18食目 ひとり立ちよるフレンチの夜(中編)
グラスを置くと、台形に切り分けられたパテと、ピクルス、マスタードがちょこんと添えられた黒い皿が、音もなく目の前に滑り込んできた。
豚ひき肉やレバーをスパイスと一緒にテリーヌ型へみっちり詰め、オーブンでじっくり火を入れる。冷やして落ち着かせてから切り分けて出す、フレンチではおなじみの前菜である。
一度、私も作ったことがある。
素人がやると、これがまあ手間のかかる料理だ。しかも、ある程度の分量で仕込まないと形にならないから、冷蔵庫の中はしばらくパテで埋まることになる(冷凍庫にスペースはない)。最初のうちはそりゃあ美味しい。だが何日も続くとさすがに飽きる。あの経験以来、パテ・ド・カンパーニュは「お店で食べるもの」と決めている。
ナイフを入れると、しっとりとした抵抗のあとに、きめ細かく詰まった断面が現れる。
肉の旨みとレバーのコクのある風味、その奥にふわりと立つスパイス。ご飯にはあまり寄り添ってくれない(と私は思う)が、パンとワインとは抜群の相性だ。これだけでグラスどころかワイン一本でも平気で空けてしまいそうな、実に罪深いワイン泥棒である。
グラスが空いてしまった。
次を注文しなければパテを食べ終わることができない。
この店は、ずっとフランスワインしか置いていない——はずだった。
ところが、ワインリストに見慣れない名前がひょっこり混ざっている。ポルトガルワインだ。
「どうしたんです?」
思わずシェフに尋ねると、彼はナイフを動かしたまま、いたずらっぽく笑った。
「方針転換です」
聞けば、営業が持ってきたポルトガルワインを試しに飲んでみたら、思った以上に美味しかったのだという。それで「フランスオンリー」の看板をそっと降ろし、さりげなくリストに混ぜてみたらしい。
「じゃあ、そのポルトガルの白をグラスでお願いします」
やはりパテ・ド・カンパーニュには、キリッとした白がよく合うと思う。
フレンチでいちばん迷うのは、料理そのものよりもワイン選びかもしれない。
私は一人で来るときは、さきほどのようにグラスワインを少しずつ頼んでいく。だが二人以上のときは、ほぼ例外なくボトルで注文する。一杯あたりの単価が、グラスとは比べものにならないくらい安くなるからだ。
ボトルなら、グラスが空くたびに「次どうしましょう」と考えなくていいのも楽だ。逆に、グラスで頼むメリットは、いろいろなワインを少しずつ試せること。
料理とワインを合わせるのは、フレンチの大きな楽しみのひとつだ。
お互いを引き立て合う組み合わせを「マリアージュ」と呼ぶのは、ご存知の方も多いだろう。マリアージュに巡り合えたときの幸せといったらないが、失敗したとしても、それはそれで経験値になる。
だからフレンチでは、ワインはもっと好きなように選んでいいのだと思う。
肉には赤、魚には白——そんなものはクソ喰らえ、である。
私の体験で言うと、白ワインに数の子を合わせたことがある。
数の子のつぶつぶが歯のあいだに入り込んだまま、キリッと酸の立った白ワインが口の中を洗い流す。その瞬間に立ち上がったのは、見事なまでの“不協和音”だった。数の子の生臭さが白ワインの力で増幅され、まるで生ゴミを口に含んだような、あの衝撃。おそらく一生忘れないだろう。
もう一つ、印象に残っている組み合わせをご紹介しよう。
鰯の塩焼きに、ポルトガルの赤ワインを合わせたときのことだ。
ふっくら、こんがりと焼けた鰯は、見るからにまるまる太っている。フォークで身をそっとすくい上げ、口へ運ぶ。脂がじゅわっと舌の上に広がり、香ばしい皮の匂いがふわりと鼻に抜けていく。
そこへ赤ワインをひと口。
鰯のような、やや臭みのある青魚に赤ワイン——常識的には「やめておいたほうがいい」組み合わせに思えるかもしれない。ところが、これが不思議と合う。脂がしっかり乗っているからなのか、しっかり焼かれた皮の香ばしさのおかげなのか。生臭さが増すどころか、ワインと鰯の旨みがさらりと溶け合って、なんとも言えない心地よい余韻を残してくれる。
実はポルトガルでは、鰯の塩焼き(サルディーニャス・アサーダス)と赤ワインは、定番の組み合わせだ。
固定観念は、案外あてにならない。気になるワインがあったら、少しくらい非常識な合わせ方でも試してみると面白い。どうしても不安なら、お店の人に相談すればいい。彼らはだいたい、そういう相談が大好きだ。たぶん。
この鰯の塩焼きと赤ワインの話をシェフとソムリエにしていたら、話題はいつの間にかシェフ特製のオイルサーディンに移った。
「じゃあ、それも一皿」と、当然のように注文してしまう。こうしてまた、ワインが進む理由が増える。
オイルサーディンには、ポルトガルの赤と白、両方をぶつけてみた。結果は、僅差で白の勝利。やはり皮をパリッと焼いてあるかどうかの差は大きいのかもしれない。
やはり料理とワインの組み合わせは面白い。
さて、パテもオイルサーディンもきれいに片づけたころ、次の皿が届く。
生野菜はドレッシングされて、葉っぱ一枚一枚がツヤツヤと照明を弾いている。その上に、こんがり焼き色のついた砂肝のコンフィ、香草の匂いをまとった仔羊のソーセージ、ほろりとほどけるリエットが、島のようにぽんぽんとのっている。
これは「メロメロサラダ」。
名前の由来になった“メリメロ”は「盛りだくさん」という意味らしいが、その言葉どおり、肉と野菜が仲良く押し合いへし合いしている。正直、この一皿だけでもかなりの満足感だ。お値段は二八〇〇円。前菜の顔をしているが、立派にメイン級のボリュームである。
野菜にかかったドレッシング。私はこの店の「酸」の使い方が大好きだ。決してツンと尖った酸っぱさではないのに、味わいの輪郭がキリッと立ち上がる。そこへ、ビーツのピクルスが鮮やかな色を添えている。
ビーツは、私の大好物のひとつだ。同じくビーツ好きのシェフとは、ここでまた話が盛り上がる。
仔羊のソーセージは、ふわりと香るスパイスと、ほんのり残った羊らしい風味が心地よい。
砂肝のコンフィは、いわゆるコリコリとした硬さはなく、かといって歯応えがないわけでもない。噛むほどに旨味がじわじわとにじみ出てきて、いつまでも口の中に置いておきたくなる。
リエットは、豚肉をほぐしてペースト状にしたものだ。
これも一度自分で作ってみたことがあるが、「なめらかに仕上げる」というのがなかなか難しい。結果として、これもまた「お店で食べる」と心に決めた料理のひとつになった。
少しずつナイフの先ですくい、パンにのせたり、そのままちびちびと舐めたりしながらワインを一口。これ以上ない「いいアテ」である。
ここで少し、フレンチのカトラリーの話をしておきたい。
この店では、ナイフとフォークが一組だけ置かれていて、それを皿ごとに使い回すスタイルだが、「フレンチ」と聞いて、テーブルにズラッとカトラリーが並んだ光景を思い浮かべる方も多いだろう。
あれは、コース料理で使うカトラリーの順番があらかじめ決まっているからだ。
基本的には「外側から順番に使っていく」がマナー。……なのだが、たまに内側から使ってしまう人もいるらしい。さらに、私の妻は真ん中のカトラリーから使ってしまい、お店の人から「珍しいですね」とくすりとされたことがある。
もっとも、それで怒られるわけでもないし、大事になるわけでもない。せいぜい、あとで夫婦の笑い話になる程度だ。
マナーで大事なのは、「人を不快にしないこと」だと思う。
カトラリーを間違えるより、店内で大声で電話している輩のほうが、よほど重大なマナー違反だろう。
(長くなったので続く!)
写真はこちらです。
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