予測される心拍数異常による生命維持限界と、週末デートの予約

放課後の教室。生徒たちのほとんどが帰り支度を終え、がらんとしていました。窓から差し込む西日が、机や床に長い影を落としています。わたし、橘恋春はペンを置き、意を決したように早瀬蓮くんの席へと向かいました。彼は窓の外を眺めて、どこかぼんやりしているようです。


(大丈夫、これはあくまで客観的なデータに基づいた予測。決してわたしの個人的な感情などでは……!)


「早瀬くん。少々よろしいでしょうか。あなたに、極めて重要な警告をしなければなりません」


わたしは努めて冷静に、しかし有無を言わせぬ真剣さで切り出しました。


「ん? 恋春ちゃん、どうしたの? そんな真剣な顔して」


早瀬くんは、少し驚いたようにこちらを振り返ります。


(お、今日はどんな可愛い警告かな?)……などと、きっと彼は考えているのでしょう。甘く見ないでいただきたい。


「真剣です。これは、あなたの生命、いえ……わたしの生命に関わる重大な問題なのです」

「え!? 恋春ちゃんの生命に? だ、大丈夫なの!?」


彼は少し大げさに目を見開いてみせます。本気で心配しているようには見えません。


「現状、わたしは大丈夫です。しかし、このままの状態が続けば、わたしはあなたを殺してしまいそうです」


わたしはきっぱりと告げました。


「えええ!? お、僕が殺されちゃうの!? 何かしたっけ!?」


彼は素で驚いているようです。


「言葉を最後まで聞きなさい。正確には、あなたのせいで、わたしが死んでしまう可能性が極めて高く、その結果、わたしが死の間際に、あなたを殺してしまった、という状況になりかねない、ということです」


「……???」


早瀬くんは小首を傾げ、わざとらしく理解できない、という表情を浮かべました。


「説明します。最近、わたしは自己のバイタル……いえ、身体的変化について注意深く観察しているのですが、特筆すべき異常が検出されているのです。特に、あなたの半径およそ3メートル以内にわたしが存在する場合、わたしの心拍数が平常時を大幅に上回り、動悸や息切れといった自覚症状を伴うという現象が頻発しています」

「へえー、僕が近くにいると、恋春ちゃん、ドキドキしちゃうんだ?」


彼はやはり、からかうように、しかし的確に核心を突いてきました。


「ど、ドキドキ、などという曖昧な表現ではありません! これは医学的に見ても看過できない身体反応です! さらに問題なのは、その反応の強度が日を追うごとに顕著になっている点です。この傾向を元に、簡単な予測モデルを立ててみた結果……」


わたしは手元の学習用ノートを開き、自身で計算した簡易的なグラフを示しました。


「……このままのペースであなたとの接触、すなわち心拍数上昇イベントが続いた場合、推定28日後には、わたしの心臓は限界負荷を超え、最悪の場合、機能停止に至る可能性が極めて高いと算出されました」

「に、28日後に恋春ちゃんの心臓がストップ!?」

「ええ。そして、その直接的な原因は、紛れもなく『あなた』という存在からもたらされる、この異常な心拍数の上昇です。そうなった場合、わたしは死の間際に、その原因であるあなたを……無意識のうちにでも、強い敵意を持って排除しようとしてしまうかもしれない。あるいは、わたしの死を知った第三者が、あなたを何らかの形で糾弾する可能性も否定できません。ですから、そうなる前に……つまり、わたしが死んでしまう前に、あなたを殺してしまいそうなのです。これは予防的措置、自己防衛の本能と言っても過言ではありません!」


わたしはあくまで冷静に、論理的な危険予測として語りました。しかし、彼を見つめる瞳は自分でも分かるほど真剣で、わずかに潤んでいるかもしれません。顔も少し熱い気がします。


「なるほどなあ……。つまり、僕が恋春ちゃんをドキドキさせすぎると、恋春ちゃんの心臓がもたなくなって、結果的に僕が殺されちゃうかもしれない、ってこと?」

「……まあ、概ねそういうことです」

「それは大変だ! いやー、恋春ちゃんに殺されるのは光栄だけど、その前に心臓停止で死なれちゃったら、ちょっと後味悪いしなあ」


彼はさらりと、しかし核心を突くような言葉を返してきました。


「なっ……! こ、光栄だとか、後味が悪いとか……! そ、そういう問題ではなく、これは客観的なリスク管理の話で……!」

「でも、原因は僕が恋春ちゃんをドキドキさせちゃうことなんだろ? じゃあさ、その『ドキドキ』に恋春ちゃんの心臓を慣らしていく、っていうのはどうかな?」

「慣らす……? どうやって……?」

「つまり、もっと僕と一緒にいて、ドキドキする状況に少しずつ慣れていくんだよ。いわゆる暴露療法? ってやつ? いきなり心臓が止まるんじゃなくて、徐々にドキドキへの耐性をつけていく、みたいな」

「ば、馬鹿なことを! そんな非科学的な……! むしろ、接触頻度を減らすべきでは……」

「でも、接触を減らしたら、たまに会った時のドキドキが余計に強くなっちゃうかもよ? それこそ危険じゃない? 定期的に、適度なドキドキを経験して、心臓を鍛えるんだよ!」


彼は妙に自信満々に言い切りました。


(ぐぬぬ……彼の言うことにも、一理……なくもない……? いや、詭弁です! 詭弁のはずなのに……!)


「というわけで、恋春ちゃんの心臓リハビリ計画、第一弾としてさ」

「は、はあ……?」

「今週末、一緒に出かけない? 例えば、映画とか。 暗い中で隣に座ったら、結構ドキドキすると思うんだ。初期の負荷としてはちょうどいいんじゃないかな?」

「え……? 映画……? 彼と、二人で……? し、心臓リハビリ……? そ、それは確かに、効果的な負荷実験に……なる、のでしょうか……?」

「どうかな? 恋春ちゃんの生命維持のためにも、ぜひ検討してほしいんだけど」


彼は悪戯っぽい光を宿しつつも、どこか真剣な眼差しでわたしを見つめます。

彼の真剣な(ように見える)眼差しと、「生命維持のため」という大義名分に、抗えないものを感じてしまいます……。


「……………わ、分かりました……。そこまで言うのなら、あなたの提案する『心臓リハビリ』に、協力してあげましょう……」


声が、自分でも驚くほど小さくなってしまいました。


「本当!? よかったー! じゃあ、決まりね! 詳細はまた連絡するよ」


早瀬くんは、パッと表情を輝かせ、嬉しそうに笑いました。


「い、言っておきますが、これはあくまで! わたしの生命を守るための、やむを得ない措置ですからね! 決して、あなたと映画に行きたいわけでは……! それに、もしリハビリ中に心拍数が危険域に達したら、その場であなたを無力化して計画を中断しますからね!」


わたしは顔を真っ赤にして、必死に付け加えました。凶器は……その時考えましょう!

早瀬くんは、くすくすと笑いながら、


「はいはい、承知しました。光栄だなあ、恋春ちゃんに無力化されるかもしれないなんて。それだけ僕のこと、意識してくれてるってことだもんね」


早瀬くんはわざと聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟きました。


「なっ……!? 何か言いましたか!?」

「んーん、なんでもないよ! いやー、週末が楽しみだなー!」


早瀬くんは上機嫌で鼻歌まじりに帰り支度を始めました。


(くっ……また彼のペースに……! でも、これは必要なこと……わたしの生命維持のため……断じて、彼と映画に行けるのが嬉しいなんて、そんなこと、微塵も……!)


わたしは、自分の提案が受け入れられた(?)ことに内心で混乱しつつも、週末の「心臓リハビリ」のことを考えると、すでに心拍数が上がり始めているのを感じ、一人で顔を赤くしていました。


自室に戻り、わたしは学習ノートの最後のページを開きました。『早瀬くんを殺したい99の理由』。この感情の嵐を鎮めるには、記録するしかありません。


深呼吸を一つ。今日予測された生命の危機と、その対策として(不本意ながら)決定された週末の計画、そしてそれに伴う心の動揺を記録しなければ。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#75とナンバリングしました。


理由#75:わたしの心拍数異常の原因が彼にあると警告したところ、それを逆手に取り『暴露療法』と称して週末の映画デート(!?)を強要。さらに『意識してくれてる』などと発言し、あたかもわたしの好意が原因であるかのように仄めかし、精神的混乱を引き起こした罪。


……違う。これでは彼の罪状とデートの約束を記録しただけです。もっと本質的な、彼の存在がわたしの生命維持システムそのものを脅かし、あろうことかその対策として彼との接触(デート)を肯定せざるを得ないという、この矛盾した状況の危険性について記さなければ。わたしは書いた文章を、もはや運命を呪うような気持ちでぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。


理由#75:彼の存在が、わたしの心拍数を危険領域まで上昇させ、生命維持に関わる重大な脅威となっていることが判明。しかし、その対策として彼が提案した『暴露療法』(=デート)を、生命維持という大義名分のもとに受け入れざるを得ない状況に追い込まれた。このままでは、彼との接触が常態化し、心臓が彼の存在に『慣れる』どころか、彼なしでは生きていけない(心拍数が安定しない)ような、究極の依存状態に陥る危険性が極めて高い。その人間としての自律性を喪失する未来を回避し、橘恋春としての独立した生命活動を守るための、緊急かつ絶対的な殺害動機。


……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや生存戦略レベルでの重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、深く息をつきました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの暴走する心臓と未来から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。


わたしは、手元に置いた学習ノート(心拍数グラフが描かれたページ)をぼんやりと見つめました。予測グラフの未来の部分に、小さくハートマークが書き足されているように見えるのは、気のせいでしょうか……いや、気のせいのはずです!


(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……人の生命維持計画にまで入り込んでくるなんて、とんでもない人です。『週末が楽しみ』だなんて……)


彼の、あの嬉しそうな笑顔と、軽やかな鼻歌が、脳裏に焼き付いて離れません。


(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、突拍子もない提案も、わたしの心臓を狂わせる存在そのものも、全部全部、腹立たしいのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、週末の『心臓リハビリ』で、どんな映画を観るのかしら、なんて、ほんの少しだけ……ほんの少しだけ……考えてしまっているのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)


結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を、そして今度は生命の危機感まで弄ばれ、そして……どうしようもなく、彼との週末の「暴露療法」という名のデートに、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……危険な好奇心と、抗いがたい期待を抱いてしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……週末までに、心拍数を計測できるウェアラブルデバイスを準備すべきでしょうか。いえ、あくまで客観的データ収集のためですが!

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