土下座おじさんの末路

広川朔二

土下座おじさんの末路

新規オープンしたばかりのテーマパークは、開園初日から賑わいを見せていた。メディアでも大きく取り上げられ、SNSには「#○○ランド開園」などのハッシュタグが飛び交っている。どのアトラクションも長蛇の列。来場者の大半は笑顔だった。


だが、その中で一つだけ、異質な光景があった。


それは園内の中央広場近く――、人波の中で撮影された数分の映像。カメラはやや離れた場所から、ある一角をズームで捉えている。音声は途切れ途切れだが、男の怒鳴り声が断片的に記録されていた。


「――なんだその態度は!」


映像の中では、男が顔を真っ赤にして何かを叫び続けている。その前で、小柄な警備員が何度も頭を下げている。何があったのか、細部は不明だ。だが、男の怒りは止まらず、むしろ加速していった。


「土下座しろ! 今すぐだ! 客だぞ、こっちは!」


その瞬間、警備員が躊躇いながらも、膝をつき、両手を地面について深く頭を下げる。


――シャッター音。

――すすり泣き。


周囲で見守る来園者の誰かが、スマホを構えたまま「やりすぎじゃない……?」と呟いた。

それでも男は引かない。怒鳴りながら、なおも何かを言い続ける。そこへ、男の背後から一人の女性が駆け寄る。年齢からして妻だろうか。さらに小さな子供も後ろにいる。


「もうやめて! ねぇ、本当に……!」


女は男の腕を引き、頭を下げてから警備員のもとを離れようとする。男はなおも何かを言いたげだったが、渋々その場を後にした。


この一部始終が、SNSに投稿された。そして、運命の歯車が音を立てて動き始める。


「これはひどい」「胸糞悪い」「モンスタークレーマーだろこれ」

コメントは瞬く間に溢れた。まとめサイトが記事にし、テレビの情報番組が取り上げ、拡散速度は加速する。最初はぼやけていた男の顔は、数時間後には鮮明なスクリーンショットとなって拡散されていた。


ネットの“特定班”が動き出すのに、時間はかからなかった。会社の名札らしきもの、着ていたジャケットのブランド、同じ声の動画――。匿名の探偵たちが点と点を繋ぎ、あっという間に一人の男の素性が暴かれる。


名前。

職業。

住所。

過去のSNSの投稿。


そして、決定的な音声。加工され、雑音を除去された動画には、男の怒声がクリアに響いていた。


「土下座しろ!!」


誰もが知っている、あの声。あの怒鳴り声が、画面越しに突き刺さる。


そして世間は理解する。


これは、“悪”だと。


これは、“裁かれるべき”だと。


――こうして、「晒された男」の人生は、終わりの始まりを迎えた。





会社の朝礼が終わってすぐ、上司に呼び出された。


「……君、ちょっといいか」


部屋に入ると、課長と人事部長が並んで座っていた。机の上にはノートパソコンが開かれ、そこには見慣れた顔――自分が警備員を怒鳴りつける動画のサムネイルが映っていた。


「いや、これは誤解でして……」


慌てて弁明しようとした男に、人事部長はため息をついた。


「誤解? 君の声が、はっきりと聞こえてる。顔も名前も、もうネットに出てるよ」


その日の午後、男は「当面の自宅待機」を命じられた。ただし、口頭で「今後の雇用については慎重に検討する」とだけ告げられ、事実上の戦力外通告を受けた形だった。


自宅に戻ると、玄関先にゴミ袋が置かれていた。中には出前のピザが無造作に詰め込まれている。注文した覚えはない。郵便受けには、嫌がらせのビラと、いたずらの注文伝票がぎっしりと詰まっていた。


「お父さん、何したの……」


小学生の娘が不安そうな目で見ていた。数日後、娘は学校に行くのを嫌がるようになった。どうやらクラスで、「土下座おじさんの娘」と囁かれたらしい。


妻も限界だった。


「どうして、あんなことしたの……。もう普通の生活、できないよ……」


男は何も言い返せなかった。そして数日後、妻は娘を連れて実家へ帰った。


ネットではさらに“掘り返し”が進んでいた。三年前に投稿された、とあるラーメン店のレビュー。


《味はそこそこ。店員が愛想悪い。★1》


同じ筆致の口コミが、複数の店で見つかった。全て匿名。だが、一部で使われていたフレーズが炎上動画と一致したことから、「常習カスハラ男」疑惑が再燃。


「こんな客、ウチにも来ました」「この人ですよ、あの時暴れたの」

“被害者”たちがSNSで名乗りを上げ始め、男は新たな炎上の渦に巻き込まれていく。


それでも男のプライドは挫けなかった。むしろ炎上がチャンスとばかりに自分の動画配信チャンネルを開設した。「このまま黙っているわけにはいかない」と語り、事件の“真相”を語る動画をアップしたのだ。


しかし、それは逆効果だった。


動画のコメント欄は炎上した。

「被害者ヅラすんな」「謝罪の言葉もないのか」「本物のクズだな」

再生回数こそ伸びたが、そこに寄せられるのは怒りと嘲笑ばかりだった。


動画は数時間後に削除された。だが一度拡散されたものは、もう消せない。


「俺は、そんなに悪いことしたか……?」


男はスマホの画面を見つめながら呟いた。その目は赤く、しかし涙は出ていなかった。


今や“土下座おじさん”は、ネット上で完全な「悪役」だった。


面白がって二次創作をする者も現れた。イラスト、替え歌、パロディ動画。自分が「コンテンツ」にされていくのを、男はただ見つめることしかできなかった。


そしてある日、自宅のポストに一通の手紙が届く。


差出人の名は――妻だった。


「離婚届が入ってる……」


男は床に崩れ落ちた。





夜、コンビニへ行く途中、すれ違った若者たちが何かを呟いた。


「……あいつじゃね?」「土下座の」


聞こえないフリをした。足早に通り過ぎ、店に入る。商品を手に取ったまま、男は立ち尽くした。誰かが、撮っている気がした。


SNSで、自分の姿がまた拡散されている。


《土下座おじさん、近所の○○で発見!》

《まだ生きてたの草》

《目、死んでたwww》


もう何をしても、何を言っても、“おもちゃ”にされるだけだった。


転職活動も全滅だった。面接にすら辿りつけない。履歴書に目を通された時点で、SNS検索されて終わり。ネットで“悪名”がついた人間に、社会は一切のチャンスを与えない。


最初は怒りがあった。「俺だけが悪いのか?」と。次にあったのは羞恥だった。「こんな姿、誰にも見せたくない」と。そして今は、ただの無力感。


食費を削り、電気をつけずに過ごし、夜だけ出歩くようになった。


数週間後、ついにネットに“新たな炎上動画”が登場した。


ある若い男が、コンビニ店員に逆ギレして怒鳴り散らす動画だ。投稿者のコメントには《#新・土下座おじさん》《#世代交代》とタグが添えられていた。


その動画がバズった瞬間、男のスマホの通知がぱったりと止まった。


「――ああ、そういうことか……」


目立たなくなったから、もう誰も見ていない。興味を失われた“元コンテンツ”に、誰も関心など払わない。


それでも、人生は元に戻らなかった。


ふとスマホを開いた男は、自分の名前を検索してみた。関連ワードに「土下座」「離婚」「クレーマー」「無職」「顔画像」「娘 学校」――無数の烙印が並んでいる。


ネット検索のサジェストが、人間としての自分を定義している。“インターネットの記憶”は、どんな謝罪よりも、どんな努力よりも強い。


ふと、匿名掲示板に新しいスレッドが立っているのを見つけた。


【悲報】あの土下座おじさん、ついにホームレス化か!?【画像あり】


そこには、男が夜道を歩いている後ろ姿の写真が貼られていた。その服、その鞄、その猫背――自分だった。


「……誰が、撮ったんだ?」


背筋に冷たい汗が流れる。


見られている。


どこかで、誰かが、自分を見て笑っている。


男は一つの決断をした。


「全部、終わらせよう」


部屋の照明は消え、スマホの画面だけがぼんやりと顔を照らしていた。一枚の手紙が机の上に置かれる。





早朝、まだ薄暗い空の下。河川敷を散歩していた中年の女性が、ベンチに座る人影を見つけた。声をかけても返事はなかった。すぐに警察と救急が呼ばれ、ベンチに座ったまま動かない男は、病院へと運ばれていった。


身元確認のために調べられたスマートフォンには、ロックがかかっていなかった。中には、未送信のまま保存されたメモが残っていた。


「俺は悪かった。でもそれだけか?」

「怒鳴ったのは間違いだった。でも、人生を終わらせるほどのことだったか?」

「誰も話を聞かない。誰も知ろうとしない。誰も止めない。俺を晒したやつも、動画を笑ったやつも、正義を名乗ったやつも――みんな、誰かを晒す準備ができてるだけだ」

「あのとき、土下座を求めたのは俺だった。今は、世界中が、俺に“土下座”を求めてきた。もう、いいだろ。俺の人生、終わりにする」


数時間後、ニュースサイトに短い記事が上がった。


《ネットで炎上した“土下座おじさん”、都内で倒れていたところを発見 意識は戻らず》


コメント欄は、皮肉とあざけりで埋まっていた。


《あーあ、やっぱか》《誰も得してないの笑う》《もう話題にならんし、興味ないわ》


それでも、記事の下には「いいね」が二万件を超えて並んでいた。


男のSNSアカウントは、すでに凍結されていた。その名残として、かつてバズった動画と、彼の似顔絵を使ったメッセージアプリのスタンプがまだ出回っている。


子どもたちが、悪ふざけで使う。


「土下座しろよー、ほら土下座おじさーんw」


悪意も、正義も、もうそこにはなかった。ただの、ひとつの“ネタ”として。


主人公の顔も名前も、やがて忘れ去られる。けれど次の“獲物”が、すぐに見つかる。次の「怒鳴った人間」「失敗した人間」が、新たな祭りの火種になる。


群衆は止まらない。誰かの失敗で、今日も盛り上がり、今日も正義を気取る。


そしてその誰もが、次の「晒される側」になるかもしれないとは、思っていない。




一瞬の怒りが、人生を変えた。

けれど、人生を壊したのは――怒りではなく、見えない「誰かたち」だった。



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土下座おじさんの末路 広川朔二 @sakuji_h

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