2章 おうもの おわれるもの 1
静音の失踪から丸二十四時間が経過した。
失踪した当の静音は、まだ、失踪した足で逃げ込んだホテルのスィートにいる。
九曜邸から脱出した時の興奮のせいで、静音は一睡もできずにいた。ただ、感じの悪い脂汗だけが肌にまとわりつき、首筋に黒い髪が張り付いている。
スイートのシャワー室は自由に使っていいと龍彦に言われている。ただ、使用するときには、鉢合わせしないよう、一声かけて欲しいとだけ言われていた。
クローゼットには、静音の分と龍彦の分の衣装が数着入っていた。引き出しを確認したところ、静音の下着も入っていたが、これは女性の協力者が手配した品で、龍彦は誓って触れていないと、少しおどけて言われた。
「……シャワーを使わせて貰いますね」
リビングスペースでノートパソコンを使っていた龍彦は、顔を上げた。
「ごゆっくり。洗面には近づかないようにするから」
龍彦の服装も昨夜と替わらない。
「ありがとうございます。でも、龍彦さんもシャワーお使いになるんじゃないんですか?」
静音の言葉が、龍彦の身なりに気づいての気遣いとすぐに理解すると、龍彦は笑う。
「いいよ。僕はまだ使えないから。ゆっくり入って。ただ、最悪の事態に備えて、大きめのバスタオルは常に脇に置いておいてくれると助かる」
「最悪の……事態?」
静音の顔が引きつる。最悪の事態とは、間違いなく、九曜の追っ手にこの場所を感づかれることだ。
「まあ、大丈夫だと思うけどね。九曜邸内の協力者からは、まだ、そんな情報は入っていないから。下着を着ける余裕くらいはあると思うよ」
「!」
龍彦にからかわれた、と静音は思った。昨夜から、静音が不安そうにしていると、こうして静音を本気とも嘘とも付かない言葉でからかうのだ。
「また、私をからかうんですね!」
「うん。貴女をからかうと面白くて」
人の悪い笑顔を龍彦は作る。いたずらがばれた、子どもの微笑み。
「いい加減にしてください。ほんとにもう……」
「うん、いい加減にするよ。貴女を本気で怒らせない程度には」
そういって、龍彦はクローゼットから大判のバスタオルを取り出す。ホテルの備え付けの物に似ているが、二回りほど大きい。
「でも、これは本当。バスタオルは置いておいて。使わないでいいことを祈っててね」
九曜の追っ手を龍彦が予測しきれないことは、本当なのだと静音は感じた。
衣類を脱いで、シャワー室に入る。
そして、温度設定に躊躇した。
《神木の巫女》は身を清めるのに湯の使用を禁じられていた。神木の根方にある井戸の水を直接使うのだ。
「きちんとお湯と備え付けの石けんを使うんだよ?」
龍彦が部屋の説明をしたときの言葉だ。
「今までは、水だったでしょ? でも、もう《神木の巫女》を辞めるんだから。気にする必要はないから」
なぜ、そのことを龍彦が知っているのだろうと静音は思う。《神木の巫女》にとっては常識でも、外部に漏れるような情報ではないからだ。話の流れで聞きそびれたが、そのうち聞いてみよう、と静音は思った。
静音は戸惑いながらもシャワーの温度設定をやや高めに設定する。そして、給湯ハンドルをめいいっぱい開いた。
温度は42度。この季節には熱めだが、芯から疲れ切った静音には、その熱さが心地よかった。
髪を洗い、体を洗う。何年ぶりかの熱いシャワーだ、と静音は思う。
出来損ないの《神木の巫女》の烙印を押された十六までは、禊ぎ以外は湯を使うことを禁じられてはいなかった。だが、神木を維持できない《神木の巫女》は、もっと厳格たるべしとされ、湯の使用を禁じられたのだ。
シャンプーの香り。石けんの香り。これも、静音には久しぶりの匂い。
《神木の巫女》の使用する物は全て無香料。天然素材を人間の手で作った物ばかりで、市販品を使うことはない。それでも香料を混ぜることなど何でもないようだが、それも禁じられていた。不要な香りは、聖域を汚す、と、静音は言い含められていた。だから、無香料の手作り石けん使用というのは、九曜邸に滞在しているときも変わらなかった。
――市販品はよく泡立つわぁ。
ぶくぶくぶく。
静音は楽しくなって、浴槽にボディーソープを多めに垂らし、シャワーで泡立てる。高級ボディーソープはシャワーの熱でみるみる、もこもこの泡の山を作った。
――泡のお風呂って、憧れだよね。
短大の卒業旅行の時もこのチャンスはあった。だが、結局は自粛して水風呂+持参石けんだったことを考えれば、今の静音はどれだけ自由なことか。
泡の山に、熱いシャワーの雨が降る中、龍彦の言葉が鮮やかに耳に残った言葉を思い出していた。
――少なくとも、僕は、貴女が暑いお湯のお風呂に入って、おなかいっぱいおいしいものを食べるべきだと思う。
そう、龍彦は静音に言ったのだ。
「そもそも、おいしいもの、好きでしょ?」
このスウィートに招き入れられて、緊張しきっていた静音の心をほぐすかのように、龍彦はいろいろなことを喋ってくれた。龍彦のこと、この部屋のこと、食事のこと。
そのスピードに今度はついて行けず、静音は戸惑っていたのだが、目の前に差し出された手のひらには、手品のようにチョコレートが一つ載っていた。
過度に甘い食べ物――特に洋菓子を食べることは、静音にとってはタブーだ。
「他にもほら、マカロンも、果汁ゼリーもあるよ。これが本当のスウィートルーム、だね」
ころころと、龍彦の手のひらの上に降ってくるお菓子。三つ、四つと増えて、手から一つ転がり落ちた。
「あっ!」
急いで静音はこぼれ落ちたお菓子を手に受ける。
手のひらには、ピンク色のマカロンがころんと転がり込んだ。
「それはおいしいよ。食べてごらん」
こどもに与えたお菓子の説明をするかのように、龍彦は優しい声で言った。
まるで魔法にかけられたように、言われるままに静音はマカロンを口に運ぶ。
「……おいしい」
「でしょ? 《神木の巫女》はみんなのために祈っているのに、みんなが当たり前のように食べているお菓子も食べられないというのは、何かおかしいと思うんだけどね」
いたずらが成功した子どもの顔で、龍彦は笑った。
「手を出して」
「?」
龍彦は、言われるままに手を出した静音の手のひらに、龍彦の手の中にあった洋菓子を載せて得意そうに笑う。
「それ、全部あげる」
「ええええ、あの……」
「いいじゃない。ずっと食べないできたんだから。今日ぐらいは食べても」
まるでダイエットしてきた女の子に言うみたいだけど、と龍彦は笑う。
「でも、貴女は、明日からも、何を食べてもいいんだよ」
最後の一言だけは、真摯な口調だと静音は思った。
――龍彦さんの言うとおり、なのかしら。
静音は泡の中に肩まで身を埋めながら考える。
《神木の巫女》は皆のために祈る。
《神木の巫女》は清浄でなければならない。
ここまでは、龍彦も同意していた。でも、次に、問題提起をされてしまった。
でも、その清浄って、どういう事なんだろうね、と。
「きれい好きに果てはない。肉食が穢れ、魚食が穢れだ、っていうなら、植物だって命だよ。水は、どこまでが水でどこからがお湯なのか。冷蔵庫で作った氷で作った氷水と、夏の日だまりに取り置いた井戸の水。その違いは何なのか。《神木十家》の人間は考えていないように僕には見える」
最後のチョコレートを口に入れた静音に、龍彦は熱いコーヒーを勧めた。このコーヒーも《神木の巫女》には無論NGだ。
「ミルクを多めに入れるよ」
ミルクも《神木の巫女》にはNG。
その禁忌の塊――たっぷりのミルクの入った熱いコーヒーを、静音はゆっくり飲んだ。
「《神木十家》が無頓着な理由。それは、自分がその《神木の巫女》の禁忌に縛られないからだと思う。人ごとなんだろうね。あれもダメ、これもダメという生活を自分がするわけではないから、禁忌の意味を考えない。実際、由木は、一部を除いて肉食も魚食を禁じていないのだから」
「え?」
静音には初耳だった。
「一部というのは、雛や胎内にいた状態、つまり生まれる前の仔のことだよ。正しく成長させず、美食のために命を浪費するような食べ方を由木は禁じている。タブーはそれだけだよ。だいたい、《神木の巫女》が大地の恵みの祈願者なら、なぜ、その祈願者たる《神木の巫女》が、大地の恵みを享受してはならないのかな?」
龍彦の言うことは正論だった。
「でも、なぜ、龍彦さんが由木神社が抱える知識をご存じなんですか?」
「それは、内緒。まぁ、いずれわかると思うけど、今は話せない」
龍彦はやんわりと拒否した。こういう時、静音は龍彦がただ優しく微笑んでいるだけの人物ではないことを感じるのだ。
随分長い間、静音は浴槽に浸かっていた。
さすがにのぼせる手前まで体が温まったので、出ることにする。少しふらふらするけれど、きっと大丈夫だろう。そう、静音が思った瞬間、世界が暗転した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます