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 依子は、明るくて、いつもニコニコしているタイプの女性だった。


 決して出過ぎず、相手を立てる。


 そして、省吾には最悪なことに、裕吾には幸運なことに、依子の声は、静音の声とよく似ていた。


「今日はありがとうございます、省吾さん」


 省吾さん、の一言で、省吾は脂汗が流れる。


 静音に言われているようで、とても心臓に悪い。


「……どうしたんですか? どこかお加減が悪いんですか?」


 ここで、四国の訛りでもあれば、逃げ道があったのだろうが、依子は大学の四年間が東京で、省吾といることもあってか、完璧な標準語で話しかけてくる。


「いや……強いていうと、胃が」


 胃が痛い。省吾は猛烈に胃が痛かった。


 ここまで、神経性の胃痛を経験したことが省吾はない。どれだけ危険度が高い任務であったとしても、胃が痛むようなことは全くなかった。自身の神経は図太いのだと思ってきた。だが、そうでもなかったらしい。


「胃……少し待ってて下さいね」


 依子はそう言い残すと、来た道を戻って、薬局で胃薬とミネラルウォーターを買ってきた。


「これ、飲んでください。……はい、お水」


 依子の気遣いが、一層辛い。


「こんな時に、東京見物なんて、済みません」


 依子が悪いわけではない。それは省吾は十分わかっている。そして、これがお見合いだということを、依子は知らないのだ。


「本当なら、東京に四年間もいたんだから、自分で回れればいいんですけど」


 依子は極度の方向音痴で、大学の四年間も、学業に没頭して、ほとんど遊びに出なかったらしい、ということは、父・裕吾の紹介状に書かれていた。


「今日は、中止して、ホテルへ戻りますから、省吾さんもご帰宅されて、楽になさって下さい」


「ホテルまでは送りしますよ」


「ありがとうございます……でも、大丈夫ですか?」


「……大丈夫です」


 省吾は、依子をホテルまで送り届けてから、痛む自分の胃のあたりに手を当てた。


――悪い子じゃない。むしろ、いい子だよな。


 たった半日でも、依子の長所が見えた。飾らない素直さ。思いやりと気遣い。彼女の家は、資金的に困っていても、この婚姻が成らない場合は、叶家から申し出ている援助を受ける気がない……。


 それでも、静音の顔がちらつく。


 もし、高校の時にあんな形で交流しなければ。


 もし、九曜家に入らず、今の静音に再会しなければ。


 もし。


 でも、それは流れていった時間の中に既に存在することだ。過ぎ去った時間が戻ることがないのは、どれだけ強力な能力を身につけたとしても、同じだ。


――疲れたな。


 九曜邸に帰り着き、自室に戻って着衣もそのままベッドへ倒れ込む。


――本当に、疲れた。


 少しだけ眠った省吾は、着信を知らせる携帯電話の発光を目にした。


 二つ折りの携帯電話を開くと、メールが一通。


『今日はお疲れさまでした。とても楽しかったです。お加減については心配していますから、ご自愛ください 依子』


 省吾は、大人になってから初めて泣きたくなった。

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