02 2人の8月31日

「うーん、僕はそもそも、人間を大したものだとは、思ってないみたいだからなあ」


 バグぴは言った。いつものように、当たり前の事を当たり前に言う口調だった。


 午後十一時の官公庁街――その裏の事象庁、屋上。手すりに体を預け、ぼんやり、辺りを眺めている。雨に降り込められ退屈しきっている小学生のように見えた。


「……どーゆーこと?」


 隣でアマネは言った。こちらもこちらで、何かが気に食わないけど、それが何かは言葉にできない、それがさらに気に食わない、という小学生のような顔だった。


「前、言ったろ、中国語の部屋、ってさ。自分とAIの違いは何か、って……たぶん僕は、そもそも人間が、結構よくできたAIぐらいのもんでしかない、って思ってた、思ってる」


 その横顔はやはり、なんだか面白くないな、と思っている小学生のようで。近いうち、世界の命運を左右する闘いを控えている顔には、とても見えない。




 事象庁ビルがやがて来るヨシダとの決戦の地に選ばれ、職員たちは魔法をフル活用し、急ピッチで準備を進めていた。そんな中バグぴとアマネの二人はビルに寝泊まりしつつ襲来に備え訓練して過ごし、時折こうして、屋上で二人、たそがれていた。


 裏側から眺める深夜の霞ヶ関ビル街は、奇妙だった。深夜だというのにあちこちのビルにまだ明かりがついている。日本で一番のブラック企業は官公庁、とはアマネもどこかで聞いたことがあったけれど、本当だったのだろう。


 ……もっとも、ここのビルが一番のブラックだろうけど……。


 そう思うと少し笑えた。なにせ、十七歳を死ぬか生きるかの闘いに送り出すため、数百人が必死で働いている。そんな中バグぴに、なんだか大変なことになっちゃったね、私たちが世界の命運を握ってるみたいだよ、なんて話しかけてみたら……あんまり大したことじゃないだろ、なんて具合にさっきの、人間はたいしたことない、みたいな話をされたのだ。それはそれで、頼もしさはあったけれど……。




「でも……でもさ」


 アマネはバグぴの横で、言った。


「人間が大したものじゃなくても、AIと変わんないものだとしても……でも、じゃあ、生きてる意味なんてない、ってことには、ならないでしょ。ご飯を食べればおいしいし、寝て起きたらすっきりするし……夏の夜に、こんな高いビルの上からこんな夜景を見てるなんて、スゴいじゃん」


 そう言うとバグぴは少し笑った。


「うーん、そもそも、僕は、生きてる意味なんてないって思ってた方みたいだからな。というか……別に、いらないだろ、生きる意味なんて。それこそ、ご飯を食べればおいしいし、寝て起きたらすっきりするし……」


 そこでまた、笑う。


Marun venarマルン・ヴェナル dravar thulonドラヴァル・スロロン in silwen gurnolイン・シルウェン・グルノル, 【Durth-Lomarドゥルス=ロマール】〉

《世界を見た。踊る霧たちを見た。輝く灰たちを見た。そして【精霊火】を》

 灰色語と共に、手の中で不可思議な炎が踊る。青紫色の炎はまるで、本当に踊り狂っているかのように、バグぴの手の中ではためく。


「こんな魔法が使えるんだし。意味なんて……別に」


 そう言うバグぴをやっぱり、なんだか頼もしい、と思うことは事実だ。でも同時に、彼と自分の違いがくっきりしすぎて、なんだか少し寂しくなる。


「……君ってさ、ホント……もー…………そういう魔法が使えてるってことはさ、君は、そういう物語を信じてるってことでしょ? 灰色語も流暢で……なのに……なんでそんな、そんな……ロマン、みたいなものは信じないの? 斜めに見ようとするの?」

「そういうのを信じるには、たぶん、記憶が必要なんだろうな。自分の人生に照らし合わせて、呼応するように感じるんだろう」

「じゃあ、これからは感じられるようになるんじゃない?」

「どうかねえ……疑わしいな」

「インターネットの悪霊だったから?」

「ハハハ、だろうね。悪霊は、意味もロマンも信じないぜ」

「じゃあ、これからは違うかもじゃん」

「成仏しないから悪霊になるんだぜ」


 どうにも話が、皮膚の上だけでつるつる、滑らされていく。


「……ねえ、人間ってさ、なんで物語なんか作るんだと思う?」


 じれったくなって、思い切り、踏み込むことにしてみた。隣で少し、バグぴが鼻白むのがわかったけれど、止まれなかった。今まで誰にも言ったことがない言葉でも、彼にそのまま、渡したくなった。


「な、なんだい突然」

「突然じゃない。そういう話だったでしょ」

「そーだったの?」

「そーだよ。だから……ねえ、だって、おかしくない? 嘘だって分かってる話を、みんなでホントのことにして信じちゃうんだよ? それこそ、そんなの、動物はしないし、AIも、AIだけの社会があったら絶対、しないでしょ? なんでだと思う?」


 きっと今自分は、両親が自分の好みとは違うお菓子を買ってきた、幼稚園児みたいな顔をしているだろうな、なんて少し思う。けれど、止まれなかった。バグぴに、言いたかった、伝えたかった。


「きっとね、私は……友だちになるためなんだと思う。どこのどんな人かもわからない相手だって、きっと、同じキャラが好きだったり、同じ漫画の二次創作をしてたり、同じチームの優勝を信じてたり……そういう相手だったらきっと、仲良くなれるでしょ?」


 まだまだ夏だ、夏は終わらないのだ、そう言っているような、生暖かい風が屋上に吹き付け、二人の体を撫でていく。


「ううん、それだけじゃないかもしれない。同じ国の人とか、同じ宗教の人とか……ひょっとしたら、家族とか……そういうので仲良くなれるのもきっと……同じ、ことなんじゃないかな」


 少しの間、沈黙があった。バグぴはなにやら、ぱたぱたと指を手すりに打ち付けて、何かを考えているように見えた。やがて、言う。いつもの少しからかうような口調が消えて、真剣な言葉に思えた。


「それはきっと副作用で、目的じゃあ、ないと思うけどな。君が作家になりたいのは、誰かと仲良くなりたいから……じゃ、ないだろ?」


「あはは、違うけど……でも、でもさ、私は思うもん。私が……私が今まで書いてきたお話は、これから書くお話は、ウソで、ホントのことじゃなくて、現実には起こってない、単なるフィクションだけど、でも、私にとっては絶対、ホントのことでさ……あはは、なんかアマチュアのクセに作家ぶったこと言っちゃってちょーサムいよね、ごめんね」


「……いいよ、そういうの」


「……あはは、ありがと……うん……でも、でもね、読んだ人には、読んでる間だけでも、その間だけでいいから、ホントのことだって思ってほしい、そしたら……そしたらきっと……」


「……君が、報われる」


「………………ううん」


 アマネは、はっきりと首を横に振った。


「私は報われなくていい。そんなのは、全然、どうでもいい。報われなきゃいけないのは、きっと、絶対、読んだ人の方」


「……読者、が?」


「…………ねえ、もし私の作ったウソを誰かがホントだって思ったとして、本当にスゴイのは私じゃなくて、作品じゃなくて、その誰かなんじゃないの? 自分が作ったウソを信じるのって、簡単でしょ。でも、人が作ったウソを信じるのって、すっごい、すごい…………怖いことだと思うんだ」


「そりゃ……まあ……」


「……きっと、きっとね、私……勇気とか、信頼とか、そういうのはきっと、そういうことなんだと……思うんだ。誰かの物語に、ざぶん、って飛び込むこと。もちろんそんなの、いっぱい、いっぱい間違うよ。間違ってきたんでしょ、そんなのは知ってるけど……でも、だからって何も信じない、なんていうのはきっと、人間には、無理だよ。だってたぶん、そんなの、一番怖いから。でも……だからかな。私は、好き。そういうのってすっごく、大切なことだと思う。うん……だから……」


 少し、言いよどんでしまう。けれど、やがて、言い切る。


「だから私は、人間が好き。人間って、すごいな、って思う。大したもんだ、って、思ってる……別に、別に君にそう思って欲しいとは思ってないけど……でも……ねえ、私がそう思ってるってことは、知っておいて、お願い」


 はっきり、バグぴの手をとって、見つめた。

 手の感触は、温かくて、柔らかくて、なんだか泣きそうになった。


「…………なあ、もし君がこれから小説を書いたらさ、一番に読ませてくれよ。約束してくれないか」


 少しの逡巡の後、バグぴは言う。どこか、照れたような顔。


「やっ、約束って……い、いいけど……な、なんで……」


「…………灰色シリーズはさ、作者自身が、寓意で書いた寓話じゃねーんだよありもしねー教訓と比喩を読み取ってんじゃねーバーカ、って言ってるんだけど……でも、あの世界で一番の教訓は何かって言うと……軽々しく誓うな、約束するな、ってことなんだよな、たぶん」


「……はい? そんな話だっけ?」


「いや、ほぼ創世神話の段階、あの世界の。一時の感情から身の丈に及ばない誓いを立てて自滅して後々禍根を残すの。で……まいったな、何言おうとしてたか忘れちゃったな」


「ちょっと、なに? 今さら照れないでくださいー」


「だから……君はきっと、スッゲー作家になるからさ、青田買いしとけばネットで古参ヅラできるだろ?」


「……もー! 真面目に聞いて損したー!」


「あはは、でもまあ……そういうことなんだと思うよ。たしかに、人間ってすげえな、とは、僕も思うよ。でも……そんなのきっと、キリンの首が長いのとか、シャチが速く泳げるのとかと、ピアは円周率数兆桁まで一瞬で計算できるとかと一緒のことで……」


「ううん、だから、あの、別に、君にムリにそう思ってもらおうとかは」


「違うよ最後まで聞いてくれよ、たしかに、僕は君みたいに人間は好きになれないし、スゴイとも思えないけど……でも、君のことは好きだしスゴイと思う。それこそ、キリンよりシャチよりピアより、他の誰より……って言っても……あれだな、記憶喪失だと他の誰、がほとんどいなくてあんま説得力ないね」


 ポリポリと頬を掻くバグぴに、アマネは、一瞬、心の隙間に、手を差し入れられたような気がした。自分の一番奥の、誰にも触れられたことがない場所に、彼の手がそっと、優しく。くすぐったくて、痛くて、痒くて、甘くて、なんだかわからなくて、泣きたくなった。寂しいのに、嬉しかった。生まれて初めての感触に頭が混乱して、けれどだからだろうか、思った。




 うん。やっぱり。

 君は、違うよ。

 だってきっとほんとは、誰より、世界をまっすぐ見てるもん。




 そして、顔を真っ赤に染めながら、ごまかすように笑った。


「あっ、あははは……ふふ、うん、十分。それにほら……アレ……たっ、多様性の時代だし?」


「……え、なんでそんな顔赤いんだ?」


「あ、あのねー、ふつー、ふつーの女子はねー、そういう、すっ、好きとか、そういう……」


 どうしてか、繋いだままの手は、離せなかった。


「……あっ! いやだからこの好きはそういうアレ……いやっ、違っ、あ、いやっ、だから……だっ、だいたい多様性と言った直後にふつーの女子、なんて……っ」


「…………っぷ、あはははははは! もーなにーその顔! 私より真っ赤じゃ~ん! 照れちゃったのかな〜? あれれ~? ロマン感じちゃった~? ロマンスですか~? ロマンタジーですか〜?」


「きっ、君こそ言いながら顔真っ赤じゃないか!」


「あははははっ……ねえ、バグぴ…………もし、もしだよ、ヨシダが来て……」


 繋いだ手を、ことさらに強く握った。


「君は、死なないよ。絶対」


 短く、強く、言い切ったバグぴに、アマネの胸が少し、鳴った。


「……守って、くれるの?」


 少しからかうように、いかに弱々しいオンナノコの口調で上目遣いに言うと、けれど、バグぴは平然と。


「いや、強いから。死なないだろ」


「……君さー、そこはさー」


「だってそうだろ。君は死なないよ。人間のことをスゴいって思ってる、人間賛歌を歌う少女が結局負ける物語なんて、聞いたことある?」


「…………ないかも。やばいじゃん、少女って最強属性じゃん?」


「いやあ、どうかな」


「それより強いのってある?」


「猫」


 ベインブリッジがわざとらしく、二人の足下にあらわれ、にゃごぅ、とわざとらしく鳴き、二人は顔を見合わせ笑った。


「君も、死なないね」


「悪霊はもう、死んでるからな」


「あーもー、ほんと、そういう、なに? 中二病?」


「おいおい魔法が使えるんだぜ、中二病でいいだろぉ……」

 

 夏の風がまた、二人を撫でていく。






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