合格フラグを立てたいわけではありません!
ついに、運命の追試当日がやってきました。放課後の特別教室前。わたし、橘恋春は、落ち着かない気持ちで廊下を行ったり来たりしていました。これから早瀬蓮くんが、あの悪夢のような数学の追試に臨むのです。
(大丈夫。わたしの完璧な指導計画に基づき、彼は必要な知識を叩き込まれたはず。合格ラインは超えられるはずです。……でも、もし、万が一、あの緊張感の中で、また範囲を勘違いしたり、ケアレスミスを連発したりしたら……!?)
考えれば考えるほど、不安が募ります。彼の合格は、わたしの指導の成果を証明するものであり、そして……あの、不本意極まりない(はずの)デートの約束がかかっているのですから!
(い、いえ! デートのことなど、どうでもいいのです! 問題は、わたしの指導者としての責任と、クラス全体の評価です! そう、それだけです!)
自己暗示をかけていると、廊下の向こうから、当の早瀬くんが、やけにのんびりとした足取りで歩いてくるのが見えました。
「お、恋春ちゃん。わざわざ応援に来てくれたのかい? ありがとう」
彼は、まるでピクニックにでも行くかのような、屈託のない笑顔で言いました。
(なっ……! お、応援ではありません! たまたま通りかかっただけです! それに、この期に及んで、その余裕は何なのですか!? もっと緊張感を持ってください!)
わたしは内心で叫びましたが、口から出たのは、心配を隠しきれない言葉でした。
「……早瀬くん。大丈夫なのですか? 準備は万全ですか? 範囲の再確認は? 公式の暗記は?」
矢継ぎ早に質問してしまいます。
「はは、大丈夫だって。恋春先生の地獄の特訓(!)のおかげで、頭に叩き込まれてるからさ。……たぶん」
彼は自信があるのかないのか分からない返事をし、悪戯っぽく笑います。
「たぶん、ではありません! 完璧に理解しているはずです! あなたはわたしの指導を受けたのですから!」
わたしは、なぜか彼以上に熱くなって反論してしまいました。
「そうそう、その意気だよ、恋春ちゃん。君がそう言ってくれるなら、百人力だ」
彼はポンとわたしの肩を軽く叩きました。
(ひゃっ……!? か、肩を……! 気安く触れないでください!)
ドキッとして体が強張りますが、今はそれどころではありません。
「……とにかく、全力を尽くしなさい。ケアレスミスには十分注意して。計算は最後まで丁寧に。見直しも忘れずに」
わたしは、まるで母親か何かのように、細かい注意を与えてしまいます。
「はいはい、承知しました。……なあ、恋春ちゃん」
早瀬くんは、ふと真剣な表情になりました。
「もし、僕が合格したらさ……」
(ま、またその話ですか!?)
わたしは身構えます。
彼は、わたしの反応を面白がるように、一歩近づき、わたしの耳元に顔を寄せると、囁くように言いました。
「……君への『ご褒美』、期待しちゃってもいいかな? デート、本当に楽しみにしてるからな」
(~~~~っ!!! ご、ご褒美!? わ、わたしへの!? ち、近い! 耳元でそんな……!)
彼の突然の接近と、吐息がかかるほどの距離、そして「わたしへのご褒美」という、あまりにも甘く、そして意味深な言葉! そのコンボ攻撃に、わたしの心臓は文字通り爆発寸前まで激しく高鳴り、思考は完全にショートしました! 顔から火が出るという表現では足りません! 全身が燃えているかのようです!
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」
(ご、ご褒美ってなんですか!? 誰が誰への!? わ、わたしが、あなたに……!? いえ、あなたが、わたしに……!? どっちにしても、不埒です! 破廉恥です!)
わたしは声にならない悲鳴を上げ、彼から飛びのくように後ずさりしました!
「こ、こ、こ、殺しますよっ!!! そ、そんな不純な動機と! 不必要な接近と! 破廉恥極まりない発言で試験に臨むなど、言語道断です! 今すぐその
わたしはパニック状態で、支離滅裂なことを口走りながら、近くの壁に手をついてかろうじて立っていました!
「はは、そんなに照れなくてもいいじゃないか」
彼は全く悪びれず、楽しそうに笑います。
「了解。じゃあ、頑張ってくるよ、恋春ちゃんからの『ご褒美』のために」
彼は最後の最後までわたしをからかうと、悪戯っぽくウインクし、試験教室へと入っていきました。
「だ、誰がご褒美をあげると言いましたかっ!!!」
わたしは、誰もいなくなった廊下で、一人顔を真っ赤にして叫び、その場にへなへなと崩れ落ちそうになるのを必死で堪えるしかありませんでした。
試験時間中、わたしは教室の外で、落ち着かない気持ちで待っていました。中の様子は分かりませんが、彼がわたしの教えた通りに問題を解いているか、気が気ではありません。
(大丈夫、彼はやればできる子のはず……。わたしの指導があれば……。でも、もし……)
ネガティブな思考が頭をよぎります。
長い長い試験時間が終わり、終了のチャイムが鳴りました。しばらくして、受験者たちがぞろぞろと教室から出てきます。その中に、早瀬くんの姿を見つけました。
わたしは、緊張した面持ちで彼に駆け寄ります。
「……どうでしたか?」
彼は、わたしを見ると、何とも言えない、微妙な表情を浮かべました。
「うーん……まあ、やった、かな……?」
(やった、かな……? なんという曖昧な返事ですか!? 合格できたのか、できなかったのか、はっきりしなさい!)
わたしは、彼の煮え切らない態度に、不安と苛立ちを覚えます。
「手応えは? 難しかったですか? 時間は足りましたか?」
わたしは再び質問を畳み掛けます。
「いや、問題自体は、恋春ちゃんが教えてくれたところが結構出てさ。そこは解けたと思うんだ。時間は……ギリギリだったかな」
「では、なぜそんな微妙な顔をしているのですか?」
「それがさ……最後の最後、見直ししてたら、ケアレスミス、見つけちゃってさ」
「なっ……!?」
「で、慌てて消しゴムで消して書き直そうとしたんだけど……」
「……けど?」
「……時間切れで、途中までしか書き直せなかった……。しかも、消した跡が汚くて、採点する先生、読めるかな……」
彼は、バツが悪そうに頭を掻きました。
(け、ケアレスミス!? しかも、時間切れで修正しきれなかった!? あ、ありえません! あれほど注意したのに! なんて詰めの甘い……!)
わたしは、頭がクラクラするのを感じました。わたしの完璧な指導が、彼の最後の詰めの甘さで台無しに……!?
「そ、それで、合格できそうなんですか!?」
わたしは、思わず彼の腕を掴んで問い詰めていました。
「うーん、どうだろうなあ……。あの最後の問題、配点大きかったみたいだし……。五分五分、ってところかな……?」
彼は、困ったように笑います。
(ご、五分五分……!? そんな、博打のような……! わたしの努力と、そして、あの約束(デート)の行方は、そんな不確かなものに委ねられてしまったというのですか!?)
わたしは、目の前が真っ暗になるような感覚に襲われました。力が抜け、その場にへなへなと崩れ落ちそうになります。
「あ、おい、恋春ちゃん!? 大丈夫か!?」
早瀬くんが慌ててわたしを支えます。
「……あなたのせいです……。わたしの完璧な指導計画が……」
わたしは、彼の胸に顔をうずめるような形になりながら(!)、力なく呟きました。
「ご、ごめん……! でも、まだ結果が出たわけじゃ……!」
彼は、珍しく本気で狼狽しています。
「もし……もし、不合格だったら……ただじゃおきませんから……! 覚悟しておきなさい……!」
わたしは、彼の腕の中で(!?)、怒りと不安と、そしてほんの少しの諦めが混じった声で、彼に最後の警告(?)を発するのでした。
(ああああああああもう!!! いったいどうなるのですか!? 彼の追試! そして、わたしたちの……いえ、何でもありません!!!)
自室に戻り、わたしは今日の出来事を反芻していました。追試会場前での、あの心臓に悪いやり取り。そして、試験後の彼の、あの頼りない報告……。わたしは鞄から例のノートを取り出します。
『早瀬くんを殺したい99の理由』
深呼吸を一つ。今日の、追試当日の過剰な心配と、彼の不確かな結果がもたらした精神的疲労、そしてあの「デート」の約束の宙吊り状態について記録しなければ。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#90とナンバリングしました。
理由#90:追試当日、わたしの完璧な指導にも関わらずケアレスミスと時間切れという失態を犯し、合否を不確定な状態にしたこと。これにより、わたしに多大な精神的ストレスを与え、さらに『合格したらデート』という不埒な約束の履行を宙吊りにすることで、さらなる精神的動揺を引き起こした罪。
……違う。これでは単なる結果報告と愚痴です。もっと本質的な、彼の合否が、もはやわたしの感情や今後の予定(デート!?)に直接影響を与えるほど、わたしが彼に深入りしてしまっているという、この危険な状況について記さなければ。わたしは書いた文章を、もはや祈るような気持ちでぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。
理由#90:彼の追試の合否という、本来わたしには無関係であるはずの事象に対し、わたし自身が過剰な精神的投資を行い、その結果に一喜一憂し、今後の予定(デート!?)まで左右されるという、極めて非論理的かつ依存的な精神状態に陥っている。これは、彼との関係性が、わたしの論理的判断能力を著しく低下させ、感情的なコントロールを失わせている明確な証拠である。このままでは、彼のあらゆる成功や失敗に振り回され、最終的には完全に彼中心の思考回路に陥ってしまう。その致命的な自己喪失と精神的従属を回避するための、緊急かつ絶対的な殺害動機。
……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや共依存(!?)レベルの重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、深く息をつきました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの心を支配し始めた彼の存在から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。
わたしは、カレンダーをぼんやりと見つめました。追試の結果発表は、明日……。
(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……人の気をもませるのが上手すぎる人です。合格しているのか、いないのか……)
彼の、あの微妙な表情と、「五分五分かな」と言った時の、頼りない声が、忘れられません。
(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、詰めの甘さも、そして……わたしをこんなにもヤキモキさせる存在そのものも、全部全部、腹立たしいのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、明日、彼が合格していることを、心の底から……ほんの少しだけ……願ってしまっているのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)
結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を、期待を、そして明日の結果発表への不安まで掻き乱され、そして……どうしようもなく、彼の追試の合否と、その先にある(かもしれない)デートの約束に、完全に心を囚われてしまっている自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……明日、もし合格していたら、どんな顔をして彼に「おめでとう」と(そしてデートの件は断固拒否すると)言えばいいのでしょうか……!
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