図書室の返却期限と、紛失騒動のお礼デート?
放課後の図書室。静寂が支配するこの空間は、知の探求にいそしむわたし、橘恋春にとって、最も好ましい環境の一つです。今日は、先日借りた難解な哲学書と、もう一冊、気分転換用に借りた人気のミステリー小説の返却期限日。完璧なスケジュール管理に基づき、わたしはカウンターへと向かいました。
カウンターには、同学年の図書委員の女子生徒が座っていました。
「……返却をお願いします」
わたしは努めて冷静に、哲学書だけを差し出しました。なぜなら――
(ない……! やはり、ない!)
昼休みからずっと探しているのです。あのミステリー小説が、どこにも見当たらないのです! カバンの中も、机の中も、立ち寄った可能性のある場所も探しましたが、影も形もありません。
(まさか……紛失!? わたしが、図書館の本を!? ありえません! これは悪夢です!)
顔から血の気が引き、指先が冷たくなっていくのを感じます。弁償はもちろんですが、それ以上に、わたしの完璧な記録に「紛失」という最大の汚点が残ってしまう……!
「橘さん、あの……もう一冊、ミステリー小説も今日が返却期限日ですが……」
図書委員の生徒が、データを確認して尋ねてきます。
「……っ! そ、それは……その……」
言葉に詰まります。紛失したかもしれない、などと、どうして言えるでしょう。
「もしかして、忘れちゃいましたか? その本、予約が5件も入っていて……」
彼女は申し訳なさそうに付け加えます。
(予約5件……! 紛失となれば、多くの方にご迷惑をおかけすることに……!)
罪悪感と焦燥感、そして絶望感で、目の前が暗くなりそうです。どうすれば……。わたしが青ざめて立ち尽くしていると、
「よお、恋春ちゃん。こんなとこで幽霊みたいになって、どうしたんだい?」
最悪のタイミングで、早瀬蓮くんが現れました。彼は、何食わぬ顔でわたしの隣に立つと、カウンターの上の哲学書と、わたしの顔色を見比べました。
(なっ……!? なぜあなたがここに!? しかも、この状況で……!)
ドクン、と心臓が嫌な音を立てます。この失態だけは、彼に知られたくありませんでした。
「……あなたには関係ありません」
わたしは彼を睨みつけました。
「ふーん? でも、顔真っ青だぜ? まさかとは思うけど……」
彼は芝居がかった様子で辺りを見回すと、自分のカバンから、一冊の本を取り出しました。
(!!!!!!)
それは、わたしが血眼になって探していた、あのミステリー小説でした!
「これ、さっき中庭のベンチに落ちてたんだけど。もしかして、恋春ちゃんのじゃない?」
彼は、こともなげに、その本をわたしに差し出しました。
(な、な、なぜ!? 中庭のベンチ!? 確かに、昼休みに少しだけ……! ああ、神様……! いえ、早瀬くん……!)
わたしは、安堵と衝撃で言葉を失い、ただ震える手でその本を受け取りました。もし彼が見つけてくれなかったら……考えただけで恐ろしくなります。
「……あ、ありがとうございます……」
かろうじて、それだけ言うのが精一杯でした。
「どういたしまして。いやー、でも本当に見つかってよかったよ。恋春ちゃんがあんなに真っ青になってるの、初めて見たからさ。僕まで焦っちゃったよ」
彼は少しだけ、本気で心配していたような表情を見せました。
「ご、……ご迷惑をおかけしました」
わたしは顔を赤らめながら、俯きました。
「ううん、気にしないで。それよりさ、せっかく本も見つかったことだし、お祝い(?)に、今度の日曜日、一緒に出かけない? 図書館でもいいし、映画でもいいし。今日の埋め合わせってことでさ」
彼はすぐにいつもの悪戯っぽい笑顔に戻って、提案してきました。
(う、埋め合わせ!? 別に、あなたは何も悪くありません! お祝い!? 何のですか!? しかも、日曜日!? デート!?)
「な、なぜわたしがあなたとそのような……!」
わたしは混乱しながら反論しようとしました。
「まあまあ、そういうことにしといてよ。僕が見つけた『ご褒美』ってことで、どう?」
彼は悪びれもなく、さらに畳み掛けてきます。
ご褒美ですって!? あなたへの!? わたしが付き合うことが!? そ、そんな……! しかも、図書館か、映画……!? 彼と、二人で……!?
瞬間、わたしの思考回路は完全に焼き切れ、脳内には、休日の映画館で、隣同士に座り、暗闇の中で不意に彼の手が触れてしまい、心臓が飛び出しそうになる……そんな、ありえないはずの、しかし妙に具体的で心臓に悪いシチュエーションがフラッシュバックしました!
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」
わたしは声にならない絶叫を上げ、近くにあった返却されたばかりの厚い専門書(もちろん他の方のです!)を掴み、彼に向かって振り上げました!
「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! あなたのその! 恩着せがましい(結局は!)態度と! 不純な動機(!?)によるお誘いと! その『図書館デートか映画デート』などという破廉恥極まりない二択の要求は!!! もはや光速でも到達不可能な宇宙の果てでの孤独死に匹敵する死に値します!!! 今すぐそのふざけた提案を撤回しなさい! さもなくば、この! 専門書(鈍器)で!!! あなたのその! 軽薄な思考回路を! 永久にフリーズさせて差し上げます!!!!!!」
涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは専門書を振り回し、完全にパニック状態でした。ちょうどその時、閉館時間を知らせるチャイムが鳴り響きました。
「おっと、タイムアップみたいだね」早瀬くんは、わたしの剣幕にも全く動じず、飄々と言いました。「まあ、デートの件は、今日のお礼ってことでさ。強制じゃないよ。……でも、来てくれたら、嬉しいかな」
彼は最後に、ほんの少しだけ、声のトーンを落として付け加えました。
(き、来てくれたら、嬉しい……ですって……!?)
その一言が、わたしの怒りの炎を一瞬で吹き消し、代わりに心臓を甘く締め付けました。
「……っ!」
わたしは唇を強く噛み締めます。悔しい。腹立たしい。けれど、彼の最後の言葉に、抗えない何かを感じてしまうのです。お礼は……しなければならないのは事実ですし……。
「というわけで」
彼は悪戯が成功した子供のように笑います。
「本日の『専門書による思考フリーズ計画』は、残念ながら時間切れ。さ、早く本、返却しないと。日曜日のこと、楽しみにしてるから」
彼は悪びれもなくウインクすると、自分が借りる本の手続きを済ませ、先に図書室を出ていきました。わたしと、呆然とする図書委員の生徒を残して。
「なっ……!!!」
もう、言葉も出ません。沸騰した頭と真っ赤な顔のまま、専門書を(元の場所に戻しながら)握りしめ、わたしは彼の後ろ姿を見送ることしかできませんでした。図書委員の生徒の「あ、あの、橘さん、返却手続き……」という声で、ようやく我に返ったのです。
(ああああああああもう!!! この方は!!! いったいなんなのです!!! 人の最大の失態を救ったかと思えば、そのお礼と称してデート(!?)に誘い、最後には期待させるようなことを!!! 絶対に許しません……! いつか、いつか必ず、この借りは……あなたが将来観るであろう全ての映画のエンドロールに、わたしの名前を(呪いの言葉と共に)追加してお返しします!!!)
結局、わたしは、彼によって最大の危機を回避できたものの、代わりに週末のデート(!?)の約束を取り付けられてしまったのです。これも全て、わたしの紛失未遂という、ありえないミスから始まったこと……。
自室に戻り、わたしは机に向かうと、鞄から例のノートを取り出しました。『早瀬くんを殺したい99の理由』。この混乱と安堵、そして不本意な(はずの)約束を記録しなければ。
深呼吸を一つ。今日の、図書室での失態と、そこから生まれた奇妙な貸し借り関係、そしてあの「図書館デートか映画デート」という名の罠について。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#81とナンバリングしました。
理由#81:わたしが図書を紛失しかけるという致命的な失態を犯した際、それを発見・救済し、そのお礼という名目で『図書館デートか映画デート』を要求。さらに『嬉しいかな』『楽しみにしてる』という言葉で、それが単なるお礼以上の意味を持つかのように示唆し、わたしの罪悪感と安堵感に巧みに付け込み、断りきれない状況を作り出した罪。
……違う。これでは、彼の行動とわたしの感情を記録しただけです。もっと本質的な、わたしの完璧主義という弱点を突かれ、彼の助けを受け入れざるを得ず、その結果として彼との個人的な時間(デート)に繋がってしまう、彼の恐るべき人心掌握術と、それに抗えないわたしの心の脆さについて記さなければ。わたしは書いた文章を、深い溜息と共にごしごしと線で消し、改めてペンを走らせました。
理由#81:彼が、わたしの完璧主義者としての最大の弱点(失敗の露呈、他者への迷惑)を正確に見抜き、それを救済するという形で心理的な『貸し』を作り、その返済(お礼)として『デート』という個人的接触を要求した。さらに、期待を抱かせる言葉で精神的な揺さぶりをかけ、あたかも自然な流れであるかのように装いながら、実質的にわたしを彼の望む週末の予定に組み込もうとした。このままでは、彼に作られた『貸し』を口実に、今後も様々な形で個人的な接触を求められ、最終的には完全に彼のペースに巻き込まれ、彼の望むままに行動してしまうような、主体性のない存在になる危険性が極めて高い。その自由意志と尊厳を守るための、緊急かつ絶対的な殺害動機。
……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや精神的隷属に関わる重大な脅威を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、静かに息をつきました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの自由を奪いかねない関係性から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。
わたしは、カレンダーの日曜日の日付を、ぼんやりと見つめました。胸のドキドキは、まだ少しも収まっていません。
(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……人の弱みに付け込むのが上手すぎる人です。「来てくれたら、嬉しいかな」だなんて……)
彼の、あの少しだけトーンを落とした声と、悪戯っぽい笑顔が、脳裏に焼き付いて離れません。
(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、強引なお誘いも、全部全部、腹立たしいのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、日曜日、図書館と映画館、どちらがお礼としてより適切か、なんて、ほんの少しだけ……ほんの少しだけ……真剣に悩んでしまっているのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)
結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を、プライドを、そして週末の予定まで滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼との「お礼」という名のデートに、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……危険な好奇心と、抗いがたい期待を抱いてしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……日曜日、彼にきちんとお礼を述べると同時に、二度とこのようなことがないよう、厳重に抗議しなければなりません! もちろん、それが主目的ですが!
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