第16話
「……ッだぁあああ!」
紅刃が地を裂くように振り下ろされた瞬間、視界から亜蘭の姿が消えた。
次の瞬間には、背後。
紫音は完全に遅れを取った。わずかな足音と空気の揺れに反応して体をひねるが、その動きすら読まれていたように肘で肩口を封じられ、無防備な体勢で地面に叩きつけられた。
「ぐ、うっ……!」
唇を噛みしめながら体を起こすが、足がふらつく。変血量を調整しているため、身体能力も数値上は互角――それでもこの差。まるで技術も経験も次元が違う。
「ね、いい運動になったでしょ?」
無邪気に笑う亜蘭の顔が、やけに遠く感じた。
(……いくらプロでも、ここまで強いもんなのかよ……)
荒巻や梶の言っていた「壁」という言葉の意味が、初めて実感を伴って迫ってくる。
思えば、これまで「ヒルの素質はない」と言われても、戦闘能力だけは自信があった。剣術で三連覇した実績。格上の紅獣相手の実地訓練でもそれなりにやれてきた。
だが、今――その自信は音を立てて崩れた。
「どうした?」
聞き覚えのある声に、顔を上げる。
廊下の奥から現れたのは、両腕を組んだ荒巻だった。いつもと同じ厳しい目をしているはずなのに、不思議と今はそれが優しく見えた。
「ショック受けてるかい。でも、大丈夫だ。あんたは強いよ」
その言葉に、紫音は反射的に反論しようとして――やめた。何を言っても言い訳になると思った。
「かーさん」
紫音は耳を疑った。
「……今、なんて?」
「え、あ、言ってなかったっけ? この人、僕の母さん」
「おいおい、冗談は顔だけにしとけよ」
「ほんとだってばー」
「……仕事中に呼ぶなと言ってるだろ」
荒巻は溜息をついてから、紫音を一瞥し、補足するように言った。
「こいつは白鷺の中でもトップだよ。社内総合順位、六位。1000人以上いる正式所属の現役の中で、上には5人だけだ」
言葉が、地面を這って胸に沈んできた。
総合六位。白鷺総研の中でも精鋭中の精鋭。
(そりゃ……敵うわけねえだろ……)
紫音は悔しさをごまかすように、頭を掻いた。
「そっか……じゃあ、ちょっとくらいボコボコにされてもしょうがねぇよな」
「ん、そういうの大事! 気持ち切り替えて、また頑張ろ!」
亜蘭は笑いながら背中をぽんと叩いてきた。
その手は、さっきまでの容赦ない動きからは想像できないほど温かかった。
紫音は口の中でだけ小さくつぶやいた。
(……いつか絶対、追いつくからな)
* * * * * *
15分後。
室内に配置された通信端末が起動し、壁面のホログラムが淡い青色を灯した。
「全員そろっているな。では始めるぞ」
荒巻が短く言うと、部屋の空気が引き締まった。
詰所の一角に設けられた簡易会議室には、すでに戦闘員たちが集まっていた。室内の
椅子に座ったのは訓練生五名と、白鷺のプロ戦闘員四名。壁際のパネルが光を放ち、衛星地図と共に近隣区域の被害情報が投影される。
「昨晩、紅獣が隣接する村の民家を襲撃した。負傷者三名、うち一名は意識不明。幸い死者は出ていないが、対応にあたった民間保安部隊も一時壊滅しかけた」
表示されたマップが拡大され、森の西側に赤いマーキングが点在する。
紫音の隣で藤森が低く息を呑んだ。
「その後の調査で、この森に通じた重界との接続痕が確認された。三日前の日没直後、そこから吸血鬼がこちらの世界に侵入していた形跡あり。以降、同一地点から毎晩同時刻に再侵入が発生し、眷属による周囲の探索行動が続いていたとみられる」
荒巻がホロマップの時間軸を操作すると、赤いラインが点々と示された。
出現地点と、そこから伸びる複数の移動経路。村へのルートとほぼ一致している。
「昨夜の被害はその末に発生したものだ。よって、本作戦の目的は当該吸血鬼の捕捉
および討伐。そして、出現地点周辺に潜む紅獣の排除にある」
彼女はホロパネルを操作し、吸血鬼個体の外見データと共にランク表を表示させた。
「対象の吸血鬼は“下位四級”。訓練生のため確認するが、吸血鬼は下位・中位・上位
に分類され、それぞれに一級から五級までの格付けがある。今回の個体は下から二番目にあたるが、夜間の戦闘では油断すれば命取りだ」
紫音は思わず息をのんだ。
下位といえど、実戦での交戦はこれが初めてだ。頭の中でいくつかのシミュレーショ
ンを巡らせるが、現実味が薄い。
「プロ戦闘員は四人。私と、亜蘭、そして詰所にいた二人――結城と三田だ」
紹介された二人が軽く頭を下げる。結城は詰所で先に紫音たちを案内してくれた、無
骨な中年男性。三田は結城よりは若く、無口な印象だが、どこか空気が切り立っている。
「また、本日の日中、森を囲むようにバリケードと簡易センサーを設置済みだ。設置以降、通過反応は確認されていない」
ホログラムの地図に、円状に展開された小型バリケードと、点滅するセンサー配置点
が表示された。
「つまり、吸血鬼および眷属、紅獣は全てこの中にいるということになる」
結城が腕を組んだまま無言で頷く。三田は無表情で、ただ淡々と表示を追っていた。
「目標である吸血鬼本体には、昨日まで大きく動いた痕跡はない。侵入地点近辺に留まっていると推測される。行動が限定的なのは、周囲の状況確認が目的だった可能性が高い。警戒しているのか、それとも準備中なのかは不明だが――」
荒巻は一度言葉を切り、紫音たち訓練生の方に視線を移した。
「本体付近には、高確率で護衛用の眷属が集中していると見ていい。そのため
吸血鬼および護衛の討伐は亜蘭と結城に担当してもらう」
ホログラムの西側が赤くハイライトされる。
「それ以外の区域――森の北側および東側では、比較的弱い紅獣が確認されている。出現数も多く、周辺の探索行動と合わせて排除が必要になる。そちらには私と三田があたる」
地図上に、緑のラインがそれぞれの進行ルートとして描かれる。
「訓練生はそれぞれに同行。三田には藤森、笹田、杉岡。私には、蓮見と……浅野」
紫音の名が呼ばれると、自然と背筋が伸びた。
「浅野と蓮見は私についてこい。動きは私が指示する。」
蓮見が、えー、と小さく声を上げかけたが、すぐに笹田に肘で突かれて黙り込んだ。
「作戦開始は十分後。それまでに変血の確認と補給を済ませておけ。戦闘は短期決着が前提だが、状況によっては日を跨ぐ」
荒巻の口調は変わらないが、その一言で場の緊張は一段深まった。
紫音は自分の端末に表示された敵の情報と、ホログラム上の赤い目標点を交互に見な
がら、ゆっくりと立ち上がった。
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