のような、鱗を纏った影が、うねるように海中を滑る。

 頭はまだ見えない。だが、その存在だけで、空気が震え、心臓が悲鳴を上げていた。


 動けない。


 逃げられない。


 俺は、ただその場に縫いつけられたように立ち尽くした。

 呼吸が浅くなる。掌がじっとりと濡れる。


「な、なんで……なんでこんなもんが……っ!」


 それは神話の中で語られる存在。

 数百年前、このティラン海界をひとつにまとめたと言われる伝説の“海龍王”。


 名を、セラシオン。


 ――彼の怒りに触れた島は、海に沈んだという。

 ――彼の加護を得た者は、世界のすべての航路を制したという。


 ただの昔話だと思っていた。

 誰もが笑っていた。

 けれど、今、目の前にいるのだ。そんな幻想が。


「……おまえか」


 声が、頭の中に響いた。


 男でも女でもない。

 人の言葉でもない。

 でも、確かに“意味”だけが、思考に染み込んでくる。


「――おまえが、この海に捨てられた者か」


 俺は、恐る恐る声を返した。

 口は震えていた。息も浅い。

 だけど、どうしても訊かずにはいられなかった。


「……おまえ、誰なんだ……!」


 沈黙のあと、海面が盛り上がる。

 ざん、と音を立てて水飛沫が跳ね、青い鱗が太陽を反射した。


 次の瞬間、水面から頭部だけが現れた。


 鋭い双眸。長くしなるヒゲ。

 巨大な海蛇と竜を合わせたような、荘厳な姿。

 だが、その瞳には、どこか悲しみのようなものが宿っていた。


「我はセラシオン。波を統べし、海の龍。かつての契約より久しき年月を越えて、目覚めし者」


 声ではなく、意志が響いてくる。

 理解できる言葉ではないのに、心に直接届いてくる。


 セラシオン。

 本当に、神話の中の存在が、今、目の前にいる。


「なぜ……俺なんだよ……! おれは……ただ、追い出されただけの、何の力もないやつで……!」


 叫ぶように言った。

 自分が惨めで、情けなくて、なにより、こんなものに選ばれる理由が分からなくて。


 けれど、セラシオンは言った。


「海に捨てられた者よ。おまえの目は、まだ見えている。海の声を。潮の道を。命の流れを」


「……は?」


 俺には、何のことか分からなかった。

 でも、確かにそのとき、船の下の“なにか”が見えた気がした。


 潮の流れ。魚の群れ。水の温度。


 それは、俺が幼い頃から当たり前のように感じていた“違和感”だった。

 誰にも教えられていないのに、俺にはわかっていたもの。


 ――あれは、スキルなんかじゃなかったのか。


「おまえの目は、海の目だ。おまえの耳は、風の声を聞く。

 おまえが“見えていた”もの。それは、“選ばれていた”ということ」


 セラシオンの瞳が、まっすぐに俺を射抜いた。


「我と契約せよ。おまえの命を、我が波に委ねよ。

 代償なくして、力は得られぬ。だが、おまえには“それ”がある」


 俺は唇を噛んだ。

 怖い。信じられない。けれど――


 心のどこかが、うずいた。

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