秋晴れの林間学校と、吊り橋効果の誤算(わたしの)
爽やかな秋晴れの下、わたしたち1年生は林間学校に来ていました。本日のメインイベントは、豊かな自然の中を歩くハイキング。わたし、橘恋春は、事前に完璧な地図読みと体力配分計画を立て、グループの先頭を、知的なリーダーシップを発揮しながら(と自分では思っています)歩いていました。
(このルートならば、予定時刻通りに目的地に到着できるはず。他の生徒の体力も考慮し、最適なペースを維持しなければ……)
しかし、そんなわたしの完璧な計画に、予測不能な変数が紛れ込んできました。それは、早瀬蓮くんです。彼は、わたしのすぐ後ろを、なぜか鼻歌交じりの軽やかな足取りでついてきており、時折、わたしの計画とは全く関係のない、どうでもいい(とわたしには思える)話題を振ってくるのです。
「なあ、恋春ちゃん、あの鳥、なんて名前か知ってる? めっちゃ綺麗な声で鳴いてるぜ」
「……今はハイキングに集中すべきです。野鳥観察は、また別の機会に」
「えー、つれないなあ。自然を満喫するのも、林間学校の醍醐味だろ? ほら、あそこの木の実、食べられるやつかな?」
「勝手に口にしないでください! 食中毒でも起こしたらどうするのですか!」
彼の存在そのものが、わたしの集中力を著しく削いでいきます。ドクン、ドクンと、心臓が不規則なリズムを刻み始めるのを感じました。
コースの途中、大きな吊り橋が現れました。かなり年季が入っており、板はところどころ軋み、下には深い谷が見えています。高所があまり得意ではないわたしは、内心でわずかな緊張を覚えていました。
(大丈夫。これは単なる物理的な構造物。論理的に考えれば、安全基準はクリアしているはず……)
わたしが慎重に一歩を踏み出そうとした、その時。
「うわっ、これ、結構揺れるな! スリル満点じゃん!」
早瀬くんが、こともなげにわたしの横をすり抜け、わざとらしく吊り橋を揺らしながら渡り始めました。
(なっ……!? な、何をするのですか、この男は! 危険です! しかも、わたしの緊張を煽るような真似を……!)
顔から血の気が引き、同時にカッと熱が集まります。心臓が、まるで吊り橋のようにグラグラと揺れ始めました。
「こ、恋春ちゃん? 大丈夫か? 顔色悪いぜ?」
先に渡り終えた早瀬くんが、橋の向こう岸から、心配そうな(絶対に面白がっています!)顔でわたしを見下ろしてきました。
「……あなたには、関係ありません!」
わたしは強がりを言いつつも、揺れる橋と眼下の谷底に、足がすくんでしまいました。
「まあまあ、そう言わずに。ほら、俺が手、貸してやるからさ。ゆっくり来いよ」
彼は、悪びれもなく、橋の向こうから手を差し伸べてきました。その手は、力強く、そしてなぜかとても頼もしく見えてしまいます。
(て、手を貸すですって!? あなたに!? この、わたしの弱み(高所恐怖症)に付け込んで……! しかし、このままでは、グループ全体の進行が遅れてしまう……!)
わたしの論理と恐怖が、激しく衝突します。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」
わたしは声にならない絶叫を上げ、顔を真っ赤にして彼を睨みつけました!
「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! あなたのその! わたしの恐怖心を煽るような悪質な揺らし行為と! それを盾に恩着せがましく手を差し伸べるその偽善的態度は!!! この吊り橋の全長と、わたしの心拍数の上昇率を掛け合わせた数よりも、さらに絶望的に危険な死に値します!!! 今すぐその手を引っ込めなさい! さもなくば、この! ハイキング用のストック(もちろん備品です!)で!!! あなたのその! 人の弱みに付け込む不埒な思考回路を! 吊り橋の谷底よりも深い絶望へと叩き落として差し上げます!!!!!!」
涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは持っていたストックを構え、完全にパニック状態でした! 後ろに続くクラスメイトたちが、何事かとこちらを見ています!
「おっと、ストックで谷底送りとは、また新しい処刑方法だな。でも、そんなに怒るってことは、やっぱり、俺の手、握りたかったんじゃないの? 吊り橋効果ってやつ?」
早瀬くんは、わたしの剣幕にも全く動じず、むしろ楽しそうに言いました。
(つ、吊り橋効果ですって!? そ、そんな非科学的なもの、わたしが信じるとでも!? しかも、あなたと……!?)
「だ、黙りなさい!!! この、疑似科学信奉者! わたしの恐怖心を娯楽にする悪魔!」
わたしは、もはや支離滅裂な罵詈雑言を浴びせるしかありませんでした。
「はいはい、悪魔ね。光栄だな」
彼は肩をすくめると、ふっと真剣な表情になり、わたしに向かってゆっくりと歩み寄ってきました。橋の揺れが、さらにひどくなります!
「……冗談だよ。ほら、本当に危ないから、しっかり掴まれって」
彼は、わたしの目の前まで来ると、有無を言わせぬ力強さで、わたしの手をそっと握りました。彼の、大きくて、少しだけ汗ばんだ手のひらの感触が、わたしの恐怖心を、そして理性を、いとも簡単に溶かしていくのを感じました。
(……っ!?)
わたしは、何も言えず、ただただ顔を真っ赤にして、彼に手を引かれるまま、吊り橋を渡り切ってしまいました。橋を渡り終えても、彼がなかなか手を離してくれないことに、気づかないふりをしながら。
自室(林間学校の宿泊施設)に戻り、わたしは今日のハイキングでの出来事を思い返していました。あの吊り橋の恐怖、そして、彼に手を握られた時の、あの、言いようのない感覚……。わたしは鞄から例のノートを取り出します。
『早瀬くんを殺したい99の理由』
この、新たな感情の揺らぎを記録しなければ。
深呼吸を一つ。今日の、吊り橋でのパニックと、彼の(不本意ながらも)頼もしい手、そしてあの破壊的な「吊り橋効果」発言について。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#43とナンバリングしました。
理由#43:林間学校のハイキング中、吊り橋においてわたしの高所恐怖症を悪化させる行為を行い、その上で『手を貸す』という形で不必要な身体的接触を強要。さらに『吊り橋効果』などという非科学的な恋愛心理学用語を持ち出し、あたかもわたしが彼に特別な感情を抱いたかのように示唆し、精神的混乱を引き起こした罪。
……違う。これでは単なる彼の迷惑行為と、わたしの被害報告です。もっと本質的な、彼の、いざという時に見せる(かもしれない)頼もしさと、強引な優しさが、わたしの恐怖心や論理的な思考を上回り、彼に対して特別な感情(それは安心感や、もしかしたら……期待!?)を抱かせてしまう、その危険な影響力について記さなければ。わたしは書いた文章を、もはや自分の心臓の音が吊り橋の軋む音のように聞こえながら、ぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。
理由#43:彼が、吊り橋という特殊な状況下でわたしの弱点(高所恐怖症)を的確に突き、その上で手を握るという直接的な身体的接触を通じて、わたしのパニック状態を鎮静化させると同時に、彼に対する警戒心を強制的に解除させた。さらに『吊り橋効果』という言葉で、この状況が恋愛感情に繋がりかねないことを示唆し、わたしの彼への感情(殺意とは明らかに異なる何か!)を意識させ、自己の感情コントロールを著しく困難にさせた。このままでは、彼が作り出す危機的状況(あるいは、彼が救助してくれる状況)において、わたしは繰り返し彼に依存し、最終的には彼なしでは精神的な安定を保てないような、極めて脆弱で危険な関係性に陥る可能性が高い。その、吊り橋の上で芽生えた(かもしれない)甘くて危険な感情の芽を摘み取り、橘恋春としての理性的自己と精神的自立を死守するための、緊急かつ絶対的な殺害動機。……しかし、彼に手を引かれて渡った吊り橋は、なぜかそれほど怖くなかったような気もする。
……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはやトラウマティック・ボンディング(!?)レベルの重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、深く息をつきました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの心を吊り橋ごと揺さぶろうとする彼の魔の手から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。
わたしは、窓の外に広がる秋の山々を眺めました。吊り橋の上で感じた、彼の力強い手の感触が、なぜかまだ鮮明に残っています。
(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……人の弱みに付け込んで、不意に優しさを見せるなんて、反則です……!「吊り橋効果」だなんて……)
彼の、あの悪戯っぽい笑顔と、少しだけ真剣な眼差し、そしてわたしの手を握った時の、あの温かさが、忘れられません。
(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、強引な行動も、そして……時折見せる、あの計算なのか天然なのか分からない優しさも、全部全部、わたしの心を掻き乱すのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、次に彼と吊り橋を渡る機会があったら(断じてあってほしくありませんが!)、今度はもう少し冷静に、彼の手を……いえ、何でもありません! ……ばかぁーーーーーっ!!!)
結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を、プライドを、そして林間学校の貴重な体験(!?)まで滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼に手を握られたという事実に、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……特別な意味を感じ、次回の接触(!?)を意識してしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……明日のキャンプファイヤー、彼が隣に座ってきたら、どう対処すべきか、完璧なシミュレーションをしておかなければなりません! もちろん、論理的な距離を保つためにですが!
*
前回が最終回みたいなもので、ここからはオマケです。
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