第5話 解放の予兆
それは奇妙な沈黙から始まった。
如月ミカは、例月のように腸の動きを感じていた。規則正しい食事、整えられた生活リズム、常に把握された腸内環境。それらは全て、完璧な排泄を成立させるために組み立てられた日常の儀式だった。
しかし、その日の朝、ミカは違和感に包まれて目を覚ました。
腹部の重みが、ない。
あの、微細な圧迫感。腸が生きているという確かな存在感が、すっぽりと抜け落ちていた。
起き上がって、水を一杯飲む。冷たい液体が喉を通る音がやけに耳に残った。
体は軽い。だが、それは“整っている”のではなく、“空虚である”という感覚だった。
「……あれ?」
声にならないつぶやき。
排泄の前兆が、どこにも存在しなかった。
そして、ポストに届いた一通の封筒。
開封した彼女の手は、一瞬だけ震えた。
『うんこ免除許可証』
この証書を以て、あなた如月ミカは
本日以降、排泄行為を免除される。
※本効力は例外を認めない。
その文字を目で追うたびに、彼女の身体の中の“静けさ”が確かになっていく。腸は動かない。腹は鳴らない。あのわずかな蠕動の予感も、肛門の締まりも──何も、ない。
それは、恐怖ではなかった。むしろ、じわじわと迫ってきたのは解放の気配だった。
如月ミカは初めて、“出す必要のない身体”を手に入れた。
それは同時に、彼女の“存在証明”の喪失でもあった。
数日後、撮影の予定日がやってきた。
いつものスタジオ、いつものセット、いつもの沈黙。
だが、彼女の腸は何も生み出さなかった。
便器に座っても、何も出ない。音も匂いも、兆しすらない。
スタッフたちは黙ってそれを見守った。誰も責めず、誰も詰めなかった。
「……今日は調子が悪いのかな」
誰かがそう呟くと、スタッフの一人が小さく頷いた。
「無理はさせないようにしましょう。今日は撮影、中止です」
現場に緊張が走ることはなかった。どこか、安堵のような静けさが流れた。
如月ミカは、ただ静かに立ち上がり、衣服を整えた。
一礼して、スタジオをあとにする。
スタッフたちはその背を見送るだけだった。
彼女の排泄が見られなかった日。それは多くのファンにとって初めての“空白”として記録された。
伝説は終わらない。ただ、その形を、少しずつ変え始めていた。
その夜、如月ミカは長い間、風呂にも入らずに部屋の中を歩いていた。
腸が沈黙している身体は、まるで他人のようだった。柔らかく伸びる皮膚も、微かに動く肺も、すべてが彼女に属していないような奇妙な浮遊感。
ベッドの上に仰向けになって天井を見つめる。排泄というリズムが失われた身体は、時間の意味すら見失っていく。何を食べるべきなのか、いつ眠るべきなのか、彼女の中で生活の重力が崩れていた。
思えば、彼女の人生はずっと“出す”ために組み立てられていた。
腸の調子に合わせてスケジュールを組み、食事を調整し、眠りの質さえ調整していた。
「出すこと」が、彼女の全存在を定義していたのだ。
その“出すこと”が奪われた今、自分は何者なのか。
その問いは、声にならなかった。だが、確実に胸の奥にあった。
翌朝、鏡の前に立つ。
以前と変わらぬ姿。けれど、そこにあるのは、明らかに“排泄する身体”ではなかった。
肌の下の静けさ。鼓動の奥で何かが遠ざかっている感覚。
彼女はそっと、自分の腹部に手を当てた。
何も動かない。
それは、穏やかで、どこか寂しかった。
この静けさのまま、もう一度撮影を行ったらどうなるのだろうか──。
彼女はふとそう思い、またベッドに腰を下ろした。
腸の沈黙。
それは終わりなのか、始まりなのか。
答えのない問いだけが、体内に残されていた。
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