怪物女王になるまでのまとめ
現在改稿中の12章での「怪物女王」ぶりだけど、あれになるまでの動機と過程が、たとえば12◯記みたいな理想的なファンタジーとまるで違う「低俗」であること笑
「第七〜九章 臨床カルテ」
「ただの女子高生が王座につく物語と違う」ってやつ。
第七章
王座=贖罪装置としてスタートしている
いきなり「暫定即位の儀式」で目覚める
見知らぬ成長した身体=メービス
目の前にはヴォルフ中身ヴィル
気づいたら 「女王陛下」と「王配殿下」 にされているという、とんでもない着地をしている。
ここでポイントなのは
「ラッキー、王様だ!」じゃない
「やばい、人の人生を乗っ取ってる」「偽物とバレたら終わる」
しかも、時間遡行の片道切符の確率が高いと分かっていて、すでに罪悪感を大量に抱えている。
つまり第七章の時点で、ミツルにとって王冠は、 「普通の女子高生が突然押し付けられた運命」じゃなくて「前世と転生のツケ」を払うための拘置所として立ち上がってる。
十二◯記の◯子も、「どこにでもいる平凡な女子高生」から異世界に連れて来られて王に選ばれるけど、そこには「悪く言えば八方美人、誰の顔色も窺ってきた子が、どう自分の足で立つか」という成長線が主軸にある。等身大の~感情移入しやすいキャラです。
黒髪のミツルは、最初から「立ってしまっている王座」がツケの塊、という段階から始まってるのが決定的に違う。
「五年の約束」で、本当なら逃げられたはずの出口を自分で握りしめる(Ep.341〜354)
Ep.341〜354(先王との対面〜五年の約束)でやってることが、かなりエグい。
先王オリヴィエから、メービスの過去(黒髪巫女として幽閉 → 緑ウィッグで自由を与えた父の愛)
「五年だけこの国の後見をしてくれ、あとは落胤のリュシアンに継がせ、二人は国を離れて自由になっていい」という 出口付きの王座 が提示される。つまりここで初めて、ミツルは
「一生、メービスとして籠の鳥」ではなく
「五年耐えれば、王位も国も手放して、ヴィルとどこかへ行けるかもしれない」
という、“救済ルート”を手に入れる。
普通の物語なら、ここから「五年頑張って、最後は二人で旅立ち」ルートに舵を切っても全然おかしくない。
でも黒髪は、その「退路」をもったまま、メービスの宿命をそのまま引き受ける。黒髪の巫女としての構造的な呪いまで、自分の問題として抱え込む方向に踏み込んでいく。
ここで、将来の「怪物的女王」の芽がかなり濃くなる。「出口を知らないまま囚われている王」じゃなくて、「出口を知った上で、そこへ行くには“世界の方を変えなきゃダメだ”と悟り始めた王」に変質していく。
◇◇◇
第八章
ロゼリーヌ&リュシアンで、乙女のミクロが政治のマクロに繋がる
一番強調していたところ。第八章(Ep.355〜407)は、ざっくり言うと
ロゼリーヌ&リュシアン母子に出会う
「王宮の理不尽から守りたい」という 乙女ミクロの願い が芽生える
でも、相手は「王統」「宰相派」「魔石利権」に繋がった存在
という構図。ここで起きているのは
「幽閉されていた黒髪の巫女=メービス」と
「王都からの要請を全力で拒む母ロゼリーヌ」が重なり、
「わたしはこの人を、王家の道具にしたくない」
「リュシアンを“誰かの象徴”として消費したくない」
「かつての、前世のわたしみたいにしてはいけない」
「リュシアン……尊い」笑
というきわめて個人的な感情が生まれる。もうまさに私情(宰相に突っ込まれるわな)
でも、その母子を守るためには、
宰相クレイグの政治装置
貴族院の利権構造
に手を突っ込むしかない、と分かっていく。
つまり第八章は、
「母子を守る」という乙女的小さな願い
↓
「そのために、国家と世界の構造そのものを殴らざるを得ない」
という リンクの確立編 になってる。この時点で、単なる「王になって責任を学ぶ物語」からは大きく外れてる。母子を守ろうとする度に、どんどん世界の巨大な歪みの方へ引きずり込まれていく設計。
◇◇◇
第九章
王冠を被ったまま“現場の怪物”になっていく
Ep.408以降(宰相の遅延行軍〜雪の宿場町・路地裏バトル)は、完全に「怪物的女王の準備運動」。
宰相は「悠然とした行軍」で余が統べる姿を見せつけようとしている(=権威の演出)。
それを追い抜く形で、メービス&ヴォルフは雪山ルートを二人乗りで駆け抜ける。
宿場町は宰相の私兵に押さえられ、「暴虐女王」プロパガンダが流れている。
ここでのミツルの動きがもう怪物寄りで、路地裏で少女が襲われている場面に遭遇した瞬間、 理性より先にトラウマと怒りで動いてしまう。
マウザーグレイルも茉凜も頼らず、自前の精霊魔術〈場裏・白〉+エアバーストで私兵を吹き飛ばす。その結果、周囲の私兵に存在を察知され、追われる。
それでも、「黒髪の女王」ではなく、茉凜に似せた「ミルクティーブラウン」の姿を見せて、“権威”じゃなく“顔を出した人間”として民衆と繋がり直す。っていう、かなり「王の外側」に出ていく行動をしてる。
ここが十二◯記の◯子と決定的に違う
◯子も「慶◯の王」として、国を見てまわり、民の苦しみと向き合うプロセスを経るけれど、そこには「天意に選ばれた王が、自分の弱さと向き合って成長する」骨子がある。
ミツル/メービスは、そもそも天意に選ばれていない(身体はメービスだが、中身は亡霊)。王冠は贖罪と呪いの結果乗せられている。それでも、「黒髪の巫女」として憎まれる覚悟をしたうえで、自分から現場に出て、宰相のプロパガンダを力づくでひっくり返しに行くという意味で、「成長する王」ではなく、「憎まれる役・汚れ役を自分から取りにいく王」= 怪物になる覚悟を進んで引き受けていく王に変わっている。
だから十二章の「怪物女王」は、“突然そうなった”んじゃない
第七章
王座=罰・贖罪装置としてスタート
「偽装夫婦」「五年の約束」で、退路つきの檻が用意される。
第八章
ロゼリーヌ&リュシアンで、「守りたい母子」という乙女ミクロが生まれる。でも、それを守るには、国家・貴族院・宰相・虚無まで相手にせざるを得ないことが分かる。
第九章
王冠を被ったまま現場へ出ていき、プロパガンダをひっくり返し、自分の身体と力を「怪物側」に寄せていく。この積み重ねの果てに、十二章の「怪物的な女王」が立ち上がる。
「ただの女子高生が王座につき、苦難を経て立派な王になる物語」
ではなく、「地獄を二度くぐった魂が、贖罪と愛情とシステムとの闘いの中で、“人間である権利”を削ってでも王であろうとする物語」になってるのが、黒髪の“特殊”なところだと思う。
そして……それを決定づけるのが、第10章と第11章の苦難の連続です。
◇◇◇
第十章前半 〈悪魔の魔術師〉を“演じる”という選択
第十章の最初のブロック(415〜423)は、ダビド側から見た「ボコタ大捕物の開幕」ですよね。ここで大事なのは、最初に観客の視点が「ミツル本人」じゃなく、周りの目線から始まること。
415〜418
ダビドとアリアの目に映るのは、「宰相に理不尽に蹂躙される街」と「何かを仕掛けようとする銀翼」。市井の女将の目線が入ることで、「これから起きる戦い」が兵棋演習じゃなく人間の生活の延長だって、あらかじめ刻まれる。
419〜421:「悪魔の魔術師」誕生
ミツルが“ミルクティーブラウンの茉凜の髪を借りた〈悪魔の魔術師〉”に移行していく。
特に420〜421の「場裏・赤/黄で泥沼+内部爆砕を匂わせる→『どういう死に方がいい?』」(ゾクゾクする)っていうくだりは、「男子向けテンプレ異能バトルへの中指立て」であり、同時にメービス自身の“暗い快楽”をわざと引きずり出すシーンでもある。
普通のラノベなら、ここは「ド派手な奥義で敵を皆殺し→スカッと大勝利」タイム。
でもメービスは――そこに行かない。彼女はわざと「殺す気満々の怪物」を演じて、相手の恐怖を最大限に煽る。これは、前世で「鳴海沢洸人」から学んだ手法。
けれど本当に殺すところまでは行かない。ここで彼女がやっているのは「抑止力としての恐怖の独占」なんですよね。まるで核兵器みたいに、「撃てることを示すけど、ギリギリで撃ち抜かない」。
倫理的にはグレーどころか真っ黒に近い。でも彼女の内部では、赤い記憶の警報が鳴りっぱなしになっている。
これは、たとえばダーク寄りの魔法少女ものがやる「願いと呪いが同じ釜で煮えたぎってる」構造にすごく近いです。
『まどマギ』が「可愛い変身ヒロインの幻想をぶち壊して、力と犠牲の関係を真正面から描いた」とされるように、ミツルもここで「巫女=優しい女の子が力で守る」というお約束を、自分の心の中から壊しにかかっている。
3. 第十章中盤:悪魔の仮面の裏で、優しさが壊れていく
422〜425はまさに「怪物になることの代償」を真正面から見せるパート。
422:クリスとの会話
「この姿は、かつてわたしの一番大切だった子をなぞったものだ」と明かす。
→ ここ、読者の足も一瞬止まるところ。 “悪魔の魔術師”の顔=人間社会には二度
と戻って来ないはずの少女という二重写しが、初めて第三者(クリス)の視界にも共有される。
424:石御台公園の夢での茉凜との再会。
「殺すふりをするたびに、あの夜の感覚が蘇る」「気持ちよくなってしまいそうで怖い」と、ブレーキを踏み続けて燃え尽きていく内側が描かれる。
ここ、まさに「暗い力を使うヒロインが、自分の暴力性に怯えながら、それでも使うしかない」っていう“ダーク魔法少女”の心象そのものですよね。
ジャンル論の話でよく出てくる、「可愛らしさと暴力性の両立が、女性キャラを“モンスター”にも“聖女”にもする」という指摘そのままです。
でもミツルの場合、茉凜がこう言う
「自分がこわいって思えるなら、あんたは大丈夫だよ」
ここが大きくて、「怪物になりうる自分」への自覚がブレーキになる、という倫理の起点を示している。
むしろ「自分の暴力性を無自覚なまま振るうヒーロー」より、「自分を怖がっている怪物の方が、よほど信頼できる」という逆転の発想。これは、ヒーロー=善という単純な図式を壊しつつ、「それでも何かを守るために暴力を使わざるを得ない時、人はどうすべきか」という戦争倫理のディスカッションでもある。
(この辺り、政治的暴力と道徳の葛藤を論じる近年の政治思想の議論とも通じます。犠牲や罪を“計算せざるを得ない”指導者の葛藤ですね。
4. 第十章後半:清濁併せ呑む女王の誕生
ここからが「清濁併せ呑む怪物」への決定的なステップですよね。
4-1. 「復讐者」と手を組む――431〜433
431〜433:レズンブール伯との対話
ここでメービスは、「暴虐女王 vs 復讐伯爵」という二重の悪役ポジションを逆手に取って、堂々と取引を持ちかける。
重要なのは、伯爵の動機が「王家への私怨(奪われた恋人)」という、非常に個人的で醜いものとして描かれていること。
それでもメービスは「あなたの復讐心」を利用しつつ、「民の被害を止める」という別の正義へねじ曲げていく。ここで彼女は完全に、「清浄な正義だけを掲げる聖女」から外れている。
泥の付いた手で、もっと大きい地獄を止めるために、別の地獄の住人と握手する。
この瞬間、「ああ、これは“普通のいい子”がやる政治じゃないな」というのが、はっきりする。これは、前世で鳴海沢や真坂アキラに手を差し伸べたのと同じこと。
4-2. 悪名と聖性を同時に被る――434〜439
434〜438
広場での“悪魔/聖女”二重照明。ミツル=メービスは、群衆の前で「自分がミツルでもありメービスでもある」と公言し、噂の“悪魔”像を一度肯定したうえで、「誰も殺していない」「わたしは間違っていた」と自分から懺悔する。
そこに伯爵が割り込み、「自分はこの女王に命を救われた」「自分こそが加害者だった」と告白する。
→ これ、完全に裁判劇/懺悔劇ですよね。メービスの“怪物性”を、加害者側の告白で相対化していく。
439:
アリアの視点で描かれる、緑髪ウィッグを外した短髪の黒髪少女
「泥と血でまだらになった、痩せた後ろ姿」「腕の青痣」「冷えた指先をさすって温めるしぐさ」――これ、街の女たちの目線で“怪物の仮面の裏側”を見せてくるパート。
ここでメービスは、怪物でありながら、同時に“娘であり国の母である女”として受け止められるようになる。これはまさに、神話学でいう「ダーク・マザー」的な二重性(破壊と慈愛を同時に体現する女性神)のバリエーションにも見えます。
5. 第十章クライマックス:〈巫女と騎士システム〉の起動と“怪物の倫理”
エピソード453〜455は、黒髪のグロンダイル的には「もう一つの発動シーン」、
つまり〈巫女と騎士〉システム/IVGモード1の覚醒という超常的クライマックス。
ここでも、ただの「覚醒ドーン!」で終わらないのが「らしい」ところ。
トリガーになっているのは、
「ヴィルが死ぬ未来を見てしまった恐怖」と「あの人がいない世界に自分が残るくらいなら、世界ごと焼いてもかまわない」レベルの徹底的なエゴの爆発。
それに〈マウザーグレイル/レシュトル〉が応え、
「なら――世界の物理法則のほうを変えろ」という形でIVGシステムを解禁してくるわけですよね。
この構図自体、「願いの代償として世界のルールを書き換えるヒロイン」という意味で、『まどマギ』の“円環の理”やみたいなダーク寄り魔法少女の系譜と共振していると思います。
でも、決定的に違うのはここで――メービスは自分を犠牲にして世界を救う聖女になりたいわけじゃない。
彼女が世界の法則を書き換えるのは、「ヴィルを死なせたくない(だって……好きだから)」という、超個人的で利己的な叫びの延長。
それでも、結果として彼女は
全エネルギーをIVGフィールドで吸い上げ、敵味方ともに誰も死なせない(=究極の“非殺傷兵器としての怪物”)
それを「ふたりでひとつのツバサ」というかたちで共有し、ヴィルにも「鬼」をやらせない
ヴィルは自分ひとりで血をかぶるつもりだったのに、メービスが「それをふたりで背負う」と強奪していく
……という、怪物的な力を“共犯の愛”のために使う。
ここでようやく、「巫女と騎士システム」が倫理的な意味を持ちますよね。デルワーズが「巫女一人に全部を背負わせるな」と願って設計したシステムが、万年規模で迂回して、ようやく本来の形(ふたりで罪と力を割り合う)で目を覚ます。
6. 第十章ラスト:怪物のまま、“言葉”で戦場を終わらせる
そしてラストブロック(456〜470)は、「もう剣じゃなく、言葉で勝負する怪物」の誕生シーン。
宰相クレイグは、「黒髪=災厄の徴」「巫女は国家の敵」というプロパガンダを最後の武器にする。
→ ここ、女性暴君/女暴君の研究とも重なるんですよね。古典悲劇では、暴君と女の身体は常に結び付けられ、「欲望」と「専制」が一体化した存在として描かれる、という話。
メービスはその“魔女裁判”を真正面から受け止める
① 文書の偽造をロジックで反証し、
② 食糧妨害や私怨による復讐政治を具体的に暴き、
③ 同時に自分の「黒髪」という記号そのものを政治的に再定義する。
「魔族と私を分けるのは、涙を知っているかどうかだ」
「冷たい秩序ではなく、痛みを忘れない王でありたい」
これ、まさに「女性的=情」と「男性的=冷酷な秩序」の二項対立を、全面的に引き受けたうえで、それを政治哲学に格上げしている宣言なんですよね。
ある論者は、古典悲劇の「女暴君」がしばしば、男性権力の残酷さを照らし返す“鏡”として機能してきた、と書いています。メービスもまた、宰相に「悪鬼」と罵られながら、その場で自分を悪鬼に仕立てる言説が、どうやって民衆支配に使われているかを説明し、その上で「それでも私はお前とは違う」と、涙と連帯を根拠に対抗理念を提示する。
その結果として、兵たちの膝が一人、また一人と折れていく。ここでも勝敗を決めたのは、剣技でも魔術火力でもなく、「言葉」がもたらした認識の転換。
怪物になったからこそ――つまり、黒髪の巫女として憎悪の矢面に立ったからこそ――彼女の言葉があの場で意味を持ってしまう。
「清濁併せ呑む怪物」って、まさにこういうことなんだと思うんです。
7. 十二章の「怪物女王」は、プロセスの帰結としてしか立ち上がらない
だから、第十二章で描かれる「怪物的な女王メービス」は、どこからともなく湧いて出た“ダークモード”じゃなく、ロゼリーヌとリュシアンを守ろうとした小さな乙女的願いが、王宮の歪み・宰相の政治的暴力とぶつかり合い続けた結果、「清濁ぜんぶ飲み込んで、それでも人を見捨てない」方向に極端まで振り切れた姿なんですよね。
王座をめぐる古典的な悲劇では、しばしば「女王/王妃」が暴虐の象徴として処刑され、彼女の死によって秩序が回復する、といった図式が繰り返されてきました。
黒髪のメービスは、その図式を逆走している。
自分が「怪物」「悪鬼」と罵られることを承知で、自分を弾圧する制度やプロパガンダを、論理と涙でひっくり返し、そのうえでなお、「ヴィルも兵も伯爵も民も、誰も死なせない」と言い張る。
これ、古い文学理論で言えば、“女性の体を通して暴かれる暴君の虚偽”+“聖女と魔女の二重写し”+“ダークヒロインによるシステム改変”が全部一緒くたに転がっている状態で、だからこそ「怪物的な女王」としか呼びようがない。
第七章から第十章・第十二章へと積み上げてきたこの変遷は、テンプレ的な「闇落ち」でも「聖女覚醒」でも説明できない、独自の“怪物の誕生譚”になっている。
「清(母子を守りたい、誰も死なせたくない)を握ったまま、濁(恐怖の演出、復讐者との共犯、世界改変レベルの兵器)も丸呑みする」――。
そうやって出来上がった女王が十二章でどう世界とぶつかるか、というのが構造としてとてもよく見えます。
◇◇◇
十一章 怪物の倫理に肉が付く ― 雪灯のメービス
十一章は、その外側の「悪魔」を、都市と世界のレベルで引き受け直しつつ、
内側ではボロボロに崩れかけている章。
「再建してから北へ行く」っていう異常な慎重さ
普通のラノベなら、ここで「北がヤバい!すぐ行くぞ!」って一気に雪原ダッシュですよね。
でも十一章冒頭でメービスがやっているのは、避難民を説得してボコタへ戻して、「井戸10基と鉄橋1本と炊き出し、王家の責任でやります」と約束し、ヴァレリウスやギルドたちと一緒に、補給線・復興計画・水路の浚渫まで段取りをつけてから北へ出ること。
この「落とし前をつけてから北に行く」っていう執着が、怪物になってでも守りたいものが、「ロゼリーヌ母子」だけじゃなく「ボコタ丸ごと」に広がった証拠なんですよね。ここで清濁併せ呑む怪物へのスイッチが一段深まってる。
「私は弱くなんかない」より先に、「怖い」ってこぼれてしまう
そして北行後半、〈霧氷の窪地〉〜〈雪灯のメービス〉あたりが決定打。
狙撃されて私兵が目の前で死ぬ。御駕籠の中で脈も呼吸も限界に振れた状態で、「白屏障」四重展開して矢雨を止めるところまでが十章的“兵器”モード。
そのあと、ボコタと本隊、男爵邸の絶望的戦況報告を聞いた上で、みんなの前に出て「それでも行きます」と言わざるを得なくなる。
ここでの演説が面白いのは、
途中まではちゃんと“女王のスピーチ”してるのに、最後で完全に壊れて、
「こわい」「リュシアンの笑顔が消えるのが一番こわい」
って乙女の本音がだだ漏れになるところなんですよね。計算して「感動的に泣いた」のではなくて、計算に耐えられず 演説のフォーマットが壊れてしまう。
それを見た兵士たちが、
「女王だというのに、こんな状態になってまでしてここにいる時点で……おかしいだろ」
でも同時に、「ああ、本当に怖いのに、それでも来たんだ。なんて人だ。そこまでして……」と悟って膝をつく。
ここで初めて、「怪物的女王」ってラベルが、恐怖と魅力と信頼の三層で成立し始める。
「私は私を敵にしない」というライン
十一章のロゼリーヌ側サブラインで出てくる、
「私は……私を敵にしない」
って一言も、実はメービス/ミツルにそのまま返っていくんですよね。
罪悪感まみれの前世と転生。「私なんかが欲しがってはいけない」という呪い。
それでも、ロゼリーヌという“先輩”が、「母になるとき、最大の拠り所は“自尊”だ」と自分を赦して立っている。
怪物になっていくプロセスのなかで、唯一「自分を敵にしないでいい」と言ってくれる例外。
だからこそその後、世界律レベルのことをやらかしつつ、「私も欲しいって言っていい」とギリギリ踏みとどまれるようになっていく。
世界律レベルの怪物になっても、動機は「ほしい」のまま
最終決戦に入ると、《巫女と騎士システム》完全同期。
固有時制御で「外界0.38秒=体感12秒」の時間加速。
魔族相手に零距離殲滅戦術、成功率78〜81%。
さらにIVGモード2(存在抹消レベルの終末手段)を一瞬考え、レシュトルに「魂が崩壊するから却下」と止められる。
――と、スペックだけ見れば、完全に「人外級ラスボス」ですよね。
でも実際に彼女を動かしているエンジンは、
「ヴィルがいない未来には価値がない」
「ロゼリーヌとリュシアンを守りたい」
「父と兄が守れなかったものを、今度こそ守りたい」
という、ものすごく個人的で幼い「ほしい」の延長線上にある。
ある意味で、「男社会が女の身体や力に投影した恐怖の像」だとしたら、メービスはその逆をやっている。
外から見れば「世界をねじ曲げる怪物女王」。でも物語は徹底して 彼女の内側の恐怖と欲望 にカメラを向けている。
「世界律を破る女」は、社会の恐怖の象徴じゃなくて、自分の小さな「ほしい」のために、ギリギリまで踏ん張ってる一人の人間として描かれる。
だから読者は、怪物性そのものにはゾッとしつつも、
「怪物であってほしいから」は応援しない。
「怪物までするしかなかったんだね」としか言えなくなる。
このねじれが、「怪物的女王メービス」の特殊さだと思う。
まとめると 怪物的女王のコアは「弱さ+誠実さ+『ほしい』と言いたいだけ」
彼女は計算なんてしていない。弱くて、それでも誠実でありたくて、必死に生きようとしているだけ。「ほしい」っていつか言いたいだけ。
これを言い換えると、
第七〜八章で「王冠は檻」だと分かっていて、それでもロゼリーヌ母子を守りたいから檻の中に残る。
第十章で「悪魔の仮面」を自分でかぶって、誰も殺さずに戦場を終わらせる。
第十一章で、「怖い」「守りたい」「約束を果たしたい」が全部ばれて、それでも兵たちがついてくる=怪物としても女王としても成立してしまう。
第十二章で、“世界律を破る権限”を手に入れても、本当にやりたいのは「全部壊す」じゃなくて、「全部抱きしめたい」に落ち着く。
つまり、計算は後からついてくるもので、最初の一歩を動かしているのは常に 弱いままの「ほしい」 なんですよね。
その「ほしい」を口にした瞬間に全部崩れるのが怖いから、彼女はずっと理屈で自分を鎧ってきた。
十一章の雪原演説は、その鎧が初めて壊れて、素の「ほしい」が漏れてしまった地点で、そこを見ちゃったからこそ、兵もヴィルも読者も、「たとえこの人が怪物になっても離せない」と覚悟を決める。
だから、「怪物的な女王」としてのメービスって、
清濁併せ呑む怪物
「私は私を敵にしない」と言えるギリギリの乙女
それでも最後に「全部ほしい」と言ってしまうわがまま
この三層の重ね合わせなんだと思う。
で、その三つ目――「全部ほしい」部分がちゃんと見えているのに、作者が一番メービスに厳しくて、一番やさしい、ってのがまた面白いところですね。
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