罰ゲームの日曜日と、早瀬くんの部屋(と、わたしの100個目の殺意)
秋祭りの悪夢(あるいは、甘い罠)から数日後。ついに、運命の日曜日がやってきてしまいました。わたし、橘恋春は、早瀬蓮くんの部屋の前で、心臓をバクバクさせながら立ち尽くしていました。服装は……結局、一番無難で、そして彼に「可愛い」などと絶対に言われそうにない、地味な色のパンツスタイル。完璧な武装のはずです。
(こ、これが、あの屈辱的な罰ゲームの舞台……。彼の部屋に、二人きりで……。映画を観て、彼の手料理を、わたしが彼に『あーん』するなんて……! 想像するだけで
深呼吸を一つ、二つ……三つ。意を決してインターホンを押すと、すぐに「はーい」という、いつもの彼の軽やかな声が聞こえ、ドアが開きました。
「お、恋春ちゃん、時間ぴったり。よく来たな。……あれ? 今日、なんかいつもと雰囲気違う? その格好、もしかして、俺とのデートのために、ちょっと気合入れてくれたとか?」
部屋着なのでしょうか、少しラフなTシャツ姿の早瀬くんが、わたしの服装を上から下までじっくりと眺め回し、悪戯っぽい笑顔でわたしを招き入れました。
(なっ……!? き、気合ですって!? ち、違います! これは、あなたに媚びているわけでは断じてなく、あくまで罰ゲームに対する最低限の礼儀と、動きやすさを考慮した論理的な選択です! しかも、その視線は何ですか! 不躾です!)
顔にカッと熱が集まります。彼の部屋は……意外にも、片付いていました。本棚には、漫画雑誌に混じって、わたしが以前図書室で読んでいたショーペンハウアーの哲学書や、現代美術の画集が(なぜか)並んでいます。窓際には、小さな観葉植物がいくつか置かれ、部屋全体が彼のイメージとは少し異なる、穏やかで落ち着いた雰囲気に包まれていました。
(こ、この本棚……! まさか、わたしの影響……!? いえ、そんなはずはありません! きっと、たまたま興味を持っただけでしょう! それに、この部屋の雰囲気……彼の内面は、もっとカオスなはずなのに……)
「まあ、適当に座ってくれよ。映画、もう準備できてるぜ。あ、飲み物、何がいい? 俺、最近ハーブティーに凝っててさ。恋春ちゃんも好きかなって思って、カモミールとか用意してみたんだけど」
彼は、テレビの前に置かれたローソファを指さしました。そこには、クッションが二つ。……二人で座るには、少々距離が近すぎるような気がします。そして、ハーブティーですって? 彼が?
映画は、彼の予告通り、甘ったるい恋愛映画でした。わたしは、批評家のような目で観ようと努めますが、隣に座る彼の気配、時折触れ合いそうになる肩、そして彼が淹れてくれた、優しい香りのカモミールティー(これも彼の手作りなのでしょうか……美味しいのが腹立たしいです)のせいで、全く集中できません。映画の主人公たちが、不器用ながらも惹かれ合っていく様子が、なぜか、今のわたしたちの状況と重なって見えてしまい、心臓が妙なリズムを刻みます。
映画が終わり、部屋には心地よいハーブの香りと、気まずい沈黙が流れます。
「……なかなか、面白い映画だったな。特に、あのラストシーン、良かったよな。恋春ちゃんは、どう思った?」
彼は、少しだけ潤んだような瞳で(まさか、彼も感動したのですか!?)、わたしに問いかけてきました。
「……ええ、まあ、その、主人公たちの感情の機微の描写は、一定の評価に値するかもしれません。……ラストシーンの、あの、言葉にならない想いが通じ合う瞬間は……その、普遍的な感動を呼ぶ可能性は否定できませんが……」
わたしは、映画の余韻と、彼の真剣な問いかけに、しどろもどろになりながら、当たり障りのない感想を述べました。
「そっか。……じゃあ、お待ちかねの、俺の手料理タイムといくか! ちょっと待っててくれよ、腕によりをかけて作るからさ。恋春ちゃんが『美味しい』って言ってくれるようなやつ」
彼は、楽しそうに、そしてどこか誇らしげにキッチンへと向かいました。しばらくすると、食欲をそそる良い香りと、彼が鼻歌を歌うような音まで聞こえてきます。……悔しいですが、お腹が鳴りそうですし、彼の楽しそうな気配に、なぜか胸が温かくなるのを感じてしまいます。
運ばれてきたのは、彼の手作りだという、ふわふわの卵に包まれたオムライスでした。ケチャップで、可愛らしい(しかし、やはり少し歪んだ)ハートマークが描かれています。そして、その隣には、彩りの良い小さなサラダまで添えられていました。
(お、オムライス……! しかも、この不器用なハートマークは……! まるで、小学生の工作のよう……いえ、失礼ですね。しかし、意外と美味しそうですし、サラダまで……彼のイメージとは、かけ離れています……)
「ほら、恋春ちゃん。罰ゲーム、忘れてないよな? 俺が心を込めて作った、特製愛情オムライス。……『あーん』、してくれよ」
彼は、スプーンにオムライスを乗せると、期待に満ちた、そしてどこか甘えるような目で、わたしの顔をじっと見つめてきました。
(き、来ましたか……! この、最大の屈辱が……! わ、わたしが、彼に、『あーん』を……! しかも、『愛情オムライス』ですって!? なぜ、わたしがあなたに愛情を……!?)
顔が、耳が、首筋まで、マグマのように熱くなります! 心臓は、もはや破裂寸前! 視界が歪み、呼吸が荒くなります! 彼の、いつもとは違う、少し甘えたような、そして期待に満ちた眼差しが、わたしの心の壁を、いとも簡単に溶かしていくのです!
「……っ!」
わたしは、震える手でスプーンを受け取り、彼の口元へと運びました。彼の視線が、甘く、そして熱く、痛いほど突き刺さります。この数センチの距離が、永遠のように感じられました。
「……ん、うまい! さすが俺! いや、恋春ちゃんが食べさせてくれたから、特別美味いのかな?」
彼は、わたしの手からオムライスを食べると、満面の笑みを浮かべました。その笑顔は、あまりにも無邪気で、太陽のように眩しくて、そして……不覚にも、心の底から、可愛いと思ってしまったのです。
(なっ……!? わ、わたしは、今、何を……!? 彼を、可愛いと……!? ば、馬鹿な! ありえません! これは、罰ゲームによる精神的錯乱と、彼の部屋の雰囲気に当てられただけ! そうに違いありません!)
しかし、一度そう思ってしまった感情は、簡単には消えません。彼の、普段の飄々とした態度とは違う、子供のような笑顔。手作りのオムライスを美味しそうに食べる姿。そして、この、二人きりの、穏やかで、どこか甘い空気……。
(ああ、もう、ダメです……。わたしの論理も、プライドも、殺意さえも、この、訳の分からない、温かくて、苦しくて、そしてどうしようもなく惹かれてしまう感情の前では、無力です……。わたしは、彼に……彼のこの、計算なのか天然なのか分からない、でも、確実にわたしの心を揺さぶるこの存在に……)
その時、彼がふと真剣な表情になり、わたしの目をじっと見つめて、テーブル越しにわたしの手をそっと取りました。彼の、少しだけ汗ばんだ、温かい手のひらの感触が、電流のように全身を駆け巡ります。
「なあ、恋春ちゃん。……俺さ、ずっと、君のこと……」
(!?!?!?!?!?!?)
彼の言葉の続きを待つ、ほんの数秒が、永遠のように感じられました。わたしの心臓は、期待と不安で、張り裂けそうです。彼は、一体、何を……? この雰囲気、この流れ、まさか……!?
「……君のあの『早瀬くんを殺したい99の理由』のノート、やっぱり、100個目の理由、俺がロマンチックに提供しないとダメかなって思ってさ」
(……は?)
彼の口から出たのは、わたしの甘い(そしてありえない)期待を、木っ端微塵に打ち砕く、とんでもない言葉でした。
「だから、今日のこの罰ゲームも、映画も、オムライスも、全部そのための布石なんだ。恋春ちゃんが、俺への殺意を新たにして、100個目の、とびっきりドラマチックで、忘れられない理由を書き込めるように。……どう? 結構、いい線いってるだろ? 俺、君に殺されるなら、最高のシチュエーションで殺されたいんだ」
彼は、悪びれもなく、悪魔のような、しかしどこか切なげな笑みを浮かべました。
(こ、この男は……! わたしの、この、高鳴る胸の鼓動も、訳の分からない期待も、この甘い雰囲気も、全て、彼の手のひらの上で……! わたしを、弄んでいたというのですか!? 100個目の理由を提供するために、こんな手の込んだ、わたしの心をぐちゃぐちゃにするようなことを!?)
わたしの心の中で、何かが音を立てて崩れ落ち、そして、代わりに、これまでにないほどの、純粋で、強烈な、そしてどこか切ないような……言葉では言い表せない、しかし確かな熱量を持った「殺意」が、静かに、しかし激しく燃え上がりました。それは、憎しみだけではない、もっと複雑で、もっとパーソナルな、彼に向けられた、ただ一つの感情。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」
わたしは、顔を真っ赤にしたまま、しかし今度はどこか冷静な怒りをたたえて、彼を睨みつけました! 握られたままの彼の手を、逆に強く握り返していました!
「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! 早瀬蓮っ!!! あなたのその! わたしの純粋な(と錯覚させられた)感情と期待を弄び、それを自らの殺害理由提供の道具として利用するなどという、悪魔的で、計算され尽くした、あまりにも残酷で、そして……どうしようもなく、あなたのその歪んだ愛情表現(!?)に、わたしの心が完全に囚われてしまった、その全ての所業は!!! わたしのこれまでの99の殺意と、今日のこの裏切りと、そして芽生えかけてしまった(かもしれない)あなたへの特別な感情の全てを合計した、100個目の、そして最後の、最も純粋で、最も強烈な、そして最も……愛おしい(!?)殺意に値します!!! 今すぐその不埒な計画の全貌を白状しなさい! さもなくば、この! あなたが作ったオムライス(本当に、本当に美味しかったのが、心の底から腹立たしいです!)のスプーンで!!! あなたのその! 人の心を弄ぶ邪悪な心臓を! 完膚なきまでに抉り出し、ケチャップで『恋』という二文字を、永遠に消えないように刻んで、わたしのこの胸の中に、永久に保存して差し上げます!!!!!!」
涙目で、しかしその瞳には確かな決意と、そして彼への抗いきれない想いを宿し、わたしはスプーンを(もはや彼との絆を象徴する聖剣のように)構え、彼に詰め寄りました!
早瀬くんは、わたしのあまりの剣幕と、その言葉に含まれる複雑で強烈な感情に、一瞬だけ息を呑みましたが、すぐにいつもの、あの人を食ったような、それでいてどこか嬉しそうな、そしてほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、照れたような、そして愛おしむような笑みを浮かべました。
「……おっと、ついに100個目の殺意宣言、か。しかも、『愛おしい殺意』とは、最高の賛辞だな。ケチャップで『恋』の二文字も、なかなかロマンチックじゃないか。……まあ、俺の計画は、だいたいそんなところだよ。恋春ちゃんが、俺のこと、本気で殺したくなるくらい、俺のこと、意識して、考えて、そして……ほんの少しでも、好きになってくれたら、俺は、本望だ」
彼は、そう言うと、わたしの手からそっとスプーンを取り上げ、代わりに、わたしの手を、今度は両手で、優しく、しかし力強く握りました。
「で、どうなんだい、恋春ちゃん? 100個目の殺意、ちゃんとノートに書けそうか? ……それとも、その殺意の代わりに、何か別の、もっと甘くて、もっと素直な言葉を、俺に伝えてくれる気になったりした?」
彼の真っ直ぐな視線が、わたしの心の奥底まで、全てを見透かすように突き刺さります。
(こ、この男は……! 最後まで……わたしの心を……!)
わたしは、何も言えず、ただただ顔を真っ赤にして、彼の手を握り返すことしかできませんでした。ノートに記すべき100個目の理由……それは、もはや殺意という一言では到底説明できない、もっと複雑で、もっと温かくて、そしてもっと……どうしようもなく、彼への愛おしさで満ち溢れた感情なのかもしれません。
自室に戻り、わたしは机に向かいました。そして、鞄から、あのノートを取り出します。
『早瀬くんを殺したい99の理由』
……いいえ、もしかしたら、今日からは違うタイトルになるのかもしれません。
深呼吸を一つ。今日の、あの罰ゲームと、彼の告白(!?)と、そしてわたしの心に芽生えた、100個目の特別な感情について。わたしはペンを握りしめ、ノートの最後のページを開きました。そして、そこに記したのは――
理由#100:早瀬蓮が、わたしに100個目の殺意を抱かせるため、そしてわたしが彼を意識し、考え、ほんの少しでも彼を特別な存在として認識するために、この罰ゲームという名のデートを計画したから。その、あまりにも歪んでいて、不器用で、しかしどこまでも真っ直ぐな彼の想いと、それに気づかされてしまったわたしの心が、もはや彼を本気で殺すことなど到底できそうになく、むしろ、彼の隣にいる時のこの胸の高鳴りを、否定できなくなってしまったから。……そして、たぶん、わたしは、彼のことが……その……決して嫌いではない、のかもしれないから。いえ、それ以上かもしれません。認めたくはありませんが。
わたしは、ペンを置くと、ノートをバタンと力強く閉じました! 顔は、きっと茹でダコよりも赤く、頭からは湯気が出ているかもしれません! 心の中は、春の嵐どころか、観測史上最大のハリケーンが上陸し、全てをめちゃくちゃにかき回しているような状態です!
(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……どうしようもなく、わたしの全てを狂わせる、悪魔のような男です! 100個目の理由が、こんなにも曖昧で、こんなにも複雑で、こんなにも……わたしの心を占拠するようなものになるなんて、断じて、断じて認めてあげませんから!)
彼の、あの少し照れたような笑顔と、わたしの手を握った時のあの温かさが、何度打ち消そうとしても、脳裏に焼き付いて離れません! 腹立たしい! 腹立たしい! 腹立たしい!
(……早瀬くんっ! あなたのその、人を食ったような態度も! 無神経な言葉も! 強引な誘いも! そして……わたしの心を、こんなにも、こんなにも揺さぶって、最後にはこんな訳の分からない、認めたくもない感情でいっぱいにしてしまう、その全ての存在が、わたしの……わたしのっ! ああああああああああああああもうっ! 言葉にするのも忌々しい! しかし、これだけは、これだけははっきりしています! あなたは、わたしの、生涯最大の、最も理解不能で、最も腹立たしくて、そして……なぜか、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、その……今後の動向から目が離せない、超弩級の厄介物件なのですからねっ!!!)
結局、わたしは、100個目の「殺意」という名の、もはや殺意だけでは到底説明できない、早瀬くんへの抗いがたい、そして認めたくない特別な感情の存在を、無視できないどころか、全身全霊で意識せざるを得なくなってしまったのでした! この、嵐のような気持ちに、一体どう対処すればいいというのですか!? それは、まだ、この完璧な頭脳をもってしても、解明不可能な最難関問題です!
でも、一つだけ、確かなこと、いえ、確信していることがあります! それは、わたしの平穏だったはずの日常は、これからも、あの男によって、予測不能で、波乱万丈で、そして……絶対に、絶対に、退屈とは無縁の、心臓に悪い日々が続くのだろうということです!
……そして、あの忌々しいノートのタイトルは、いつの間にか、こう書き換えられていたのかもしれませんっ!
『早瀬くんを殺したい99の理由と、それでもアイツのことが気になって仕方がない、たった1つの超絶腹立たしいナニカについて!!!』
もちろん! その「ナニカ」が具体的に何なのか、このわたしが、あの男に対して、そんな非論理的な感情を認めるのは、地球が逆回転を始めるよりも、さらにありえない話ですからねっ! 絶対に! ……たぶん。
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