第3話 熱量の配分

 会議スペースの空気は乾いて、薄く金属の匂いがした。外気の冷たさが出入口から少しずつ忍び込み、床のタイルを底から冷やしている。テーブルの真ん中には銀色の保温ポットが一つ。注ぎ口に小さな水珠が残って、湯気はほとんど立たなかった。


 江藤未紗がホワイトボードのキャップを外し、太い字で三行を書く。

 〈人の保温〉〈通信の維持〉〈機器の冷却〉

 その下に、赤で大きく数字を重ねた。48:00:00。壁の電子掲示と同じ数字だが、手書きのほうが冷たく見える。


「割り振ります」

 江藤はボードから振り向かずに言った。「合図は整えない。数字は“今”を過不足なく示すためだけに使う。意見は一文で。壁に貼ります」


 東堂亮が手を挙げた。コートの襟を立てたまま、立ち姿はどこかオフィスの会議の延長に見える。

「段階的な計画停止を検討してはどうでしょう。コストと安全の観点から、負荷を一つずつ落としていく——」


「時刻の観点でいきます」

 香織は短く遮った。声は柔らかいが、語尾は平らに落とす。「いつ落とすかを先に決めれば、合図を人間の都合で整えることになる。今ここで鳴っている音を、まず聞きます」


 成海翔が紙コップを両手で包み、指先の赤みを隠すようにしながら言った。

「じ、自席のヒーターは切りました。タイパ仕様でマニュアルも短縮版に統一してます」

「ありがとう」香織はうなずいて、白いカードにさらりと書いて壁の端に貼る。〈短縮=理由を書く〉。理由が紙に載っていれば、後で見直せる。載っていなければ、どんな善意も霧散する。


 室田剛は後列の柱に肩を預けていた。立つと自然に左肩が半歩前へ出る姿勢になるのを、香織は横目で見た。腕は組まない。手の甲を左手でつまみ、親指の腹で右手首を撫でる癖。身体が選ぶ均衡の位置は、言葉より正直だ。


 遠くで、CRAC(空調機)のファンが回る。ウィーンと一定に続いた音が、ほんの半拍だけ落ち、すぐに戻った。壁の時計の秒針とは別のリズム。——設備側の準備の癖。いまの一拍はかすかな合図にすぎないが、扉の金属はそれを知っている。


「音を取りましょう」

 古賀一郎がラップトップを抱えて立つ。夜勤の顔は眠そうなのに、目だけはよく光っている。「監視廊下の天井マイクがCRACの落ちを拾ってます。二十秒の谷、時刻と合わせられるはずです」

「お願いします」香織は頷く。「今の音。さっきの音。08:00の前後も」


 石黒沙耶が手を上げた。「NOCの扉縁、写真撮りました。斜光で」

 タブレットの画面に、扉の縁の拡大が映る。極細の擦過が一本。線は中から外へ傾き、金属の目に沿って微かに銀色が覗く。

 香織は画面を指先で拡大し、傷の入口の角度だけを確認した。左肩から入って、左の指でラッチの背を撫でるときの角度。

「古い施設は“癖”で擦れやすいんだ」室田が何でもない調子で言う。

「癖、好きなんですね」香織は笑わないで返し、白いカードに小さく〈癖=体の選び方〉と記した。


 古賀が戻ってくる。波形が走るモニタを両手で支え、指先で山と谷をなぞった。

「これが今朝の八時前後。ここが07:59:59の落ち。で、ここ——08:00:40の直前にもう一つ」

「直前?」成海が身を乗り出した。

「はい。二つ、落ちがある」古賀は断言した。


 会議スペースの空気が、ひとつ分だけ重くなる。東堂が眉を寄せる。

「それで、何が言いたい?」

「準備窓が二度来た可能性」香織が代わりに言う。「二度あれば、扉のラッチは二度だけ紙一枚ぶん、軽くなる」


 江藤は赤で〈谷×2〉と囲み、下に小さく注意事項を書き添える。「落ちの前後五分は通路封鎖。NOC周辺は接近禁止。非常連絡盤には触れない」

 星浪ミサが“触れない”の行に太線を引いた。彼女のスマホは画面を伏せたまま、静かだ。


 香織はテーブルの角を動かし、通路のマットを靴先で五センチほどずらした。右側の動線がわずかに狭くなり、左が広くなる。何も言わない。人は、知らないうちに通りやすいほうを選ぶ。身体が先に選んだ道は、口で選んだ道より確かだ。


 加納遥が息を整えて近づいてきた。「ダッシュボードは生ログに戻しました。AIOpsの相関ルールは変更なし。プリンタの二重行は、入力の二重と見てよさそうです」

「相関は整えるためのもの。今は整えないで」香織は穏やかに言った。「正常という言葉は、見た目を良くするために使われやすいから」

 加納は素直にうなずき、手を引いた。整える手を、いったん止める。


 東堂が椅子をきしませた。「犯人探しより、止めるほうが先だ。二度目の落ちが来るなら、どこかを先に落としてでも——」

「止めるには、“止まる”の形が要るんです」香織は視線だけを向けた。「誰の手で、どの秒に。形が見えれば、数字はついてくる」


 古賀の画面の隅で、赤い点が小さく点滅した。

「二つ目の谷、あと三分」

 遠くのウィーンは、まだ一定を保っている。香織はNOCの扉を遠くから眺め、縁の極細の傷の光り方を確かめた。照明の角度が変わると、線は一瞬だけ濡れたように見える。


 石黒がタブレットを掲げる。「アクセス監査。08:00台に相関画面を開いた席が一つ、NOCの外にあります」

「どの席?」

 加納は言い淀み、東堂を一度だけ横目で見、最後に室田の名を出さずに答えた。「設備ブロックの端末です」

 江藤は静かに一枚紙を外し、〈08:00 室田:設備席、相関画面開閉〉と一文で書いた。余計な形容は足さない。紙は、背中で語る。


 星浪がもう一枚、写真を差し出した。ラックのマクロに承認タグ「ビジュいいじゃん」。

「EXIF、ここです」

 画面下に小さな数字。07:58、二十七秒。撮影端末のタイムゾーンはUTC。ダッシュボード表示の08:00とは、二分弱ずれている。

 香織は秒の部分だけを赤で囲んだ。「余白があります。二分は、演奏に入るには十分すぎる長さ」


 室田の視線は壁の赤い数字のまま動かない。47:28:10。時間は均等に削れていく。彼の言い方で言えば、それは守るべき数字だ。

 香織はふと、彼の左手が右手首を撫でる癖に気づく。皮膚の上を指先がなぞるとき、人は自分に励ましを与える。あるいは、身体記憶を確かめる。


「一文でどうぞ」江藤が用紙を配った。

 ——東堂:計画停止、再提案。

 ——成海:保温切替。指先痛い。

——加納:相関ルール確認、変更なし。

——石黒:カメラ、記録良好。

——古賀:谷×2。

——星浪:配信停止、広報文草稿。

——室田:設備、監視。

 「監視」という言葉は便利だ。具体と抽象のどちらにも寄れる。便利な言葉は、よく隠れる。


 香織は室田の右側に立った。わざと、右からの通路を塞ぎ、左側へ緩く抜け道を作る。何も言わない。身体が先に選ぶほうを、ただ見たい。


 古賀が画面を指で叩く。「一分です」

 江藤は赤で予定に書き込んだ。〈+1分:通路封鎖/NOC周辺、接近禁止/一文更新〉

 成海は紙コップを置き、両手をこすり合わせる。石黒がライトを用意し、扉の縁に斜めの光を作った。写真で見た極細の線が、毛髪ほどの細さで浮く。


「室田さん」香織は視線を動かさずに呼んだ。「キースイッチ、落ちの前と後で触れますか」

「触れない。自動だ」

 返事は迷いがなく、むしろ速すぎた。香織は頷かず、白いカードに小さな点を打つ。点は誰にも見えない高さにある。


 そのとき、古賀が息を吸い、静かな声で告げた。

「——来ます」


 ウィーンが半拍、落ちた。通路の空気が耳の奥でわずかに沈む。古賀のスペクトラムの谷は滑らかに深まり、ゆっくり戻る。

 香織は動かない。江藤も、石黒も、星浪も、成海も動かない。

 誰が——体で動くかを見るために。


 室田の左肩が、わずかに前へ出た。扉の縁へ左の指が近づく。石黒のライトが金属の上に細い線を描き、紙一枚ぶんの余裕が、目には見えないのに皮膚でわかる。空気がそこだけ、柔らかい。


 古賀のラップトップがピッと鳴った。谷は一度目を刻み、戻る。

 江藤のペン先が止まり、香織の視線が、室田の指が元の右手首へ戻るのを追う。彼の顔には何も書かれていない。壁の赤い数字だけが、無表情に減っていく。47:12:02。


「——もう一つ、あります」古賀が静かに言った。

 香織はうなずかない。うなずく代わりに扉の縁を遠くから見つめ、極細の線がほんの少し増えたように見えるのを、心の内側にしまう。


 風が窓を撫で、CRACは一定に戻る。

 一つ目の谷は過ぎた。

 まだ、もう一つある。

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