3
この日の深夜。省吾の部屋へ静音が尋ねてきた。他の第三者も伴わず、たった一人で。
「省吾さん」
《要》の部屋には鍵はない。入ろうと思えば、誰でも入ることができるのだ。とはいえ、《要》の部屋だからといって重要文書があるわけでもないので、誰も断りもなく入ったりはしないのだが。
静音は忍び込むように、省吾の部屋に入った。
部屋に明かりはなく、省吾はあのまま突っ伏して眠っていた。泥のように疲れ果てて。
そんな省吾を、気配を消したまま、静かに静音は省吾の寝顔を見ていた。
明後日の晩には、自分は省吾を忘れて、ただの《神木の巫女》になる。
きっと、今まで覚えた家の仕事も、全て忘れて。
それを行うのは、静音の勝手な片想いのせいで苦しんでいた、省吾なのだ。
――私を憎んでくれればいいのに。
静音は思う。出会わなければ良かったのかと。
自分は記憶をなくして、自分の罪を、省吾一人に押しつけて。
――なんて身勝手なんだろう。
省吾は優しい。きっと、苦しんで、苦い思いを抱えたまま生きていく。それが、静音には耐えられない。
一度は思い切った恋なのだ。たとえ、それが幼い時に誓った決心でも、誓いは誓い。誓いを破って、思いに固執したから、酷いことになった、静音はそう思った。
「ごめんなさい」
静音が立ち去って、一分も経たぬ間に、省吾は目覚めた。周囲の気配に違和感を覚えたのだ。どれほど疲れていたとしても、熟睡・泥酔していたとしても、周囲の異変には目が覚めるように体ができあがっていた。
――?
誰かが気配を消して、この部屋にいたように省吾は思う。
だが、この九曜邸の内部において、そのような事をする必要がある者がいるとは考えられない。響なら、入り口で声をかけるはずだ。声がかかれば、さすがに気が付く。
省吾は部屋の明かりをつけた。
部屋に異変がないか、注意深く観察する。特になにかが動かされた気配はない。省吾は五感を《能力者》のそれに切り替えてみた。
視界に何ら変化はない。だが。
ふと、香りが鼻をくすぐる。
花の香りではない。お香の匂いだった。
省吾は、この香りに記憶があった。それも最近の。
集中して記憶をたどる。そして、ふと、思い出した。
――雪の間の香だ。
雪の間に滞在しているのは、誰だったか。
――静音だ。
省吾は、静音がこの部屋までやってきていたことに、ここで気が付いた。
――何をやっているんだ、俺は。
省吾は歯がみする。引き返した静音を追うか、悩んだ。
――追って何になるというんだ?
明後日には、静音は儀式を経て、欠けのない《神木の巫女》になる。そんな静音の未練を増やして、何になるというのだろう。
時が一刻一刻と過ぎていく。そして、夜が明けた。
夜明けの青い光の中を、省吾は雪の間へ向かって歩き出した。
しかし。時、既に遅く。雪の間は引き払われていた。《継承の儀》の為に、静音は《神木十家》の管轄する棟に移動した後だったのだ。
またしても、叶省吾という男は、渡すべき言葉を渡せなかった。
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