第2話 氷点の入口

 回転扉を抜けた瞬間、冷気が肺の奥で角ばった。

 非常灯は橙。床は乾いているのに、空気は濡れたように重い。

 壁の電子掲示板に赤い数字。


 48:00:00


「始業、という言葉は似合わないけど」

 江藤未紗が赤ペンを握り直す。

「やることは始まる」


 案内の加納遥(SRE)が手短に言う。

「九時に“公開運用の最終確認”の予定でしたが——電力の負荷が荒れてます。AIOpsは緑です、いまは」

 緑すぎる、と彼女の目が言っている。


 香織は頷き、壁の隅に白いカードを貼る。

〈見たことは一文で。——長く語るのはあと〉

 手順ミステリーではない。手順は、最小限。

 語りすぎると、嘘が隠れる。

 ——今日は、嘘を待つ日だ。


 設備の室田剛が合図もなく先に歩く。

 左の手でゲートを押す癖。

 肩の内側が少しだけ前へ出る。

 江藤が横で小声。「左、ね」

 香織は頷かない。内側で点を打つだけ。


 ウィーン。

 耳に引っかかる。CRACのファン。

 半拍だけ落ちて、戻る。

 ——準備。

 香織は息をひとつ止めた。


「監視室(NOC)、カード反応します」

 セキュリティの石黒がパネルを見て言う。

 扉は動かない。

 カチ。

 ラッチが、紙一枚ぶんだけ軽くなって、すぐ硬くなる。

 室田が肩で押す。動かない。

 古賀(ガード)が上部の覗き窓を覗き、薄く首を振った。


 非常解錠で扉が開いたとき、空気が微かに前へ流れた。

 NOCの床で、会田裕一が仰向け。

 外傷は小さい。

 壁の防曇フィルムに霜が出ている。

 内から外へ伸びる筋。

 ——今だけ開いて、今だけ閉じた。


 江藤が短く切り回す。

「救護——低温対策。情報は一文で壁。映像は止める」

 星浪ミサ(広報帯同)がスマホを下げる。

 東堂(CFO代行)が口を開きかけ、閉じる。

 言葉は、いまは一文で足りる。


 香織はNOCの壁のダッシュボードを見る。

 緑。

 緑。

 緑。

 緑すぎる。

「ログ、紙で出してください」

 加納がプリンタを叩く。

 “POWER EVENT 08:00:40”

 紙が二枚——ではない。一枚の紙に、濃淡の違う同一行が重なって出た。

 香織は指で余白を押さえ、光に透かす。

 ——二度目の08:00:40。


 成海翔(若手オペ)が袖を引く。

「運用チャット、荒れてます。スタンプが……」

 画面には同秒の並びが三つ。

 「エッホエッホ」「エッホエッホ」「エッホエッホ」

 香織は問う。

「モバイルで、同秒三つ、押せる?」

 加納が首を横に振る。

「無理。PCのフルクライアントだけ」

「その秒、どの席がログイン?」

 加納の指が、画面の座標を叩く。

 赤い点が一つ、NOCの外に灯る。


 香織は何も言わない。

 言わないことが、時々いちばん効く。

 江藤は壁にもう一枚、薄い紙を貼る。

 〈08:00の一文〉

 名前——場所——一文。

 交互も、掲示も、今日は形だけでいい。

 喋らせるための形なら。


「室田さん」

 香織は振り向かずに呼ぶ。

「キースイッチ、どの手で回します?」

 間。

 「右でも左でも」

 速い。

 香織は薄く笑う。

「体が先に選ぶほうで」

 室田は左の指で、空中の見えない鍵を回す仕草をした。

 それを見て、香織は何も言わない。

 白いカードに小さく点。「左」。


 星浪が写真を差し出す。

「配線の承認、“ビジュいいじゃん”。EXIFあります」

 香織は受け取り、時差だけを見て返す。

 07:58。

 ——“08:00を作る側”の時間。


 香織はNOCの扉の縁を斜めから見た。

 細い、新しい擦過。

 方向は、中→外。

 肩の入りは、左の角度。

 江藤が囁く。「見える?」

 香織は頷かない。

 ——まだ、言わせる。


「一文、書きます」

 江藤が用紙を回す。

 08:00

 成海:ラック前。寒い。

 加納:NOC前。緑安定。

 石黒:通路。反応なし。

 室田:設備。準備。

 星浪:会議スペース。待機。

 東堂:オフィス。計画。

 古賀:廊下。巡回。

 ——準備、という言葉は便利だ。なんにでも合う。

 香織は室田の行に赤で小さく丸を付ける。

 丸は、誰にも見えない位置に。


 古賀が言う。

「監視廊下のマイク、ファンの落ちを拾ってます。二十秒周期」

「後で聞きます」

 香織はNOCの防曇フィルムを、横からライトでなぞる。

 内→外。

 霜の成長方向は素直だ。

 素直なものは、嘘が嫌い。


「救護終わり。連絡は?」

 江藤が問う。

 加納は短く。「外線、まだ死んでます。衛星は時折」

「じゃ、ここで完結させる」

 香織は壁の白いカードを一枚増やした。

〈合図は整えない〉

 星浪が首をかしげる。

 香織は説明しない。

 説明は、後がいい。

 先に、誰かが説明してくれるから。


「室田さん、扉に触った人は?」

 香織は問いを横に振る。

「点検で、皆が」

 速い。

 「誰が、いつ?」

 室田は視線を外す。

「記録を、あとで」

 記録は整えられる。

 ならいまは、口で。


「今日の“準備”は、二度来た」

 香織は自分に言い聞かせるみたいに短く言って、誰も見ない。

 誰が反応するかを見るために。

 室田の喉が、ひとつ上下した。

 江藤が赤のキャップを閉じる音が、小さく響いた。


 東堂が割り込む。

「熱量配分は?」

「あとで」

 香織は扉から距離を取り、室田の右側に立つ。

 わざと、右を塞ぐ。

 左肩が前へ出る癖の人間は、無意識に左の逃げを探す。

 その身体が、言葉を裏切る瞬間を待つ。


「——今夜、公開で再現しますか?」

 江藤が尋ねる。

「いいえ。しない」

 香織は首を振る。

「今日は会話をやる。手続きは、明日でも死なない」

 人は、今日、死ぬ。

 嘘は、今日、語る。


 壁の赤い数字が、47:37:12に変わる。

 時間は減る。

 緑は整っている。

 香織は白いカードを指で弾き、背を向けた。

 扉の縁で、紙一枚が、まだそこにある気がした。


「室田さん」

 振り返らず、もう一度だけ呼ぶ。

「キースイッチの位置、設備室の右と左、どっちに寄ってます?」

 短い沈黙。

 「——左」

 ありがとう、と香織は言わない。

 カードに小さく、同じ点をひとつ増やした。


 嘘は、もう、歩き始めている。

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