論理を超えた約束、不本意な(はずの)約束

追試から数日後。ついに、運命の結果発表の日がやってきました。放課後、指定された掲示板の前には、追試を受けた生徒たちが集まり、自分の番号と結果を確認しています。安堵の声を上げる者、静かに肩を落とす者、悲喜こもごもの光景が繰り広げられていました。


わたし、橘恋春は、少し離れた場所から、その様子を窺っていました。心臓が、自分のテスト結果を見る時以上に、ドキドキと音を立てています。早瀬蓮くんの結果が、気になって仕方がないのです。


(彼が合格していれば、わたしの指導は成功したことになります。そして……あの、不本意な約束が、現実のものとなる……。もし、不合格なら……わたしの責任問題と、夏休みの補習計画が……。どちらに転んでも、問題です!)


わたしは、複雑な気持ちで掲示板を見つめます。早瀬くんの姿は、まだ見当たりません。


「お、恋春ちゃん。やっぱり来てたんだ」


不意に、背後から軽い声がかかりました。振り返ると、そこには、なぜかやけに落ち着いた表情の早瀬くんが立っていました。


(なっ……! いつの間に……! しかも、その余裕は何なのですか!? 結果を見たのですか!?)

「……結果は、どうだったのですか?」


わたしは、平静を装いつつも、声がわずかに震えるのを抑えきれませんでした。


「まあ、見てのお楽しみってことで」


彼は悪戯っぽく笑うと、わたしを促すように掲示板へと歩き出しました。


(な、なんです、その態度は! 早く結果を教えなさい!)


わたしは苛立ちを覚えながらも、彼の後に続いて掲示板へと近づきます。心臓の鼓動が、さらに速くなるのを感じました。


合格者の番号一覧。数学の欄。わたしの視線が、必死に彼の受験番号を探します。……あった!


そして、その横にはっきりと記された文字は――


『 合 格 』


…………。


(ご、合格……! しましたか……! よかった……いえ、よくありません! これで、あの約束が……!)


安堵の気持ちと、これから起こるであろう事態への恐怖(?)が、同時にわたしの心を襲います。思考が完全に停止し、わたしは掲示板の前で立ち尽くしてしまいました。


「……というわけで」


隣で結果を確認し終えた早瀬くんが、満面の笑みでわたしに向き直りました。その笑顔は、達成感と、そして何か別の期待に満ちているように見えます。


「恋春先生の素晴らしいご指導のおかげで、無事、赤点回避、追試合格いたしました! 本当に、ありがとう!」


彼は、深々と頭を下げました。


「……い、いえ。あなたの努力の結果です。わたしは、ほんの少し手助けをしただけで……」


わたしは、顔を赤らめながら、かろうじてそう答えました。彼の素直な感謝の言葉に、胸が少し温かくなるのを感じてしまいます。


「いやいや、恋春ちゃんの指導がなかったら、絶対に無理だったって。マジで感謝してるんだ」


彼は顔を上げると、真剣な眼差しでわたしを見つめました。


「だからさ、約束、覚えてるよな?」


(や、やはり来ましたか……! この話題が!)


わたしはゴクリと息を呑み、身構えます。


「僕とのデート。ちゃんと、実行してもらうからね?」


彼は、有無を言わせぬ口調で、しかしその瞳は楽しそうに輝いています。


(じ、実行!? そ、そんな、まるで義務かのように……! いえ、状況的にはそうかもしれませんが!)


「そ、それは……! あの時の約束は、あくまで、その場の勢いというか……!」


わたしは、必死に抵抗を試みます。


「えー? 勢いだったのか? 僕はてっきり、恋春ちゃんも、僕の合格を願ってくれてて、合格したら一緒にお祝いしてくれるものだとばかり……」


彼は、わざとらしく肩を落とし、悲しそうな子犬のような目でわたしを見つめてきました。


(ぐっ……! そ、そんな目で見ないでください……! わたしだって、合格してほしいとは、ほんの少しだけ、思っていましたが……! でも、デートは……!)


彼のその表情に、わたしの心は激しく揺さぶられます。ここで断ったら、彼を傷つけてしまう……? いえ、でも!


「だ、だからといって、デートなどという、非論理的な……!」

「じゃあ、論理的なお礼って、何?」


彼は、すかさず切り返してきました。


「恋春ちゃんが納得できる、僕からの最大限の感謝の表現って、デート以外に何かある? 難しい哲学書でもプレゼントすればいい? それとも、僕の数学のノート、全部書き写して献上するとか?」


彼は、畳み掛けるように、しかしどこか楽しげに続けます。


(て、哲学書!? ノートの献上!? そ、そんなもの、もらっても困ります! それよりは、まだ……)


わたしの思考が、彼の誘導によって、おかしな方向へ流れ始めていることに気づき、ハッとしました!


「~~~~っ!!!」


わたしは声にならない悲鳴を上げ、顔を真っ赤にして彼を睨みつけました!


「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! あなたのその! 合格した途端に態度を変え、恩を着せてデートを強要するその厚顔無恥さと! 詭弁きべんを弄してわたしを言いくるめようとするその悪辣あくらつな交渉術は!!! 万死、億死、兆死、京死、那由他、阿僧祇、不可説不可説転、この学校の全生徒のテストの合計点数に匹敵する絶望死に値します!!! 今すぐその不埒な要求を撤回しなさい! さもなくば、この! 合格発表の掲示板(もちろん掲示物です!)で!!! あなたのその! 軽薄な存在証明を! 物理的に抹消して差し上げます!!!!!!」


涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは掲示板(もちろん触れませんが!)を指さし、完全にパニック状態で叫んでいました! 周囲の生徒たちが、「また始まった……」という顔で遠巻きに見ています!


「おっと、掲示物破損はまずいって」


早瀬くんは、わたしの剣幕を楽しみながら、余裕綽々よゆうしゃくしゃくで言いました。


「まあ、そんなに嫌なら仕方ないけどさ。せっかく合格したのになあ。誰かさんのおかげなのに」


彼は、わざとらしく溜息をついてみせます。


(うっ……! そ、そんな言い方……! わたしの指導がなければ、合格できなかったのは事実……。なのに、ここで断るのは、あまりにも……)


罪悪感と、ほんの少しの達成感(?)と、そして言いようのない悔しさが、わたしの中で渦巻きます。


「……っ! わ、分かりました! 行きます! 行けばいいのでしょう!」


わたしは、半ばヤケになって叫びました。顔はきっと、茹でダコのように真っ赤になっているはずです。


「本当!? やった!」


早瀬くんは、パッと表情を輝かせ、ガッツポーズをしました。その、あまりにも嬉しそうな顔を見て、わたしはさらに顔が熱くなるのを感じました。


「た、ただし! これはあくまで、あなたの追試合格に対する、指導者としての当然の祝福行為であり、断じて個人的な感情に基づくものではありません! そして、場所と時間はわたしが指定します! あなたに主導権は渡しませんから!」


わたしは、最後の抵抗として、精一杯の条件を付け加えました。


「はいはい、承知しました。場所と時間、楽しみにしてるよ」


彼は、わたしの条件をあっさりと受け入れ、満足そうに笑いました。


(ああああああああもう!!! 結局、彼の思うつぼではありませんか!!! わたしは、またしても彼のペースに……!!!)


わたしは、内心で絶叫しながらも、合格した彼への(ほんの少しの)祝福の気持ちと、これから決まる(であろう)デートへの(断じてないはずの)期待感との間で、激しく揺れ動くしかありませんでした。


自室に戻り、わたしは今日の出来事を思い返していました。彼の合格、そして、結ばれてしまったデートの約束……。わたしは鞄から例のノートを取り出します。


『早瀬くんを殺したい99の理由』。


深呼吸を一つ。今日の、結果発表の緊張と、彼の合格(それは喜ばしいはずなのに!)、そして最終的にデートを受け入れてしまった自己矛盾について記録しなければ。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#91とナンバリングしました。


理由#91:追試に合格したことを盾に、以前からの不当な要求(デート)を再度提示。わたしの罪悪感と責任感、そして(僅かな)達成感(!?)に付け込み、最終的にデートの約束を承諾させた、極めて計画的かつ悪質な心理操作を行った罪。


……違う。これでは単なる彼の策略の記録です。もっと本質的な、彼の成功(合格)を自分のことのように喜び、その結果として彼との個人的な関係性の進展(デート)を受け入れてしまった、わたしの非論理的な感情の動きと、それに伴う自己制御の喪失について記さなければ。わたしは書いた文章を、もはや自分の感情の複雑さに眩暈めまいを感じながら、ぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。


理由#91:彼の追試合格という結果に対し、指導者としての達成感と安堵感、そして個人的な喜び(!?)が、彼とのデートに対する抵抗感を上回ってしまい、最終的に自ら約束を受け入れるという、完全に非論理的な判断を下してしまった。これは、彼との関係性が、わたしの合理的な思考プロセスを著しく歪め、感情に基づいた行動を優先させてしまう危険な兆候である。このままでは、彼の喜びも悲しみも共有し、あらゆる要求を受け入れ、最終的には公私ともに彼と不可分な存在(パートナー!? 夫婦!?)となってしまう。その致命的な感情移入と、それに伴う個としての境界線の消失を阻止するための、緊急かつ絶対的な殺害動機。


……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや自己同一性の危機に関わる重大な脅威を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、深く息をつきました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの心を溶かし始めた彼の存在から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。


わたしは、机のカレンダーを見つめました。デートは……いつにしましょうか。場所は……。


(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……人の感情を操るのが上手すぎる人です。あんなに嬉しそうな顔をするなんて……反則です)


彼の、あの合格を知った時の、心からの(ように見えた)笑顔が、忘れられません。


(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、詰めの甘さも、そして……時折見せる素直な喜びや感謝の表情も、全部全部、わたしの心を掻き乱すのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、デートの場所を、彼が少しでも喜びそうな場所を、ほんの少しだけ……ほんの少しだけ……考えてしまっているのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)


結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を、理性を、そして(これから決める)週末の予定まで滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼の合格を喜び、そして彼とのデートの約束に、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……心を躍らせてしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……まずは、デートにふさわしい場所と時間を、論理的かつ客観的に選定しなければなりません! あくまで、祝福行為の一環としてですが!

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