秋晴れの屋上と、彼の不用意な優しさという名の爆弾

澄み渡る秋晴れの昼休み。わたし、橘恋春は、教室の喧騒を避け、一人屋上へと続く階段を上っていました。屋上は普段は立ち入り禁止ですが、今日は先生の特別な許可を得て、クラスで育てている植物の水やり当番として来ていたのです。水やりを終え、心地よい秋風に吹かれながら、持参した文庫本を開こうとした、まさにその時。


「おーい、恋春ちゃーん! こんなとこで何してんのー?」


背後から、あの、わたしの平穏な時間をいとも容易く破壊する、軽やかな声。振り返ると、屋上のドアのところに、早瀬蓮くんが、なぜか弁当箱を片手に立っていました。


(なっ……!? なぜ、あなたがここに!? 屋上は立ち入り禁止のはず! しかも、その手にはお弁当……まさか、ここで昼食を取ろうとでもいうのですか!? この、わたしの聖域で!)


ドクン、と心臓が不規則に跳ねます。彼の存在そのものが、この穏やかな空間における、予測不能な嵐なのです。


「……早瀬くん。ここは原則立ち入り禁止です。それに、わたしはクラスの当番で来ているだけです。あなたは速やかにここから立ち去ってください」


わたしは努めて冷静に、しかし明確な拒絶を含ませて注意しました。


「えー、そう言わずにさ。先生に許可もらったんだぜ? 『たまには屋上で弁当食べるのもいいんじゃないか』って。恋春ちゃんも、一緒にどう? 景色いいし、気持ちいいぜ?」


彼は、悪びれもなく、わたしの隣に腰を下ろそうとします。


(きょ、許可を得たですって!? しかも、一緒にですって!? 断じてお断りです! あなたと二人きりで、こんな開放的な場所でお弁当を広げるなど、想像するだけで眩暈めまいがします!)


「結構です! わたしはもう戻りますので! あなたはごゆっくりどうぞ!」


わたしは早口でまくし立て、その場を立ち去ろうとしました。しかし――


ぐらり。


焦って立ち上がろうとしたためか、足元のわずかな段差につまずき、わたしはバランスを崩してしまいました。まずい、倒れる!と思った瞬間、


「おっと、危ない!」


早瀬くんが、素早くわたしの腕を掴み、倒れそうになった身体を支えてくれました。彼の腕が、わたしの腰に回っています。至近距離。彼の体温と、シャンプーの清潔な香りが、ダイレクトに伝わってきます。


(ひゃっ……!? さ、支えられた!? しかも、こんな……密着状態で……!? わ、わたしの腰に、彼の腕が……!?)


顔が一気に沸騰し、心臓は警鐘を乱打! 思考は完全に停止し、ただただ彼の腕の中で硬直するしかありませんでした。


「だ、大丈夫か、恋春ちゃん? 怪我はない?」


彼は、わたしの顔を覗き込みながら、心配そうな声で(しかし、その瞳の奥には、絶対に面白がっている色が浮かんでいます!)尋ねてきました。


(だ、大丈夫なわけがありません! あなたのその不用意な接触と、その近すぎる距離が、わたしの心臓に致命的なダメージを与えています!)


「は、離しなさいっ! 不潔です! あなたのような方に、気安く触れないでください!」


わたしは、震える声で彼を突き放そうとしますが、なぜか体に力が入りません。


「はいはい、不潔で結構。でも、本当に怪我してない? 顔、真っ赤だけど」


彼は、わたしの抵抗を意に介さず、さらにわたしの顔をじっと見つめてきます。


(か、顔が赤いのは、あなたのせいです! 断じて、転びそうになった動揺や、ましてやあなたに支えられたことに対する安堵などでは……!)


「……あなたには、関係ありません! もう大丈夫ですから、手を離してください!」

「うーん、でもなあ……なんか、放っておけないんだよな、恋春ちゃんって。いつも完璧そうにしてるけど、意外とドジなところあるし。俺がちゃんと見ててあげないと、危なっかしくてさ」


彼は、まるで独り言のように、しかしわたしに聞こえるように、そんなことを呟きました。


(ドジ……ですって!? 危なっかしい!? わ、わたしが!? しかも、あなたが見ていないと……!? な、何を根拠に、そんな保護者のようなことを……!)


彼のその、あまりにも自然で、そして不意打ちのような「優しさ」とも取れる言葉が、わたしの心の壁を、いとも容易く溶かしていきました。それは、いつものからかいとは違う、どこか本心からの響きのように感じられて……。


「そ、そんなことは……! わたしは常に完璧に自己管理を……!」


わたしは反論しようとしましたが、声は弱々しく、彼の言葉の衝撃から立ち直れていません。


「まあまあ。ほら、あっちのフェンスのところで、一緒に弁当食べようぜ? 今日、母ちゃんが唐揚げいっぱい作ってくれたんだ。恋春ちゃんにも、分けてあげるよ」


(か、唐揚げを分けてくれる……ですって!? あなたのお母様の手作りの……!? そ、そんな、日常的な、温かいものを、わたしに……? わたしとあなたは、ただのクラスメイトのはず……。なのに、なぜ、そんな、まるで家族か、あるいはもっと親しい間柄であるかのような、自然な振る舞いを……!?)


彼の予測不能な行動と、その言葉に含まれる無邪気な(ように見える)親切心。それが、わたしの完璧に構築された「彼との適切な距離感」を、いとも容易く破壊しようとしてきます。


「……結構です。わたしは、あなたから個人的な施しを受けるような間柄ではありません」


わたしは、動揺を隠し、あくまで彼との間に明確な一線を引こうとしました。


「えー、そんな堅苦しいこと言うなって。ただのおすそ分けだってば。ほら、恋春ちゃん、いつも一人で難しい顔して本読んでるだろ? たまにはさ、誰かと一緒に、他愛ない話でもしながら弁当食べるのも、悪くないと思うんだけどな。……特に、俺とかと」


彼は、わたしの拒絶を意に介さず、さらに踏み込んできます。そして、最後の「特に、俺とかと」という言葉に、悪戯っぽい、しかしどこか期待を込めたような響きが……。


(だ、誰かと一緒に……他愛ない話……。そ、それは、わたしが最も苦手とする、非論理的で、感情的な時間の使い方……。し、しかも、『特に、俺とかと』ですって!? なぜ、そこであなたが出てくるのですか! まるで、わたしが、あなたとそんな時間を過ごすことを望んでいるかのような……! あるいは、あなたが、わたしとそんな関係になりたいとでも言うような……!)


彼の言葉は、わたしの心の奥底にある、決して認めたくない「彼への特別な意識」や、「彼ともっと親密な関係になりたいかもしれない」という、ありえないはずの願望の芽を、的確に刺激してきました! 彼の不用意な(あるいは計算された)一言が、わたしの築き上げてきた論理の壁に、大きな亀裂を入れるのです!


顔が、カッと熱くなります。それは、単なる怒りではなく、彼に自分の心の奥を見透かされたような羞恥と、彼との間に存在するかもしれない(認めたくない!)特別な繋がりに気づかされそうになる恐怖、そして、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、彼の提案に心が揺らいでしまった自分への嫌悪感が入り混じった、複雑な熱さでした。


「そ、そんな……! わたしは、一人で静かに過ごす方が、合理的で、生産的です! あなたのような、予測不能なノイズ源と、貴重な昼休みを共有するなど、時間の無駄以外の何物でもありません!」


わたしは、必死に論理で反論しようとしますが、声は上ずり、心臓は早鐘のように打ち鳴らされています。


「ノイズ源かあ、ひどい言われようだ。でもさ、恋春ちゃん」


彼は、ふっと表情を変え、わたしの目をじっと見つめて、真剣な(ように見える)声で言いました。


「もしかして、本当は……俺と、もっと気楽に話したり、一緒に笑ったりしたいって、思ってたりしない?」


(なっ……!?!?!? わ、わたしが……彼と、もっと気楽に……笑い合いたい……ですって!? そ、そんなこと、あるはずが……! でも、もし……万が一……ほんの少しでも……!?)


彼の、あまりにも直接的で、わたしの心の最も深い部分にある、決して認めたくない、しかし否定しきれないかもしれない感情の核心を突くような言葉! それが、わたしの最後の理性のタガを、完全に吹き飛ばしました!


「~~~~っ!!!」


わたしは、声にならない絶叫を上げ、顔を真っ赤にして彼を睨みつけました!


「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! あなたのその! 立ち入り禁止区域への不法侵入と! わたしの危機的状況を利用した不必要な身体的接触と! 『危なっかしいから見ててあげる』などという傲慢極まりない保護者面づらと! 極めつけに、わたしの心の奥底にある(かもしれない)認めたくない感情を勝手に暴き立て、わたしとあなたの間に特別な(そして破滅的な!?)関係性を構築しようとするその悪魔的で、不埒で、あまりにも危険な精神攻撃は!!! この秋空に存在する全ての星々が超新星爆発を起こすよりも、さらに破滅的で取り返しのつかない死に値します!!! 今すぐその不敬な邪推を撤回し、わたしの心の内を二度と覗き込もうとしないと、この屋上の避雷針に雷が落ちる確率よりも高い確率で誓いなさい! さもなくば、この! 屋上に干してある古びた雑巾(おそらく細菌だらけです!)で!!! あなたのその! 人の心を勝手に読み解こうとする不埒な両目を! 永遠に真実が見えなくなるまで、丹念に拭き清めて差し上げます!!!!!!」


涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは近くに干してあった雑巾を指さし、完全にパニック状態でした! 遠く下の校庭から、何事かとこちらを見上げている生徒たちの気配を感じます!


「おっと、雑巾で目を拭かれるのは、ちょっと衛生的に心配だな。それに、俺と気楽に話したいって、やっぱり図星だった?」


早瀬くんは、わたしの剣幕にも全く動じず、むしろ満足そうに言いました。


「まあ、いいや。とりあえず、この唐揚げ、一口だけでも食べてみろって。美味しいから。そしたら、少しは肩の力も抜けるかもよ?」


彼は、全く懲りずに、話題を唐揚げに戻し、悪戯っぽく笑いながら、唐揚げを一つ、箸でつまんでわたしの口元へ……!


(この状況で、まだ唐揚げを!? しかも、わたしの心を抉っておきながら、この屈託のなさ……! ああ、もう、この男の思考回路は、本当に理解不能です!)


「そんなに怒るってことは、やっぱり、俺と一緒に弁当食べるの、本当はちょっと楽しみだったんじゃないの? 唐揚げ、本当に美味いぜ?」


彼は、全く懲りずに、さらにわたしの心を揺さぶるような言葉を投げかけてきました。


(た、楽しみだった、ですって!? ち、違います! 断じて……! でも、彼のお母様の唐揚げ……少しだけ、気にならないことも……ない……です……)


「だ、黙りなさい!!! この、食欲テロリスト! わたしの論理を唐揚げで買収しようとする悪徳業者!」


わたしは、もはや支離滅裂な罵詈雑言を浴びせるしかありませんでした。


「はいはい、悪徳業者ね。光栄だな」


彼は肩をすくめると、わたしをフェンス際に座らせ(いつの間に!?)、自分の弁当箱の蓋を開けました。そこには、本当に美味しそうな唐揚げが、たくさん詰まっていました。


「ほら、恋春ちゃんも。遠慮しないで。あーん、してあげようか?」


彼は、悪戯っぽく笑いながら、唐揚げを一つ、わたしの口元へ……!


(あ、あーん、ですって!?!?!?)


「~~~~っ!!!!!」


わたしは、今度こそ本当に声も出せず、ただただ顔を真っ赤にして彼を睨みつけ、そして……その唐揚げを、なぜか、反射的に、パクッと食べてしまっていました!


(……っ!? な、何をしているのですか、わたしは!? 彼の罠に、まんまと……! しかも、この唐揚げ……悔しいですが、とても、美味しい……です……!)


早瀬くんは、満足そうに、そしてとても優しく微笑みました。その笑顔は、秋晴れの空よりも、ずっとずっと眩しく感じられました。


(ああああああああもう!!! この方は!!! いったいなんなのです!!! 屋上に不法侵入し、わたしを助けたかと思えば保護者面し、手作り弁当で懐柔し、挙句の果てには『あーん』までしてきて、わたしにそれを食べさせてしまうなんて!!! 絶対に許しません……! いつか、いつか必ず、この借りは……あなたのお弁当に、わたしが作った、とてつもなく辛い何かをこっそり混ぜてお返しします!!!)


結局、わたしは、秋晴れの屋上で、早瀬くんと二人きりで(そして彼のお母様の美味しい唐揚げを分け与えられながら)、不本意な(はずの)昼食の時間を過ごすことになってしまったのです。


自室に戻り、わたしは今日の屋上での出来事を思い返していました。あの開放感、彼の不用意な優しさ、そして唐揚げの味……。わたしは鞄から例のノートを取り出します。


『早瀬くんを殺したい99の理由』


この、新たな混乱と、満たされてしまった(!?)食欲を記録しなければ。


深呼吸を一つ。今日の、秋晴れの屋上での予期せぬランチタイムと、彼の破壊的な「優しさ」攻撃、そして不覚にも美味しいと感じてしまった唐揚げについて。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#98とナンバリングしました。


理由#98:立ち入り禁止の屋上に侵入し、わたしが危機的状況(転倒)に陥った際、それを救助した上で『危なっかしいから見ててあげる』などと保護者ぶった発言をし、さらに手作りの唐揚げを分け与えるという家庭的な温情を見せることで、わたしの警戒心を麻痺させ、精神的な懐柔を試みた。最終的に『あーん』という破廉恥な行為で食事を強要し、わたしの抵抗する意思を完全に奪った罪。


……違う。これでは単なる彼の行動記録と、わたしの食欲に関する報告です。もっと本質的な、彼の計算なのか天然なのか分からない優しさと、家庭的な雰囲気が、わたしの鉄壁の論理とプライドをいとも簡単に打ち破り、彼に対して特別な感情(それは感謝や安心感、そしてほんの少しの……ときめき!?)を抱かせてしまう、その致命的な影響力について記さなければ。わたしは書いた文章を、もはや自分の心臓の音が唐揚げを揚げる音のように聞こえながら、ぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。


理由#98:彼が、日常から切り離された屋上という特殊な空間において、わたしの身体的危機を救うという状況を利用し、その上で『俺がちゃんと見ててあげないと』という保護欲を刺激する言葉と、手作り弁当の共有(特に『あーん』という行為)という、極めて個人的で家庭的な温もりを感じさせる行動を取った。これにより、わたしの論理的な思考と自己防衛本能が著しく低下し、彼に対する警戒心が、感謝、安心感、そして(断じて認めたくないが)極めて危険な親近感やときめきへと強制的に変換させられた。このままでは、彼の不用意な優しさや家庭的な一面に触れるたびに、わたしの中の彼への感情が(殺意とは正反対の方向に)エスカレートし、最終的には完全に彼の庇護と優しさの虜となり、論理もプライドも捨てて彼に依存してしまうという、致命的な自己崩壊と人間的堕落を招く危険性が極めて高い。その、秋晴れの空のように甘く澄み渡った(そして底なしの)罠から逃れ、橘恋春としての理知的自己と精神的独立を死守するための、緊急かつ絶対的な殺害動機。……しかし、あのお母様の唐揚げの隠し味は、一体何だったのだろうか。非常に興味深い。


……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや胃袋を掴まれた(そして心も!?)レベルの重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、深く息をつきました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの心を家庭料理で攻略しようとする彼の魔の手から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。


わたしは、窓の外に広がる秋の空を見上げました。屋上で感じた、あの心地よい風と、太陽の暖かさ、そして……唐揚げの味が、なぜか鮮明に蘇ってきます。


(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……人の弱みに付け込んで、優しさで懐柔してくるなんて、戦略的すぎます……!「あーん」だなんて……!)


彼の、あの悪戯っぽい笑顔と、唐揚げを差し出してきた時の、少し照れたような(ように見えた)顔が、忘れられません。


(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、強引な行動も、そして……時折見せる、あの計算なのか天然なのか分からない、破壊的な優しさも、全部全部、わたしの心を掻き乱すのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、次に彼がお弁当を広げていたら、どんなおかずが入っているのか、ほんの少しだけ……ほんの少しだけ……気になってしまいそうなのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)


結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を、プライドを、そして食欲(!?)まで滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼の不用意な優しさと、お母様の唐揚げの味に、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……心を奪われてしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……今度、お母様に唐揚げのレシピを教えてもらうよう、彼にそれとなく頼んでみるべきでしょうか。いえ、もちろん、栄養学的な観点からの学術的興味ですが!

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